屍惨鋼索【メルギトゥル・ワイヤー】
四天王リツルミと名乗った魔族は、ビルのような建造物の上にふわふわとした足取りで佇んで、アシャを見下ろしていた。
魔族でありながら、その姿は人間の女そのものだった。
生温い風に、膝の辺りまで伸びた黒髪と身に纏った純白の貫頭衣とが、はらはらと揺れている。血の気の無い灰色の顔貌は、しかし色味が無いが故にかえって人間の女性以上の妖艶さを匂わせ、鮮血のように真っ赤なルージュの引かれた唇を際立たせている。歪んだ口元から覗く白い歯と血色の口紅との配色は、張り付いたような不敵な微笑の奥に、不気味な酷薄さの片鱗を浮かび上がらせていた。
「やはり、四天王だったか――屍体の中に潜むなど、今までの四天王以上に悪趣味極まりないな貴様」
「ふふふっ――ご挨拶ねぇ。でも、おかげで目的は果たせたわ。あんな筋肉の塊であることしか特徴のないゴミのような屍体であっても、使い方によっては少しは役に立つものねぇ――あなたの気を逸らすことくらいはできたもの」
「狙いは小娘だな――あれを拐って、どうするつもりだ」
訊きながらアシャは右腕を振りかざす。上腕の筋肉を這う紅い筋がグォングォンと唸るような音を発し、肩に浮かんだ魔法陣から溢れるエネルギーを流動させる。
「簡単よ。あなたの力を縛る枷――夢幻拘束を断ち切ることができるのは、あの娘の神秘斬滅以外には存在しない。あの娘がいなければ、あなたはもうその力を使うことはできない――」
「その作戦は無意味だ。何故なら、我が力は既に解き放たれている。そして貴様は――その我が力によって、今ここで死ぬ――【爆滅せよ】――!」
詠唱と共にアシャの右腕から赤々とした熱波が放たれた。熱波は一瞬うちにリツルミへと達し、彼女の立っていた建造物ごと灼き尽くし、跡形も無く消滅させる。
「ふふっ――何をそんなに焦っているのかしら――?」
背後から投げかけられる女の声。アシャが咄嗟に振り向こうとしたその時、彼の両腕に何かがグルグルと巻き付き、その身体を拘束していた。
「ぐっ――貴様――!」
アシャは忌々しげに吐き捨てる。その背後にあるのはリツルミの姿。彼女は一瞬のうちに建造物の上から姿を消し、覇王の背後を取っていた。だらりと広げた両手の先から無数の鋼索のようなものを放ち、アシャの身体を縛り上げながら、リツルミはゆっくりと値踏みするような口調で呟いていた。
「ふーむ――その紅い腕も欲しいのだけれど、すぐに封印されてしまうのが惜しいわねぇ――やっぱり、本命は神秘斬滅よねぇ――」
「欲しい――本命――? 貴様、まさか小娘を拐った目的は他にも――」
「ええ、ご推察の通りよ。あの娘の能力はとっても希少で有用だもの――あの小さな身体の穴という穴にこの鋼索を挿入し尽くして、その中を調べ尽くして――そして、神秘斬滅の能力を我がモノとするの――」
「そうはさせるか――!」
言うより早く、アシャは右腕に力を込めた。紅き筋肉が隆起し、絡み付いていた鋼索がプツプツと切れていく。自由になった右腕で左腕に絡みつく鋼索をも強引に引き剥がし、アシャはリツルミへと向き直っていた。
「あの小娘の能力は、因果をも殺す概念階層のもの――貴様のその下品な手段でやすやすと奪えるようなものではなかろう。そしてそれ以前に、あの小娘は俺のものだ――ゆえに、とっとと返してもらう。もちろん、すぐに貴様を倒してからな」
「ふふっ――そうかしら?」
リツルミは嗤う。そこへアシャの熱波を纏った拳が飛ぶ。女は右手をかざし、呟くような詠唱を素早く紡ぎ、それに呼応するかのように橙の光が彼女の右手の甲から迸る。
「開始なさい――その速さは沈黙の狭間を握り――その疾さは認識の谷を超え――今、わたしの身体を――舞い動かせ、超光加速――!」
「なに――!?」
アシャが驚きの声を漏らすその前に、女の姿は消えた。
その刹那、アシャの胸元から鮮血が迸った。いつのまにか刻まれていたのは、細く嬲るような傷痕。それはリツルミの指先から放たれる無数の鋼索によるものだと、アシャは咄嗟に悟った。鞭のように超高速で素早く振るわれた鋼索が、彼の身体へと嬲るように喰い込み、その表皮をズタズタに引き裂いたのだと。
「この素早さは、超光加速――か?! そうか、あの腕にこの能力――貴様、あの女勇者から既に【奪って】いたか。ならば――!」
アシャは紅い腕を胸元の前で構え、防御の姿勢を取る。ヒュンヒュンという空を切る音が鳴り、数本の鋼索が屈強な腕の筋肉へと絡みつく。それらは紅々と熔岩のように流動している筋から放たれる熱によって、瞬時に灼き切られていく。
「なるほど――さすがは、夢幻拘束でなければ封じることが出来ないほどの能力を秘めし枷の男――と言ったところねぇ。超光加速の疾さから繰り出した、幾重もの屍惨鋼索を防いでしまうなんて。本当なら、今頃あなたの身体はバラバラの八つ裂きになっているはずなのだけれどねぇ――」
広場に響くリツルミの声と共に、アシャの周囲にある噴水が、オブジェが、ビルのような建物の外壁が、超高速で踊り狂う屍惨鋼索によって細切れに切断され、バラバラに飛散していく。
アシャが眼前にかざす紅き右腕へ、立て続けに襲いくる鋼索の先端。それは彼の腕を嬲り、バシュバシュンと鈍い音を響かせる。
「ふん――しなやかさと硬さを両立した鋼索は、素早く振るうことで一定の距離を置きつつ物体を切断することに優れよう。だが、いかに疾く振るわれようとも時流への干渉に過ぎない超光加速では威力が上がるわけでもなく、単に避けにくくなるだけ――そのしなやかさは不規則な軌道を描きやすい反面、切断力には限界がある。この程度のもの、たやすく我が紅き右腕で防御してくれよう」
「うふふふっ――さすがねぇ。でも、その強がりはいつまでもつのかしら? あなたずっとその右腕だけで、わたしの屍惨鋼索を防ぎ続けるつもり?」
嘲笑うような女の声とともに、アシャの頬が裂け、左足の腿が爆ぜ、水風船でも割ったかのように血が溢れ滴る。少年は不快そうに舌打ちし、その金色の瞳を忌々しげに細めた。
「うっふふふ――それに、そんな体勢のままじゃ、超光加速の疾さで動く、わたしへの反撃すらままならないのではなくて?」
女の言葉の通り、覇王の目を待ってしても、アシャは超光加速により加速した相手の姿を捉えることができないでいた。防御姿勢を取りつつも、少しずつ傷ついていく生身の身体。相手の姿もその攻撃すらもほぼ見えず、認識できるものといえば、屍惨鋼索の先端が身体へと喰い込んでくるその一瞬感じることのできる、痛みと――。
「貴様っ――!」
アシャは叫ぶや否や紅き腕を振り、広げた掌に屍惨鋼索を絡み付けると一気に引っ張った。
「えっ――なにっ――!?」
驚きを帯びた女の声。引っ張られた屍惨鋼索に釣られ、それを手の先から生やしているリツルミの姿が、超光加速の中から引き上げられていた。
「貴様、喋りすぎだ――【弾けろ】――!」
紅き腕が瞬間的に振動し、熱と衝撃波とを放つ。それは鋼索ごと手繰り寄せられたリツルミの腹へと炸裂した。ドグシャアという破裂音が響き渡る。女の姿をした魔族の下半身は、熱波によって消し飛ばされていた。
「うゔぇッ――!」
猛獣にも似た呻きを漏らしながら地面に墜ちるリツルミの上半身を背に、アシャは蔑むような口調で独りごちていた。
「そう、貴様は喋りすぎた。いかに肉眼で捉えられぬほどの疾さで動こうとも、その声の反響からおおよその移動ルートとその傾向は推測できる。我が痛みから攻撃箇所とパターンさえ判別してしまえば、次にどこからどう攻撃してくるかを予想し、反撃するなど容易いことだ――」
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