力という概念の放棄【イシス・エニア・アポスタシア】
「【覇王アシャ】――?」
今にも倒れ込んでしまいそうなほど辛そうに幼い顔を歪め、少女は小首を傾げる。
「そんなことよりお前――【神秘斬滅】の能力を持つらしいな――?」
こくんと、ミズホは無言で頷いた。額から流れる一筋の鮮血が雫となって滴り落ちる。
「そうか――ならば小娘、無様に倒れるその前に、【神秘斬滅】を用いて、この右腕の枷を【断ち切って】みせよ」
「あなたの右腕の枷を――?」
「この魔枷――【夢幻拘束】は、単に俺の四肢を縛っているだけではない。俺を王たらしめた【絶対覇王の力】をも封じ込めている。いかなる手段をもってしても解き放つことなどできなかったこの魔枷――断ち切るという概念そのものである【神秘斬滅】ならば断ち切れよう――?」
アシャと名乗ったショウマの身体は、右腕とその手首に嵌められた枷とを少女へと突き出してみせた。
「その封印――とても危険なものだと聞きました」
剣を握り締めながらも逡巡するようにミズホは呟く。
「小娘、お前も死にたくはないのだろう?」
怪物の足音は二人の間近に迫っていた。
少女は横目で、全身から蒸気を噴き出しながら一歩一歩近づいてくるドミジウスの姿を見た。ゆっくりと燃える拳を振り上げようとしている巨体に、ミズホは幼い顔に似合わない舌打ちをした。
「わかりました――背に腹はかえられないってやつですね」
そう呟き終えるよりも早く、少女のツインテールは透き通るような白へと変化した。
ミズホは肉眼では追いきれない程の素早さで剣を振るっていた。
白い斬撃は、アシャと名乗った少年の右腕を掠め、そこに嵌められた手枷【夢幻拘束】を【断ち切った】。
「グルルルル――何をしている――! その脆きカラダ――灼き潰す!!」
ドミジウスは二人の眼前まで迫っていた。怪物は黒々とした鋼鉄の右腕を振り上げていた。そして、少年と少女へ目掛けて勢いよく振り下ろす。
ミズホは思わず身を縮め、目を瞑った。
しかし、振り下ろされたはずの怪物の拳が、少女の小さな身体を灼き潰すことは無かった。
大草漠に沈黙が落ちた。
「どうした――その程度か――? 貴様――それでは、ただ図体と態度がデカいだけの【ウスノロ】だぞ?」
短くも深い沈黙を破ったのはアシャの声。
少年の声を聞き、ミズホは恐る恐る目を開き、それを見上げた。
アシャは【右腕】で、怪物の拳を受け止めていた。
「ショウマさん――いえ、アシャ――さん。その腕は――?!」
少年の【右腕】は膨れ上がり、太く屈強なものへと変化していた。
異常なまでに盛り上がった筋肉が犇めき、その隙間を縫うようにマグマのような紅い筋が無数に走っている。
それらの紅い筋は何倍にも膨れ上がった腕を包むように広がっており、肩の辺りで集まり渦を巻いている。その肩の上にはうっすらと、ネオンのように光り輝く魔法陣のような、赤の模様が浮かんでいた。
「小娘――何をボサッとしている――どいていろ」
アシャは煌々と金色に輝く眼差しでドミジウスを見上げたまま、怪物の太い鋼鉄の腕を、灼熱に灼けた拳を、軽々と受け止めながらミズホへと言った。
「えっ――? あっ、はい」
怪物と同じかそれ以上に太く屈強に筋肉の塊のように膨れ上がり、滾るマグマのように紅く染まったアシャの右腕を呆然と見つめていたミズホは、その一言で我に返り、その場から飛び退いた。
「グギギギギ――何だ――キサマ――我が拳を――受け止め――?!」
自身の攻撃を予期せずに止められ、ドミジウスは軋むような轟音を響かせる。
「受け止めるだけ――と思ったか?」
ミズホは見た。アシャがそう呟くと同時に、口の端を引きつらせるような笑みを浮かべるのを。
次の瞬間、ドミジウスの腕が粉々に砕けた。
続いて、ドミジウス自身の巨大な身体が弾け飛ばされるように吹っ飛んだ。
アシャの【右腕】からは煙が上がっていた。
腕を這うように走っていた紅い筋は、内部に何かのエネルギーを湛えているかのように流動し、それと連動するかのように、肩の上に浮いた魔法陣のような模様は強烈な紅い輝きを放っていた。
「フ……フハハハハ……!」
アシャは嗤った。そして言い放った。
「バラバラに砕けおったか。だが、それも当然。最強の覇王である俺に軽々しく触れるなど、万死に値するのだからな――!
さて――我の力は解き放たれた。今宵は貴様ら下級の者どもに、俺の【覇王の力】見せてくれようぞ!」
○●
「グルルルル……キサマの……チカラだと……?」
砕けた腕からボタボタと黒々とした粘液を滴らせながら、ドミジウスは唸った。
「そうだ……絶対覇王と呼ばれた、俺の力……封印されていた真の力」
アシャはそう言い放ち、巨大な【右腕】を前へと掲げて見せ、そして続けた。
「右腕の赤き枷に封じられしは【力という概念の放棄】……この世のあらゆる力を凌駕するがゆえ、【力】という概念そのものの意味を失わせる、絶対的な物理法則……それがこの【右腕】」
「ガググググ……! ありえん! キサマごときが、魔族であり、四天王である我の力を上回るなどありえん……!!」
ドミジウスは怒ったように一頻り唸る。その途端、砕けた方の腕が炎を纏った。炎によって砕けて短くなった腕の先端が溶けて伸びていく。巨体がぐいと腕を振ると、そこには砕ける前と寸分違わぬ屈強な拳が再生していた。
「ほう……腕を戻したということは、もう一度、【力比べ】でもするつもりか?」
嘲るような口調でアシャは言う。
「グガガガガ…!! 灼け潰れろ! オロカなニンゲンよ!!」
ドミジウスは奇声と身体の軋む音とを響かせながら、アシャへと燃える拳を再び振り下ろした。
アシャは無表情のまま、右腕の掌を広げ前へと突き出す。腕を這うように走る筋が紅く輝き、血流のように光を流す。と同時に、肩のあたりに浮いた魔法陣もまた眩く紅い光を放ち出す。
紅く太い掌と、燃える鉄の拳がぶつかり合う。
「グ……グ……グググ……なぜ……潰れぬ……!?」
アシャの紅い右腕は、その掌は、ドミジウスの振り下ろされた拳を微動だにせず受け止めていた。
「どうした? この程度か?」
煽るようなアシャの口調に、ドミジウスは激昂し、全身の隙間という隙間から蒸気が噴き出した。
「アガガガガ……! 【蒸気連撃弾】!!」
ドミジウスは叫ぶ。と同時に腹の隙間から深く濃い水蒸気が噴出した。それは白い拳のような形を形作り、敵を殴打し吹き飛ばさんと、矢のような勢いでアシャへと飛んだ。