屍傀の街【ガサアマキ】
ガサアマキの街は澱んだ空気に浸されていた。
瘴気にも似た腐臭と、カビが蔓延っているかのような微粒子感。それらはべとつくような湿気と混じり合い、薄暗い無人の街の隅々に至るまで滲み渡っている。
「くっそ――やっぱ遅かったか――」
半壊している街門をくぐりぬけ、誰もいない街を見渡して、ナルは呻くように独りごちた。
「遅かった――ということは、この街の人たちは――?」
ショウマも呟きつつ、周囲を見渡す。アスファルトのようなもので舗装された路。あちこちに聳えるレンガを積み上げたビルのような建造物。どこかに人の姿がいないかと探してみても、人間はおろか動くものの気配すら、どこからも感じとることは出来なかった。
まるで、街そのものが屍になってしまったかのようだった。満ちる臭気は、腐り白骨化していく街の死臭のようにすら感じられる。
「さあ――この感じだと無事じゃないと思うけどね。屍体すら見当たらないってことは喰われたか、はたまた何らかの魔術で消されたか――」
「しかし、本当に人の気配がありませんね――それに、ひどい臭いです」
呻りつつ腕を組むナルの横で、ミズホは饐えた臭気に顔を顰めていた。
「これ――たぶん人の死の臭いですね。ナルさんの言う通り、この街の人たちはもう殺されてしまっているんでしょう――本当に非道い。それに――」
口元を押さえ、ミズホは不安げに揺れる瞳でナルをちらりと見やる。
「ヒメアさんたちが先に到着しているはずですけど、無事なんでしょうか――」
「だねぇ。さすがに守護騎士がそう簡単にやられることはないと思いたいけど――まずはヒメアさんたちを探して、合流する方がいいかもね」
その時、ガサガサと何かの蠢く音が建物の影から聞こえてきた。
「誰か――いるの?」
誰もいなかった街にようやく何かの気配を見つけ、ナルは音のする方へと駆け出した。ショウマたちも後に続く。
曲がり角の先にあるのは建物の狭間、路地裏のような場所。そして、その狭い通路の中央に、薄暗い影の中を揺れる小さな人間の姿があった。
それは年端も行かない少女だった。振り乱した長髪を気にもとめずに頭を垂れ、アスファルトの硬い地面の上でぶるぶると震えながら、その少女は力なく蹲っていた。
「あっ――あなた、大丈夫?!」
声を上げ、咄嗟に少女へと駆け寄っていくナル。その様子を後ろから眺めながら、ショウマは不意に気づいた。
顔を上げ、ナルを見上げようとする蹲った少女の瞳に、一切の色が無いことに。近づきつつある相手を映す虹彩にも、瞬きに揺れる白目にも光は無く――その濁りきった眼は、まるで陸に打ち上げられ藻掻くまま息絶えた魚のそれを想起させた。
「ちょっと待って――その女の娘は――」
思わず、ショウマは叫んでいた。
「――もう、死んでる――!」
「えっ――?!」
叫びを聞き、ナルは立ち止まる。と同時に、向かい合う蹲りの少女の見上げた顔を見て、息を呑んだ。
血の気の無い青白い皮膚。淀んだ瞳から溢れ頬を伝っていく液体は、涙からは程遠い、膿んだような濁りに満ちている。半開きの口からは止めどなく涎が垂れ流され、それによってべとべとに濡れた身体は、だらりと垂れている四肢とともに小刻みに震えていた。
「あ゛あ゛あ゛ぅ――ゔゔぅ――」
言葉にもならぬ呻き声を上げて、蹲っていた少女は立ち上がる。小さな白い歯を剥き出しにして、それは眼前で立ち竦むナルへと襲いかからんとしていた。
「たっ、たしかに――死んでる?! この娘、まさか――!?」
そう独りごちるよりも速く、震える少女はそのか細い体躯からは想像もできない瞬発力でナルの間合いへと肉薄していた。涎にまみれた口が大きく開かれ、黒ずんだ舌と牙のように変形した歯が伸びる。まるで、飛び掛かった先にいる魔術師の少女の身体を喰いちぎり、その血を啜ろうとするかのような勢いで。
「くっそ――! ちょっち、熱いけどゴメンね――! ステカ・ロムマ・|ラグダオ《最深部に至るまで滾らせ》――!」
ナルは襲いくる相手へと掌を掲げ、口早に呪文を詠唱する。次の瞬間、魔術師の少女の指先から真紅の閃光が数本、迸った。閃光は相手の少女の身体を横切るように走り、途端にその小さな身体を燃え上がらせる。
「ゔぅ゛――ゔえ゛ぇぇっ――っ!」
全身を炎に包まれ、獣のような呻きを発しながら青白い少女は膝をついた。ナルは緊張した面持ちのまま相手を見下ろす。燃え盛る小さな人の形は、痙攣するかのように震えながら、崩れ落ちるように地面へと這いつくばっていた。
「ふぅ――ゴメンね――非道い殺され方をした上に、その亡骸までこんなことになっちゃってさ――でも、あたしもここで死ぬわけにはいかないから――」
「ナルさん――この――ヒトは一体――?」
背後から問いかけるミズホの声に、ナルは哀しげな眼差しで振り返った。
「この娘は――たぶん、魔族に殺されて屍傀にされたんだ。
屍傀っていうのはね――死んでしまった、殺されてしまった人間が、その遺された屍体に強引に魔力を注入され、術者の意のままに使役されるようになってしまった状態のこと。
死して、自我も意思も感情も無い中で、その肉体を玩具のように人形のように弄ばれ、ただ操られるだけの哀しい存在――」
言いながらナルは足元で燻っている炎へと視線を戻した。魔術の炎に灼かれた屍傀の少女の身体は、既にヒトとしての形状を喪い、風に吹かれれば消えてしまいそうなほどに小さな、地面に散らばる燃え滓と化していた。
「そして屍傀は、既に死んでいるから殺せない――無力化するためには、その身体を粉々に破壊し尽くすか、高火力によってその身を灼き尽くすしか――」
「ゔぉぐあ゛あ゛あ゛ぁっ――!」
突如として響き渡る呻き声が、ナルの言葉を遮る。その声は上方から。見上げた先から降下してくるのは、男の人間の姿でありながら青白い肌をした、数体の獣だった。
「ナルさん――このヒトたちも、その屍傀ですか――?」
ミズホは目を細め、獣の姿を見回しつつ、ナルへと問いかける。男の姿をした獣たちは、ショウマたちを取り囲むようにして地面に降り立っていた。少女は咄嗟に腰に吊るしたアクセサリーへと手をかけ、冷ややかな眼差しで息を吐く。
「うん、そうだね。なるほど――どうやら、この街に誰も居なかったのは――喰われたのでも消されたのでもなく――みんな、屍傀にされてしまったから――ってことか」
「ぐゔあ゛あ゛ぁっ――!!」
屍傀たちは雄叫びを発しながら、一斉にショウマたちへと襲いかかる。
一閃。
屍傀の首が、刎ね飛ばされた。赤黒い体液を断面から噴き散らしつつ、その身体はその場に倒れる。ただ体内に留まっていた体液を流し続けるだけになった屍体は、既に微動だにしていなかった。
続いてもう一度、白い斬撃が宙を舞う。残り数体の屍傀の首は次々に落ちていき、頭部を失った身体は飛沫のようなものにまみれながら崩れるように倒れていく。
折り重なるように倒れ、動きを止める屍傀。その中で、片手に刀剣を握り締めたまま、小柄な少女がすっくと直立している。仄かな白い光を帯びたツインテールを揺らし、その少女――ミズホは肉片と成り果てた屍の山を見下ろしていた。
「死者は、もう亡くなっているので殺すことはできませんが――何かに操られているだけなら、その何かとの【繋がり】を断てばいいだけの話です。もし仮に自律して動いているのなら、その中核となっている部分との【繋がり】を断てばいい。どちらの場合であっても、要となっているのは頭部の可能性が高い――そうですよね?」
言いながら刀剣にこびりついた体液を振り払い、ミズホは浮かない表情をあらわにしていた。
「なるほど――たしかにその通りだよ、もっちー。なんていうか神秘斬滅の能力の使い方に、少し慣れてきた感じだね――」
「ええ、まあ――なんとなく、ですけど。それにしても――もはや屍体とはいえ、やはり人間を斬るのはちょっと――抵抗感は否めませんね――」
苦虫を噛み潰したような、沈んだ面持ちでミズホが呟きかけた、その時だった。
若い女性の悲鳴にも似た大きな声が、すぐ近くから響いてきた。
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