第十四話 無名の冒険家
二十年前――
アラン・ベイカーはまだ無名の冒険家に過ぎなかった。名声も富もなく、ただ極限の挑戦に身を投じる日々を送っていた。彼にとって、世界は征服すべき試練の場であり、己の限界を試す鏡だった。
挑戦の舞台はネパールにそびえるアンナプルナⅠ峰。標高八千九十一メートル、世界の八千メートル級の山々の中でも特に危険とされ、登頂者たちにとって常に恐怖の対象となっていた。アンナプルナⅠ峰は、「キラーマウンテン」と呼ばれるほど、死亡率が高く、登山家たちの命を容赦なく奪っていた。天候が急変することは日常茶飯事で、雪崩やクレバス(氷の裂け目)が至るところに潜んでいる。アンナプルナでの死亡率は約三十%。その一つひとつが登山家を試し、時には命を奪っていった。
アランは、かつてエベレストの南西壁を無酸素で単独登頂しようとしたが、途中で断念せざるを得なかった。その時の失敗が、彼の心に深い屈辱を刻み込み、彼は名誉挽回の機会を渇望していた。
誰も単独で登頂を成し遂げたことがないアンナプルナⅠ峰――そこを登りきることが、彼の人生における最大の挑戦であり、自己証明の場となるはずだった。
吹雪が絶え間なく吹きつける中、アランは一歩ずつ新雪の上を進んでいた。
冷たい風が彼の顔を鞭打ち、視界は白い壁のように閉ざされている。
それでもアランの集中力は鋭く研ぎ澄まされ、まさに自分との戦いに没頭していた。
だが、突然の異変が彼を襲う。
「しまった!」
アランは足元に走る不安定な感覚を感じた。
瞬く間に雪が崩れ、彼の右足が深くはまってしまった。凍りつくような恐怖が彼の胸を締め付ける。
「抜け出さなければ……!」
焦りと恐怖が彼の心臓を早鐘のように打たせた。
上体を前へ傾け、なんとかして足を抜こうとするが、雪は彼の下半身をさらに深く飲み込んでいく。
周りの雪を両手で掴もうとするが、そのたびに身体はじわじわとクレバスの深みへ引きずり込まれていった。
「このままじゃ、死んでしまう……」
アランは必死に手足を動かし、足場を確保しようとしたが、冷たく崩れる雪に阻まれる。
意識が次第に薄れ、視界がぼやけていく中、彼の体は深い闇の中へと滑り落ちていった。
クレバスの底がどれほど深いのかも分からない。
その瞬間、アランの心に深い絶望が広がった。
「何も果たせず、無名のまま死ぬのか……」
冒険に賭けてきた彼の人生は、このクレバスの底で終わるのか――その考えが頭をよぎるたび、恐怖が彼を支配していった。
名声や成功を求め、必死に挑んできたアランにとって、無名のまま死ぬことは、実際の死よりも恐ろしいことだった。
彼の叫び声は雪の中に吸い込まれ、静寂がその場に訪れた。
暗い沈黙が続いた。
アランが意識を取り戻した時、彼の目の前に立っていたのは、青い顔をした巨人だった。
その巨人は、静かにアランを見下ろし、優しい表情をしていた。
「俺は、まだ生きている」
周囲の光景は地上のどの場所とも違い、天井も高く、すべてが巨大で、まったく見知らぬ世界だった。
「ここは……どこなんだ……?」
彼はまだ頭が混乱していたが、目の前にいる巨人が優しく手を伸ばし、彼に水を差し出した。
「私の名前はエシャトゥーラ」
その巨人は、テレパシーのようにアランの頭の中に話しかけてきた。
「あなたが深いクレバスに落ちたところを、私が助けました。ここはアストリア王国です」
アランはその言葉を理解しながらも、信じられない気持ちで周囲を見回した。
「アストリア……?」
そこには高度に発展した文明が広がり、彼が知るどの技術よりも遥かに先進的なものだった。何より、そこに住む人々――アストリア人は、全員が三メートルを超える巨人であり、彼の常識を揺さぶった。
エシャトゥーラは、アストリア王国の医者で、彼の命を救い、看病していたのだ。
数日が過ぎるにつれ、アランは体力を取り戻し、少しずつこの地下世界の不思議な文化や高度な技術に触れていった。
特に彼が心を奪われたのは、空を飛ぶ乗り物「ヴィマーナ」だった。
反重力エンジンを使い、地上では不可能な技術を駆使して空中を自由に移動するこの乗り物は、アランにとって未来そのものを象徴するものであった。
アランの心にある種の「野心」が芽生え始めていた。
これまで挑戦してきたすべての冒険は、ここに繋がっていたのではないか――アストリアの技術を手に入れ、それを利用すれば、自分は無名の冒険家から一躍世界を変える存在になれる。
ある晩、アランは決断した。
「これは人類にとって未来の技術だ」
アランの中で今まで感じたことのない野心が燃え上っていた。
アランはヴィマーナを盗み出した。
反重力エンジンの操作方法をエシャトゥーラトゥーラから学んでいた彼は、それを利用して地底世界を脱出し、地底の裂け目から再び地上へ戻ったのだ。
地上に戻ったアランは、盗んだヴィマーナをリバースエンジニアリングでアストリアの技術を吸収し、それを基にファルコ社を立ち上げ、あっという間に世界的な企業へと成長させた。
彼はその成功によって「現代の魔術師」と呼ばれるまでに至った。