65. 戸田恵美子改めエミリー・ウォード
「ふふっ」
隣でスースー眠る旦那様の髪をそっと撫でた。真っ暗な寝室に響いているのは、この人の寝息だけ。寝顔も何も、記憶のまま。
起こさないように寝台から降りてバルコニーに出ると、夏の蒸した空気が少し気持ち悪かった。空を見上げても、月どころか星すら見えない曇り空。
「嫌な気分だわ」
そう呟いた。
バルコニーの柵にもたれかかって、息を吐く。
「久々ね、こんな時間」
いくら年を重ねても、不安や負の感情がなくなるわけじゃない。ただ、管理がしやすくなるだけ。
だからこそ、老化は子供返りとも言えると思う。重ねた年が剥がれていく。理性がなくなって、感情の管理ができなくなって、記憶ですら失っていく。なのに育児と違って介護は終わりが見えないなんてタチが悪い。人がいつ死ぬかなんてわからないじゃない。
……ああ、私は最期まで迷惑をかけずに逝けただろうか。
いや、人間、迷惑をかけずに死ぬなんて無理ね。
「はぁ……」
そもそも、この世界はどうなっているのかしら。西洋かと思えば日本みたいだったり。日本のげぇむの世界だと言ってしまえばそれまでだけれど……私の都合のいい夢だったりして。あの、記憶を思い出した朝のように、起きたらまた戸田恵美子になっているんじゃないかしらと思う私と、逆に戸田恵美子の人生や前世なんて妄想だという私もいる。
「でも……」
そうしたら、ケネス様か健二郎さん、どちらかが存在しなくなってしまう。
それに、”私“はどっちなの、という話にもなる。
あの人の記憶を全部思い出してからというもの、恵美子がよりはっきりしてしまった。今まではぼんやり前世だと思えていたというのに。
でも……私は。
「馬鹿みたいね」
健二郎さんとケネス様、どちらを助けるかと迫られたら、迷わずケネス様を選んでしまうと、ある時気づいた。はっきりと覚えているくせに薄情なのかと自分でも思ったわ。でも、違う。
「私は、エミリー・ウォードなのね」
本能が、恵美子を過去だと言っている。
「ケネス様が好きなのは、恵美子なのに」
料理も、畑仕事も、全部全部恵美子のもの。エミリーだって同じ趣味だけれど、それでも知識は恵美子の方が勝っている。あの人が好きになったのは、今も愛しているのは、恵美子の方。
「生まれ変わるって厄介だわ」
曇りのせいね。曇りのせいよ。
こんなに苦しいこと、考えない方が自分のためなのに。
「……恵美子?」
バルコニーのドアが開いて。懐かしい音が聞こえた。
思わず振り向くと、そこには寝ぼけた……健二郎さん。
「……あなたは誰ですか?」
口から溢れた。
「知らん。でも、お前と一緒にいられればいい」
どうして隣にいないんだ、とむにゃむにゃ言われる。
ああ、違う。違うわ。もう、過去なんだわ。
「ねえ、健二郎さん」
「ん?」
「さようなら。あなたと過ごした日々は、とても幸せでした。ありがとう」
「…………ああ。俺もだ」
抱きしめあって、別れた。
過去は過去、今は今なのだから。わざと分ける必要はない。忘れる必要もない。人間っていうのは不思議なもので、時が勝手に解決してくれる。
でも、踏ん切りをつけることも大事だから。
「ほら、お布団で寝てくださいなケンさん」
「ん……」
「んもうあなた図体が大きいんだから押すのも引くのも大変なんですよ」
戸田恵美子改め、エミリー・ウォードは、旦那様を必死に押して部屋に戻る。
気がつけば月が雲から顔を出していた。




