第42話 普通の一軒家(高性能執事付き)
玄関に入ってまず感じたのは、爽やかで甘い香りだった。
主張しすぎる事のない控えめで、思わず目を瞑って嗅いでしまうような柑橘系の芳香剤が部屋全体を優しく包んでいる。
「お邪魔しまーす! ……やっぱ家の中もすごいっすね」
全員が一斉に入ってもまだ余裕のある広々とした玄関スペースに、何十足と入るである立派な靴箱。
視界の先に続く長い廊下には、それぞれの部屋を仕切るドアはざっと数えるだけでも四、五部屋はあるだろう。
玄関のすぐ右手には二階へ続く階段も見え、外見で見た以上に複雑な構造になっているように感じる。
入って数秒で既に普通の家とは何かが違う雰囲気を感じ戸惑う七海を他所に、
「適当に上がって。あたしは着替えてくるから」
そう言いながら、秋音は適当に靴を脱いでからそそくさと二階へと消えていった。
「適当……っていっても」
困惑の表情を浮かべながら、玄関でポカンと立ち往生する七海。
それもそのはずで、広々とした廊下の先にはいくつもの扉がある。
どの部屋がどこへ通じ、どうなっているかなど見ただけで判断が出来ない。
初めて秋音の家に足を踏み入れた人は皆、まるで迷路の入り口に立たされたような錯覚に陥ってしまう。
「んじゃ、お邪魔しまーす、と」
おろおろと玄関で困った様子で停滞を続ける七海とは逆に、沙癒を抱えた裕作はなんの躊躇なく靴を脱ぎ玄関に上がった。
「七海、そんなとこで何固まってるんだ?」
沙癒を抱えたまま振り向く裕作は、不思議そうな顔を浮かべて問いかける。
「あーいや、なんか入るのも緊張するというか」
「どうした、確かにここは広いっちゃ広いが、そこまで緊張するほどか?」
秋音宅は立派な内装をしているが、入る事も憚られるような高級感に満ちた雰囲気では決してない。
……確かに髪の毛一本落ちていないくらい綺麗なフローリングに、壁にはいくつかの絵が飾られている。
おまけに廊下の所々には高そうな花瓶に花が生けられており、ちょっとした展示会場のようにも見える異質さを放ってはいるが、まだ常識の範疇で留まっているように思える。
何か別の要因があるのかと裕作が思った矢先、七海が「実は」と先に口を開いた。
「僕、年上の先輩の家に入るの初めてなんですよ」
「そうなのか? なんか意外だな」
「そりゃ、僕は少し前まで野球一筋でしたから。遊ぶ機会なんて滅多に無かったんですよ」
朝に野球、昼も野球、晩も野球。
毎日スポーツの為に生活していた七海は中学生まで、休むことなく野球に明け暮れた。
練習が終わっても投球フォームの確認をしたり、走り込みをする日々で、それこそ友人の家で遊ぶという経験がほとんどなかった。
故に、七海は年上の先輩との交流は沢山あれど、家に遊びに行く機会など一切ない。
「そんな緊張する事ねぇよ、秋音も気にしないだろうし」
裕作が「ほら」と顎を引いて合図を送ると、七海はゆっくりと靴を脱いでようやく家に上がった。
「お、お邪魔します〜」
七海が本日二度目の挨拶をした瞬間、玄関から見て奥のドアから黒のタキシードをきた男が姿を現した。
「ようこそいらっしゃいました。夕食まで時間がございます故、どうぞおくつろぎくださいませ」
先ほど車を何処かへ走らせた黒川が、何事もなかったかのように優々とした立ち振る舞いを見せていた。
「え……? 黒川さん、さっき別れたばっかりじゃ」
「ほほ、七海様。驚かれるのも無理はございませんか」
小気味よく笑って見せては、立派に蓄えた髭を触りながら、
「しかし、執事たる者。これくらいは出来て当然ですぞ」
黒川は少し自慢げな表情を浮かべた。
「車は? というかどうやってこの家に?」
「ほほ、七海様。細かい事は気にしてはいけませんぞ」
「ええ……?」
彼がどのようにして先回りを行ったのか、まるでマジックショウを見せられたように疑問を膨らませる。
「裕作様、沙癒様の為に部屋を準備しております。まずはそちらをご利用くださいませ」
「あ、ありがとうございます」
「部屋は秋音様の寝室の隣でございます。場所はおわかりで?」
「まぁ、何となくの場所は」
裕作が「確か二階にある部屋の……」と呟きながら部屋の位置を思い出している最中、隣にいた七海が小さな声で疑問を投げかける。
「先輩、もしかしてあの人忍者の末裔だったり?」
「いや、そんなことはない……はずなんだがなぁ」
そっと耳打ちで投げかけられる疑問に曖昧な返事しか出来ない裕作は、眉をひそめ困った表情を浮かべる。
それもそのはずで、彼とは長い付き合いになる裕作でさえ、黒川という人物のことをあまり理解出来ていない。
秋音が連絡をすればどんな場所でも駆け付け、無茶ぶりな注文もそつなくこなす。
その様子はもはや超人の域を超えていると言っても差し支えない。
「七海様、少しよろしいでしょうか?」
ヒソヒソと話をする二人に割って入るように黒川が話かけると、ピンと姿勢を正して「はい!」と七海は返事をした。
「ここまで来るのにさぞお疲れでしょう。入浴の準備は既に済ませております故、どうぞご利用下さいませ」
「入浴? ……あー、確かに」
黒川の提案を一瞬理解出来なかった七海だが、体育で汚れた自分の服装を見て察する。
「なんかすいません、何から何まで」
「お気になさらず。これが私の仕事ですから」
申し訳なさそうに頭を掻く七海に対し、黒川は軽く頭を下げる。
「何より、男の娘の汗だく体操着を一度嗅いでみたかっただけです」
「え、えぇ!?」
「ほほ、冗談ですぞ。ささ、どうぞこちらへ」
本気か分からない冗談を交えつつ、黒川は浴室へ七海を案内する。
その後ろから当人である七海は、今日一番の警戒態勢のまま着いて行ったのであった。




