第43話 あくまでも親友ですから 前半
自室に戻った秋音がまず始めたのは、肌のスキンケアである。
急いで落とす必要がない軽めのメイクだが、少しでも肌の質を低下させない為に必要なことだ。
鞄から両手に収まるような大きい化粧ポーチを取り出してから、部屋の隅にある学習机に腰掛ける。
化粧ポーチからいくつかのクレンジング液とスタンド式の鏡を取り出し、化粧を落とす作業を始めていく。
種類も多く複雑な工程にも関わらず、鏡と睨めっこしながら慣れた手つきで顔を綺麗にしていく。
「――よし」
化粧を落とし終わった秋音は次に頭に付いたシュシュを取り、手入れの行き届いた髪をブラシで髪をといていく。
肩まで伸びるブロンドヘアーを何度も、何度もブラシを往復させていく。
髪は可愛さの命。
だからそこ、この工程は慎重かつ丁寧に行うことを心がけている。
これを毎日。
秋音は帰宅してからこの工程を欠かす事は絶対にしない。
可愛い自分を演出し、日々の研鑽と継続を怠ることはない。
どれだけ時間が掛かろうと、傍から見れば面倒だと思われるであろうことでも。
己の目指す可愛い存在に近づくために、秋音は今日も可愛い存在であり続ける努力を欠かさない。
「うん、完璧」
くせっ毛一つなく、先までサラサラに整ったことを確認して秋音はその場を立ち上がる。
クローゼットからラフで着心地の良いティーシャツを取り出してから上着を脱ぐ。
今日着ていた青のオフシェルダーは色落ちや移りに注意する必要がある服なので、普段の洗濯とは別に洗わなければいけない。
家事全般は黒川が行ってくれるが、万一お気に入りの服が台無しになってはいけないと思い、秋音は自分で洗濯物の種類を分けている。
服は全身の印象を決める最大の要因、ここで変なものを着てしまえばどう頑張っても可愛くはなれない。
着ていた服を部屋の隅に設置してある種類別に分けられた洗濯籠に入れにいこうと、インナー姿のまま部屋を移動する。
「――あ」
ふと、窓に映った。
秋音の思う「可愛いもの」を全て無くした自分の姿が。
化粧を落とした肌は皮膚の厚さが少し際立ち、女性に比べてキメが荒いような印象を受ける。
髪は十分に綺麗でサラサラなのだが、少しでも手入れを怠るとすぐに硬くなりダメになりやすいくせっ毛の髪質。
上半身はやせてスラリと線の細さはあるが、胸や腹周りの骨格はしっかりとしており、少年らしいシルエットが浮き出ている。
総じて、先ほどの秋音の姿に比べて少年らしさ……いわゆる「男の子」という印象がぐっと増している。
「……はぁ」
秋音はその場で立ち止まり、鏡代わりに窓に映る本来の自分の姿を見つめながらため息を吐く。
ここまで努力をしてなお、秋音はある人物には敵わないと思っている。
それは、彼の親友でもある沙癒のことだ。
彼は生まれ持っての『男の娘』だ。
体格も髪質も、その立ち振る舞いすらも。
全てが可愛さの頂点と言っても差し支えなく、もはや性器が付いている事が違和感のある程だ。
どれだけ可愛く自分を形作っても、生まれ持ったものまでは変えられない。
体質や骨格は勿論、油断すれば塞ぎ込むようにネガティブ思考になる性格も。
勿論、これは彼の自己評価である。
他人から見れば、今の秋音も十二分に可愛らしい。
むしろ、性別の境界線が曖昧になる今の姿に興味を惹かれ、性癖を破壊されたクラスメイトが何人も存在する。
それでもなお、秋音は今の自分には満足することは決してなかった。
「――秋音、いるか?」
ドアのノック音と共に聞こえてきたのは、彼のもう一人の親友でもある裕作の声だった。
「ちょ、ちょっとまって!」
驚きのあまり肩を震わせて、ため息で吐きだした空気を再び吸い込むように息を呑む。
中にインナーを着た状態ではあれど、露出度が高い今の姿を見られるは流石に恥ずかしい。
秋音は手に持ったままのティーシャツを急いで着てから、数回深呼吸をする。
「も、もういいわよ」
平常心を取り戻した秋音は余裕たっぷり……のように精一杯振舞う為に、腕を組み大きく目を見開いた状態で裕作を待ち受ける。
すると、隣の部屋に沙癒を運んだばかりの裕作が「入るぞ」と一言声をかけてから秋音の部屋に入室した。
「おう秋音、今大丈夫か?」
「えぇ、構わないわ」
流れるように嘘を付いた秋音は「ふん」と鼻を鳴らしてから、そのままベッドに腰掛ける。
「何の用? あたしまだ支度が済んでないのよ」
さっきまで行ったのはあくまでも最優先でしなくてはいけないこと。
これから化粧水を塗り込んだり、肌の保湿の為に乳液を顔へ染み込ませたり、体を柔らかくするためにある程度の柔軟などをするのが日課である。
帰宅してからこれらのルーティーンを行うことを知っている裕作は「すまねぇな」と一言詫びを入れてから、話を切り出す。
「黒川さんから伝言。支度が終わったら下へ降りてくるようにって言ってたぞ」
「そう、もう十分くらいしたら行くって言っといて」
「了解。んじゃ、また後で……っと、そういえば」
頼まれた伝言を軽く言い終えると、裕作はそのまま部屋を出て行こうとしたが、裕作は何かを思い出したかのように振り返る。
「どうしたの?」
「いや、大したことじゃないが」
裕作はポケットから財布を取り出して、中から数千円のお金を抜いて秋音に突き付けた。
「……なにこれ」
「何って、お金だけど?」
「違う、何でお金なんてあたしに渡すの?」
秋音の疑問はごもっともであり、何の脈略もなく差し出されたものに疑問を抱くのは自然の事である。
そのことを察した裕作は「あぁ」と短く相槌を打つ。
「いや、お前沙癒が倒れた時に色々買ってくれてただろ? そのお金」
沙癒が倒れてすぐ、秋音は購買へと向かってスポーツドリンクや携帯食料などを大量に購入していた。
袋がパンパンになる程のそれらは、決して安い金額ではないだろう。
その言葉を聞いた秋音は今日一番のため息を吐き捨てては、睨むように裕作を見つめた。
「すまん、やっぱ足りなかったな? 明日父さんに言って小遣い前借するから今はこれで――」
「違う」
「ん?」
「要らないわよお金なんて。あたしが勝手にやったことだし」
不貞腐れるように、秋音はベッドに体を預けて天井を仰ぐ。
その反応を見て、居場所のなくなった金を片手で持ちながら裕作は困ったように頭を掻いた。
「第一、あたしカードで払ったから金額なんて覚えてないわよ」
「でも大体ならわかるだろ? なら」
「分かんないわよ! 別に、あれくらいなんともないし!」
秋音にとってあの買い物は本当になんともない出費だ。
そう、財閥ともいえる早乙女家は庶民とは金銭感覚がまるで違う。
秋音は家の教育方針により、ある程度使用するお金に制限が掛けられている。
故に、他の大金持ちの人間に比べれば、秋音の金銭感覚は一般人のそれに近しいだろう。
しかし、気分転換の一環で高級車を買い直す光景や、人混みが面倒だという理由で遊園地を家族だけで貸切るような環境で過ごした秋音にとって、校内の売店に置いてある商品の値段などいちいち確認しない。
それに、どれだけ消費しようが無尽蔵に近い金がある早乙女家には何のダメージもなく、精々出費にうるさい父親に小言を言われるだけで済む。
そんな超大金持ちである早乙女秋音にとって、裕作が今持っている数千円など本当に「なんともない」金額なのである。
「そう言うわけにはいかないだろ」
それでも、裕作は引き下がらなかった。
※中編に続きます




