42. ごめんなさい、ケネス様
「な、なんで……」
「婚約者と大事な日を過ごしたいと思うのは変か?」
「い、いいえまったく」
ケネス様の伯爵家仕込みの流れるようなエスコートでそのまま歌劇場の席へ。
私は頭が真っ白になった状態で、演目などの説明をされても理解できず。
「……そろそろ始まるな」
あたりが暗くなって、舞台が幕を開ける。私はやっと落ち着きを取り戻し、小さくため息をついた。
横を見ると、舞台に夢中になっているケネス様。ああ、懐かしい。あの人も、こんな横顔で映画を見ていた。
思わず小さく呟いてしまう。
あなたが私を好いてくれているなんて、これっぽっちも気づかなかった。気付けなかったの。
*
『ごめんなさい、遅れてしまいました』
『……別に待ってない』
結婚して、田舎から出てきて、ほんの少しだけ、東京に住んでいたことがあった。隙間風の酷いボロアパートでも、気にならなかったような、そんな時分。
たまに、映画を見にいくことがあった。あの人の仕事終わりに待ち合わせをして、何本か立ち見して帰る。そんなでぇと。携帯なんてない時代、あの人が早く仕事を終えてしまってポツンと待っていたり、私が待ちぼうけしたりだったけれど。
あの人は映画が大好きで、私は映画を見ているあの人の横顔を見るのが好きだった。
『……どれが見たいんだ?』
『じゃあ、これを』
でもなぜかあの人は私の方が映画好きだと思っているようで、よく私に選ばせてくれた。だから、あの人が前に見たいと言っていたものを選ぶ。私が見たいのを選ぶより、あの人の見たいのを選びたかった。これが愛情なのかしら、なんて思っていたのは秘密だ。
『もう、始まってるな』
『最初の部分だけ、次の回にお邪魔しましょうか』
今はこんなことはできないけれど、当時は席の指定なんてなくて、好きな時間に入って、好きなところで見れた。大抵、席は埋まっていて立ち見だったけれど、あの人の隣なら、どこでもよかった。
『……銭湯はまだ空いているだろうか』
『これならまだ間に合いそうですよ』
映画が終わって、二人で家まで帰る道が、何よりも好きな時間だった。
見た映画によってちょっとずつ感情の違うあの人はとても愛おしかった。楽しい映画を見れば、少し声が高くて。悲しい映画を見れば、目が潤んで声が少し揺れていた。初めて見た時の驚きは忘れられない。普段はあんなに無口で冷静なのに、こんなにも感情移入する人なのねって。
『どうした?』
『いいえ、なんでも』
私は、あの人と結婚して、怒ったことや悲しかったことはたくさんあるけれど、後悔は一つもなかった。
*
「ッ!」
白昼夢ってこういう感じなのね。
目を開けたまま、意識だけがどこかに飛んでいたようで。いつのまにか劇はクライマックスになっていた。
そして最後、主人公とヒロインは死に別れ、幕は閉じられる。
「……よく出来ていたな」
「そうですねぇ」
少しだけ、涙ぐんでいるのを、私は嬉しく思ってしまった。
「食事でもしてから帰るか」
「せっかく来たんですもの。他に済ませられそうな用事などは大丈夫ですか?」
「……ペンの修理があった」
「じゃあ、それからご飯にしましょう」
ごめんなさい、ケネス様。
「ああ、そうしよう」
私は、あなたにあの人を重ねている。