奪われた少女【チカラ】
「ゔっ――ゔゔゔぅぇッ――!」
嘔吐くような女の声に、アシャは眉をしかめて振り返った。
「ほう――下半身は完全に滅したはずだが――」
リツルミは身を起こしていた。ぜえぜえと肩を揺らし、長く湿った黒髪を振り乱し、女は怨嗟に満ちた眼でアシャを睨みつけていた。灼き消された下半身は微塵も存在せず、引き千切られた胴の断面から触手のように生える無数の屍惨鋼索だけが、ふらふらとその身を支えていた。
「ふははははっ――やるじゃない、枷の男――! このわたしの肉体をここまでズタボロに壊してくれるなんてっ――!」
「言わなかったか? 貴様は喋りすぎだと。いや、もはや貴様などどうでもいい。とっとと小娘を返してもらおうか――」
「ふんっ――そんなの、認められないわぁッ――!」
近寄ろうと一歩を踏み出すアシャを拒絶するかなように、女は金切り声を上げる。
その途端、リツルミの背中から黒い翼が生え伸びた。その黒翼は、刈首鷲のそれとまったく同じもの。彼女は鋭利な鎌の如き翼を跨げ、近づいてくるアシャを牽制するかのような姿勢を取ると、勢いよく黒翼を羽ばたかせ空へと飛び上がっていた。
「ふふふふっ――こんな時のために、刈首鷲の一部を背中に仕込んでおいて正解だったわぁ――」
リツルミは上昇していきながら、血の色のような唇を歪めて不気味な笑みを作っていた。アシャを見下ろし、吐き捨てるように言葉を投げる。
「いいわ――枷の男。前哨戦の勝ち星はあなたにくれてあげる。でも、これでわたしに勝ったとは思わないことねぇ。だって、さっきの戦いは奪ったばかりの超光加速の能力を試してみただけに過ぎないんだもの。
そして、ハッキリしたわ――あなたは超光加速の疾さにはついてこれない。わたしが油断せず、先程のような不意打ちにさえ注意したならば、もはや、あなたに勝ち目は無いわ――ねえ? うふふふっ」
「などと言いつつ、逃げるつもりか貴様」
「次は万全の態勢で、あなたを殺さなきゃいけないからねぇ。それに、せっかく新しい玩具を生け捕りにしたんだもの――まずは、それを愛でるのが先なのよねぇ――」
「――小娘のことか。貴様、あれをどうするつもりだ」
「それこそさっき言ったでしょう? 神秘斬滅の能力を持つ少女――その小さな身体を――そこに秘められし希少能力を――心ゆくまで弄りまわすのよ――くふふふっ――」
恍惚とした表情で嗤い震えるリツルミ。女の身体は瞬く間に遥か上空へと移動しており、アシャですらその表情を視認できぬ程にまで離れていた。
もはやアシャの手も、その攻撃も、届かない。屍惨鋼索の無数に生え垂れた胴体の断面よりポロボロと剥がれるリツルミの肉片だけが、見上げる少年を嘲笑うかなようにヒラヒラとその足元へと落ちてくるだけだった。
「くっ――待て、貴様――!」
分厚い雲の奥に消えていく女へと、アシャは思わず声を上げる。その時、右腕に激痛が走った。身体が、その痛みを中心にして重みを帯びていく。意識が、その右腕を中心にして引き込まれていく。感覚が、段々と遠のいていく――。
それは、右腕の封印――夢幻拘束が復活の時間を迎えていることの合図に違いなかった。事実、少年の右腕の手首には喰い込むような光の輪が出来て、赤黒く妖しい輝きを放ち始めていたのだから。
「うぐっ――なるほど、もう時間か――だが、このままでは――終わらせぬ――」
沈んでいく意識。暗くなっていく視界。力が抜け、倒れていく身体――。
「このままでは、小娘が――」
黒く塗り潰されつつあるアシャの脳裏に、不意に少女の姿が過ぎった。
――あなたとともに戦いたかった――もし、次があるのなら――。
白銀の髪に、小さな身体。触れたら消えてしまいそうな、儚げに澄み切った肌――その少女は、あどけない顔立ちをこちらへ向け、哀しげに微笑んでいた。
真っ直ぐな、しかし物憂げな瞳。やわく噛みしめられた唇。そこまで認識して、彼はふと思った。まるで――のようだと。彼は無意識のうちに、脳裏に佇む少女へ、ミズホの面影を重ねていた。そしてそれは、驚くほどピタリと重なりはまっていた。
――もっと早く気づくべきだったのかな――この巡り合わせが呪いだったことに――わかっていたなら、こんなことになる前に、断ち切ることだって出来たのに――。
薄れゆく彼の意識の中に浮かんでいる少女は、訥々と言葉を紡いでいる。
彼は思う。思い出している。この光景を、どこかで見たことがあると。この言葉を、どこかで聞いたことがあると。
――そうだ――今からでも遅くはない――、私の――この想いだけを――この身体から――そして、いつか――。
少女と視線がぶつかる。暗く笑みを浮かべ、じっとこちらを見据える白い少女。そこに、真っ黒な泥のようなものが降り注いでいく。
いや、違う――これは、この真っ黒な泥は、自身の意識が途絶えつつあることの現れ。黒に埋もれて消えていく少女の姿を眺めながら、彼の朧気な思考は回る。
これは幻覚でも、想像でもない――この少女を自分は知っている。この少女が、かつて放った言葉を知っている。この少女が、何をしたかを知って――。
――そうだ、あの時、この少女は――を――して――。
「あの小娘――そうか――だから、そうだったのか――ならば、なおさら――あれをまた死なせるわけにはいかぬな――」
しかし独りごちながら、アシャは倒れる。見開かれた金色の瞳はゆっくりとその色を失っていき、彼の意識は深淵の闇の中へと沈んでいくかのように、ずぶりと底無しの沼に嵌っていくかのように――ぶつりと途絶えた。
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