その【中】に蠢く悪意
悲鳴を辿り、行き着いたそこは広場のような場所だった。
地面に敷かれた煉瓦は、所々がヒビ割れていた。剥がれ朽ちたその隙間から覗くのは、溢れんばかりに溜まり、こびりついた血の跡。それは、少し前までこの場所で起きていた殺戮の、その凄惨さをありのまま剥き出しにしているかのようだった。
広場の中央には、茶色く枯れ果てた噴水の跡が鎮座している。かつて透明な水を噴き出してそびえていただろうオブジェは――しかし今は、まったく別のものへと変貌を遂げていた。
噴き出しているのは水ではなく――、それまで噴水と呼ばれていたオブジェは、今はただ血にまみれた女性を縛り付けるためだけの、磔台と化していた。
「ひっ――ヒメア――さん――?!」
それを見上げ、目の当たりにし、ミズホは信じられないといった口調で独りごちていた。
磔にされていた女性は、超光加速の勇者――ヒメア・イランドだった。
綺麗に伸びていた栗毛色の長髪は掻き乱され、純白だった衣装はビリビリに引き裂かれ、元々の色がどのようなものだったかわからないほどに血に濡れている。装備していた黄金の鎧は粉々に砕かれ、もはや防具としての役割を果たせぬほどの欠片だけが、僅かにその身体に張り付いているだけだった。
右肩からの止め処ない出血が、今もなお彼女の身体を染め上げ続ける。そこから先にあるはずの――右腕は、既に喪われていた。手の甲に埋め込まれていた橙色の宝玉ごと、身体を包み護っていた黄金の鎧ごと、肩の辺りからバッサリと、彼女の右腕は切断されていた。
「う――ううぅ――うあ゛あ゛あ゛っ――!」
虫の息で、苦しげに呻くヒメア。著しい出血により混濁しているだろう意識の中にあって、それでも抗いようのない強烈な痛みの発露。
しかし次の瞬間、悲痛なその声を掻き消さんばかりの、鋭く大きな音が広場に響き渡っていた。
ミズホが聞いたそれは、ヒトが発していながら人間のものでは無い声。
野太く、声にならぬ狂気を帯びた、猛獣のような唸り声。
「グルルルルルッ――!」
唸り声に敵意を感じて少女は咄嗟に剣を構える。噴水の奥にそびえる建造物の影から、のそりと姿をあらわす巨体。それに気付いた彼女は、呆気にとられたような呟きを漏らしていた。
「あ――あなたは――」
2メートル以上はあろうかという噴水中央のオブジェを上回る長身に、盛り上がるほどの屈強な筋肉が剥き出しになった裸の上半身――物陰から姿をあらわし、ゆっくりとこちらに近づいてくるのは、ヒメアの相棒としてその傍にいた闘士の男、ノデンだった。
「ググゥ――グルルルルルッ――!」
唸り続ける男の瞳は、濁っていた。もはや、人間としての理性や感情といったものを欠片も感じさせないその眼は、先程襲いかかってきた屍傀のそれとまったく同じ色模様をしている。
「この男の人も――手遅れだ。屍傀にされて――」
ミズホの横で、ナルは戦慄したように囁く。
「あの男の人も殺さないといけないってことか――逆に、ヒメアさんはまだ人間のままだから救いようがある。むしろ酷い怪我をしてるから早く助けないと――」
確認するように諳んじると、ミズホは刀剣を強く握り締めた。
「ちょっと待って」
横から呼び止めるショウマの声に、ミズホはちらと彼を見上げた。
「君たちだけで、あの屍傀の相手をしつつヒメアさんを助けるのは負担が大きすぎる。それに――」
ショウマは前へと歩き出しつつ、その右腕を横へと――ミズホの眼前へと振り上げた。手首に喰い込んだ赤黒い枷が揺れ、ガチャガチャリと何かを訴えるかのように音を奏でる。
「アレ《・・》はたぶん、ただの屍傀じゃない。もっと別の――おぞましい何かを内包しているように思えてならない。
だから、君たちだけに相手をさせるわけにはいかない。【俺】も言ってる――この力、今使わずして、いつ使うのだ――と」
「【俺】って――ショウマさん、あなた――いったい――」
何かを問いかけようとするミズホの言葉を制するように、ショウマは言い切る。
「その話は後だ。ヒメアさんのあの様子、もう時間がない。僕はあの屍傀の相手をする。君たちは、その隙にヒメアさんの救出と治療を」
目の前で揺れる枷――夢幻拘束を不安げな眼差しで見つめながら、しかし言われるがままミズホは枷に刃の先端を添える。ショウマの言うように、あの大男の屍傀が普通ではないということを、彼女もうっすらと察していたから。
――まるで、何かおぞましいものを内包しているかのような――。
神秘斬滅の少女は、息を止め、掌にくっと力を込める。その青く艶やかなツインテールが、瞬く間に仄かな白に染まっていく。
そして、振り下ろされた刀剣の刃が、少年の右腕を縛る赤黒い枷を断ち切る。枷の破片が地面へ落ち、金属音を響かせる。その音と同時に、少年は一歩前へと踏み出していた。
「なるほど――油断したな、勇者の女。おおかた、相棒であったその大男が、屍傀にされたことに気付かずに背中を許した――と言ったところか」
嘲るような第一声を発しつつ、少年は瞳を見開いて周囲を見渡し、磔にされたヒメアの姿を眺めて言った。その色は爛々と輝く金色をして、その眼差しは威厳と傲慢さに満ちた鋭さを帯びて――そこに立つ少年はもはやショウマではなく、彼を縛る枷に封じられし覇王、アシャへと変貌を遂げていた。
「いかに超光加速といえど、その本質は時光統御――つまりは単なる時流への干渉に過ぎぬ。一瞬の隙であったとしても、いったんその大男の力で押さえつけられてしまえば、女の力では抗うどころか身動きすらできまい――」
アシャは紅く沸滾る屈強な腕を前へと突き出す。その金色の瞳で、唸り続ける大男の屍傀を真正面から見据えて、彼は言い放っていた。
「喜べ、デカい図体だけが取り柄の大男よ。本来ならば、貴様のような屍傀など相手にせぬところだが――どうやら貴様を粉砕せぬと、隠れている奴が出てこぬようでな――我が力に灼かれること、光栄に思うがよい――!」
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