怒りの【僕】と焦燥の【俺】と
薄暗く冷たい広間の中央で、小さく白い少女がもがいている。
その身体は縛られていた。鈍い銀色をした無数の鋼索によって。四肢に絡まり、首に絡みつき、透き通るような白い皮膚へと容赦なく喰い込んで。
「あ゛ぅ――ゔぅ――だずげで――」
少女は涙に濡れた呻きを漏らしていた。
それは、声にならぬ声。言葉の代わりにダラダラも口元から溢れ落ちていくのは、止め処ない涎と嗚咽。
死にかけの魚のようにパクパクと開閉される少女の口元。
ビクビクと苦しげに痙攣しながら、少女はこちらを見た。涙に溢れる瞳で、縋るような眼差しで、少女は絞り上げるような悲鳴を上げていた。
「だ――だずげでっ――あ゛あ゛ゔっ――アシャさん――だずげで――!!」
救いを求める叫び声と共に伸ばされる腕。小さな手。細い指先。
彼もまた、思わず手を伸ばす。だが、それが少女の手を掴むことは無かった。救いを求める少女の腕は――その時、既に、無惨にも弾けていたから。
「い゛っ――い゛や゛あ゛ぁぁぁ゛――ッ!!」
少女の泣き喚く声。彼自身の驚きの声。すべてが混ざり合って、彼の思考を暗転させる。
そこで、ショウマは悪夢から目覚めた。
〜〜
「――ミズホちゃん――!」
叫ぶと同時に、ショウマは飛び起きていた。
首筋を冷たい汗が伝い、胸元が激しく鼓動する。先程まで見ていた悪夢の中の金切り声が残響のように頭の芯を揺さぶり、その指先を震えさせる。
「ちょ――ちょっと、ショウマくん、大丈夫――!?」
呼びかけてくるナルの声で、ショウマは我に返った。
「――ゆ、夢――か――?」
噛み締めるように呟き、倒れていた身を起こし、ショウマは近くに立つナルへと視線を向ける。魔術師の少女は所々が破けて薄汚れた法衣のまま、身体のあちこちについた擦り傷を露わにしながら、しかしそんな自分の格好には一瞥もくれずに眼前に立ちはだかる城壁のような建造物を見上げていた。
「うなされてるから心配したよ――それに随分とお目覚めが早いね。夢幻拘束を――封印の枷を断ち切った後は、いつも半日くらい眠っているのに――あれからまだ3時間くらいしか経ってないよ。こんなに早く目覚めるなら、魔力を消費してまでここまで運んでこなくてもよかったかな――」
城壁に向き合ったまま、ナルは顔だけを動かして自身の肩越しにショウマを見る。その眼差しは、細められた瞳は、不安と焦燥とが綯交ぜになっているかのように揺れていた。
「あれから、3時間――? いや、ミズホちゃんが連れ去られたのに、これ以上ゆっくり寝ていられるわけにはいかないから。そんなことより、あの娘は――連れ去られてからもう3時間も経っているなら、一刻も早く助けないと。あの魔族はミズホちゃんの神秘斬滅の能力を欲していた。ここままだと、何をされるかわかったもんじゃない」
ショウマの脳裏を、先程観た悪夢が過ぎる。鋼索に全身を縛られる少女の姿が。強烈な力で締め上げられ、悲鳴を上げて弾ける白い身体が。彼はそれが透視や千里眼などではなく、単なる幻視に、思い過ごしに過ぎないことをただひたすらに願っていた。
「うん、それはわかってる。でも、差し当たっての問題は、これだよ」
ナルは頷き、見上げる城壁を指差した。
「あの娘に持たせた魔術通信の残留素子と、四天王クラスの強力な魔力反応から考えると、ミズホちゃんを連れ去った魔族は、たぶんこの城壁の先にそびえてる城にいると思う――でも――」
言いながら、ナルは指先をピンと立てた腕を伸ばす。
バチンッと弾けるような音が響き、ナルの身体が大きくのけぞった。よろよろと後退り、しかしすぐに体制を立て直した彼女は、渋い顔をショウマへと向ける。
「――問題は、この結界だよ。この城壁に沿うように領域・不蝕という結界が展開されていて、これより先には入れないようになってる。まずはこれをなんとかしないと、ミズホちゃんを助けに行くことは出来ない――」
「そ、そんな――その結界をどうにかできる目処は――?」
「うーん――、これはAクラス相当の結界だから――あたしの魔術だと半日がかりで拳くらい大きさの綻びをつくるのがやっとだね――結界さえなんとかできれば、こんな城壁くらい風と水の属性魔術の組み合わせで、たやすく風穴を開けられるんだけど――」
ナルはふるふると首を横に振ると、再び忌々しげに城壁を見上げた。
「こんな時、もっちーがいれば――神秘斬滅なら、こんな結界だろうがなんだろうがサクッと断ち切れるのに――」
「それは、そうだろうけど――なんとか、ミズホちゃんがいない中で、この結界を通り抜ける方法を見つけないと――急がないと、あの娘の命が――」
焦れたような口調でショウマが呟きかけた、その時――。
ガタリ、と背後から物音が響いた。
ショウマとナルは同時に振り返る。
「こ――これは――非道い――なんてことを――」
その光景を見たショウマは、目を剥き唖然としたような声を上げる。
いつの間にかそこには、無数の屍傀の群れが、路の幅いっぱいに犇き蠢いていた。四肢の先端が引き千切られた男の屍体。胴の腐り抜けた女の屍体。頭部が半分朽ち落ちた子供の屍体――いずれも声にならぬ呻きを漏らしながら、じりじりと獲物を喰らわんと這いずり寄ってくる。
「くっそ――結界の突破どころか、生き延びることすら難しそうだね、こりゃあ――」
ナルは言いながら腕を伸ばし、指を伸ばした。その指先が魔術の炎に揺らめく。魔術師の少女は金髪の髪を振り乱しながら、屍傀を灼き滅する詠唱を諳んじようと口を開いた、その刹那――。
「灼き還せ――!」
鋭く空に響く少年の詠唱。途端に稲妻のような炎が走り、屍傀の一体をたちまちの内に炎で包み込んでいた。
「えっ――?! しょ――ショウマ――くん――? あなた、魔術を――?」
突然の出来事にナルは驚きの声とともにショウマの方を見やった。
ショウマはその黒い瞳を細め、眉を潜めて、震える指先を屍傀の群れへと向けている。続けてその口から放たれた声は、その口調は、その指先の震えが恐怖からくるものではないことを、純粋な怒りからくる震えであることを雄弁に物語っていた。
「許せないな――」
ぽつり、とショウマは言葉を放つ。
「――そう、僕は許せない――。人間をこんなふうに玩具のように扱って――その屍すらも、好き勝手に操って――。
だから、あの魔族は許されない。ミズホちゃんを助けて、二度とこんなことができないように倒さなきゃいけない――」
静かに呟き続けるショウマの姿を訝しげに眺めるナル。しかし彼女は吹っ切れたように頭をブンブンと振ると、少年と並び立ち、迫りつつある屍傀の大群に向かい合った。
「あなた、本当にショウマくん――? なんだか人が変わってしまったみたいだけど――まあいいわ。今はそんなこと気にしてる場合じゃないものね。でも、炎魔術の使い手が多いのは助かるけれど、それにしたって相手はこの大群――2人だけで相手をするにしたってチト厳しいよ――?」
「それでも、敵だって無限に湧いてくるわけじゃない。封じられたままでどこまでいけるかは心許ないけれど――だからといって、こんなところで足止めされている場合じゃない――そう、やるしかない。
だって僕は――あの娘を、また死なせるわけにはいかないから――」
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