アンダンテ
アンダンテ
まだ午後四時半だというのに窓の外は夕日が映えていた。鱗雲の西側が赤に近い橙に染まっている。
帰宅ラッシュの二、三本手前のこの電車は客も少なくまばらだ。オレたちのいる車両には、ドア付近に一人座っているだけだった。
乗り込んでから二駅目。同じ駅で降りるナオキが隣で眠そうに船を漕いでいた。確か、レポート課題が終わらずに徹夜をしたと言っていた。
――だから、締め切り一週間前にあんなに確認したのに……
ギリギリまで課題をやらない癖はまだ直らないらしい。小学校のころからナオキと友達だが、高校生になってまで直らないとなると一生の癖になっているのだろう。もう、ナオキに課題のことであれこれ言うのはやめよう。ナオキの面倒なものは放置という癖を改善させるには、もっと口やかましくて的確に根本的なところを叩き直すような言葉と行動を持った人物が行うべきだ。オレの力では、直すことなんて到底できそうにない。
奴の頭が、かくりと落ちて目を開けた。電車の振動も眠気を誘うのだろう。眠そうに何度も瞬きをするナオキを見ながら、溜息が零れてきた。少しずれた眼鏡を直し、停車した三つ目の駅名を確認してから声を掛けた。
「まだ駅まで時間あるから寝れば?」
「……んー、でも、それだとアキが暇だろ?」
「眠そうなナオキに話しかけても全部子守唄になるだろ」
「確かに……」
寝ようかなー、と呑気に言ったナオキが身じろぎをして、ポケットから音楽プレイヤーを取り出した。同じ高校でもクラスが違うので行き帰りくらいでしかこいつに会わなくなったが、どうやら単独行動を好むナオキの必需品となっている物らしい。オレは音よりも活字に走るので、文庫本を常備しているためそういったたぐいのものをよく知らない。たぶんこれは、某リンゴマークの製品だろう。
「じゃあ、アキが寂しくないように片耳だけ貸してやろう」
「別にいいよ。聞きながら寝てろよ」
「何だよ、おれのオススメが聞けないってーのか」
いかにも怒っています、といった表情でイヤホンを一つ渡してきたナオキはそのまま再生ボタンを押して目を閉じてしまった。
――押し付けにもほどがあるぞテメェ
口には出さず、睨み付けるだけにした。押し付けるだけ押し付けてさっさと思考を切り替えるナオキにいつも置いていかれるが、オレもナオキを置いていくことはよくある。そう、これはいつものことだ。こいつと一緒にいるのは、何だかんだ言って互いの距離をわかっているからだった。そして、こうなったナオキに何を言っても通じない。鞄から取り出そうとした文庫本に手をかけたまま、もう一度溜息を吐いた。
肝心なのは諦めだ。友達でいて、楽だとも、たのしいとも思うのは、この距離があるからこそだった。
鞄の上に置かれた黒いイヤホンを耳に付けると、意外なことにやわらかい音が流れていた。ナオキのことだからロックが鳴っていると思ったが、耳に伝わる振動は優しいインストだった。
何か言おうと思い隣を見たが、すでにナオキは頭を垂れて眠っていた。
――ナオキだからなぁ……
寝るのも早い友達を見ながら、溜息すら出なくなった。
ふと、よく言われる、何であいつと友達なの、という言葉を思い出し、ナオキだから友達なんだよ、と返すべきだったと後悔した。あの時、苦笑いで答えたオレを殴りたい。きっと、クラスの誰よりもオレのことをわかっているだろうナオキは、ちゃんとオレの放って置いてほしいときに放って置いてくれる良い友達だ。それは一緒にいる時間が長いからわかっているのではなくて、最初から距離をわかってくれている友達だからだ。
取り出そうとした本から手を離し、もう少しだけオススメを聞こうと思った。
眼鏡を外すと、窓の外の夕日は赤色が増していた。
了