魔因の種【イニティウム】
「なぜなら犯罪を犯すようなココロの弱い人間ほど、魔因の種に侵されやすく、魔族に寄生されやすいから。ココロが弱いとは、つまり欲望を抑え込む力が弱いということ、即ち魔の力と快楽に侵されやすいということ――。
そこにいる男はたぶん、『若い女の人を拐いたい』という、常日頃から抱いていた欲望を抑えきれなかった。それを何者かに付け込まれて、魔因の種を植え付けられた。男は魔族の力を得て、欲望のままその力で女の人を拐い、満たされた欲望を魔力へと変換させられて吸い取られ、その弱いココロの隙間から精神を侵食され――そして魔族と化した」
「なるほど、わかりました」
奈留の説明を聞き終え、それだけ言うと瑞穂は小さく息を吐いた。溜息か、敵と対峙し続ける緊張を紛らわすためか。
そして、剣の切っ先とその警戒の視線を男へと向けたまま、少女は微動だにすることなくキシナリと名乗った男へ問いかける。答え合わせをするかのようにゆっくりと。
「あなたは、この世界の人間だった――魔族に寄生され、欲望を抑えきれなくなり、その力を用いて立て続けに若い女性を誘拐した――そうですね?」
キシナリは戯けたように引き攣った笑い声をあげた。
「クヒヒヒッ……! わたくしにわたくしのことを聞かれても知らんがな。お前は鏡のない中で【自分の顔はどんな顔か】と問われて答えられるのか? それと――」
男は言いながら腕を前へと突き出した。腕や拳や二の腕の表面を覆っていた液体が、その勢いによって周囲へと派手に飛び散る。
「【誘拐】ではなく、【蒐集】だと言っているだろうがッ!」
それまでのネチネチとした湿っぽい喋り方から一変し、キシナリは激昂した。
前へと突き出された腕から、透明な液体によって形作られた触手が勢いよく迸る。放たれた二本の触手が狙うのは、剣を持つ青い髪の少女。一方は瑞穂の頭を掴もうと先端を広げ、もう一方はその細く小さい胴を貫かんばかりに鋭く伸びていく。
瑞穂の髪色が即座に儚く透明な白色へと変化した。少女は素早く手にした剣を振るう。触手は少女へと達しようとする間際、断ち切られ、カタチと方向性を喪い、水飛沫となって床や壁に飛び散り消える。
「くっ――あの触手、断ち切ることはできても、その本数そのものに制限がないから、いくら斬ってもキリがない――」
構えを崩さず、次の攻撃に備えたまま瑞穂は呟く。
「いやでも、もっちー。あいつは確かに魔力を消費してるから無駄ではないよ。ただ、寄生型魔族は魔力効率がいいから、まだまだ残存魔力はありそうだけど――」
奈留がそう言い終える前に、更に複数本の触手が迫る。瑞穂は視線が追い付かないほどの素早い斬撃で、漏らすことなくそれらを刈り取った。
奈留は迫りくる触手に少し後退り、あたりに飛び散る霧のような水飛沫に顔を顰めながら言葉を続ける。
「こういう時は――『再生力や治癒力の高い相手に対しては、その起点となる核の部分を狙うのが定石』だよ――あいつの場合、どう見てもその【核】は男の【頭】か【心臓】のどちらかにある」
しかし瑞穂は困惑したような面持ちで、ちらりと視線を奈留へと泳がせた。
「でも、それだとあの人を――」
呟く間も無く、間髪入れずに襲いくる触手。瑞穂は軽い舌打ちをして、それらを薙ぎ斬る。
液体を触手のカタチとしているのは、キシナリと名乗る魔族の核から流れる魔力。瑞穂によって放たれた【神秘斬滅】の閃刃は、それらの魔力の流れを含めた全ての因果を触手より【断ち切って】、ただのアルコールの液体へと戻していく。
「ヒヒイッ……! キリがないのはこちらの台詞だ! だが、これであれば防ぐことはできまい……!」
何本もの細い触手を放つだけでは埒が開かないと判断したのか、キシナリは奇声を放つと同時に両腕を前へと揃えた。
そこから放たれ、恐ろしい勢いで撃ち出されたのは、無数の触手が絡み束ねられた極太の水流。
「ちょっ……!? あれはヤバくない!?」
極太な触手のあまりの勢いに奈留は思わず叫び、身を縮めて衝撃に備えるような姿勢を見せた。複数本の触手が合わさった太い触手は、単に【断ち切る】だけではその威力を打ち消すことができないと思われるほどの勢いを有していた。
その時、瑞穂は跳び上がった。それは細く小柄な少女が行ったとは思えないほどに人間離れした跳躍。天井に手と足をついて体勢を整え、彼女は眼下から迫る太い液体触手を見据える。
触手はぐいとその方向を変えた。瑞穂を標的として自動的にその動きを追尾するようになっているのか、曲げられた触手の先端が向かう先は、彼女が跳び上がった廊下の天井。
少女は天井を蹴り上げ、触手へと目掛けて跳ぶ。軌道修正により減速した触手の一瞬の隙を突き、槍のように鋭く尖った透明な先端を寸前でのところで避け、同時にすれ違いざまに斬撃を放つ。
極太の触手は、断ち切られた。
瑞穂が着地すると同時に、廊下の天井から轟音が鳴り響いた。カタチも制御も失った液体の塊が勢いそのまま天井に衝突し、ぶち抜いてしまった音。少女たちに飛沫と埃とが混じり合ったものが、パラパラとゆっくり降り注ぐ。
放った触手を何度も断ち切られては防がれ、キシナリは苛々しげに吐き捨てた。
「クヒヒィッ……! こんな狭い場所ではわたくしの力が存分に発揮できないッ!」
湿った金切り声を上げながら液体の怪物はその中身ごと身体を揺らした。
その時だった。
「さっきの凄い音は何――? 教室からだと何が起こってるのか、さっぱりわからなくて――」
教室に残っていた成田エリスが、天井のぶち抜かれた音に驚いて廊下に顔を出していた。
キシナリはエリスの声を聞きその姿を見るなり、口の端をニィと、ねちっこく歪めた。
「クヒェヒェ……! これは丁度いい……!!」
言うなりキシナリは素早く透明な触手を伸ばす。その狙いは成田エリス。
「なっ……!? そうはさせない!」
瑞穂は敵の思惑に気づいたのか、エリスの元へと駆け出そうと反転した。
「クヒヒヒッ……! 背中を向けたな、その甘さ命取りだァ!」
男は喚くともう片方の腕を突き出し、その指先から複数本の細く鋭い触手を撃ち出す。それは男へと背中を向け無防備に近くなった瑞穂の背中を掠め、肩を裂き、脇腹に突き刺さる。
「ぐっ……! ぐぅ……このっ!」
痛みに耐えかねて瑞穂は男へと再び向き直り、自身の身体を抉らんとする触手を一太刀でばっさりと断ち切った。
同時に悲鳴が聞こえた。それは成田エリスの声。大人しく上品なお嬢様からは、普段は決して発せられることのない鬼気迫る声。
だがその悲鳴は長くは続かなかった。細い触手を一蹴し、振り返った瑞穂が――翔真たちが目にしたのは、透明に液体の触手により、その広がる先端により、頭からすっぽりと液体に包まれ、閉じ込められた成田エリスの姿だった。
突然アルコールの塊に飲み込まれたエリスは、ゴボゴボと口から息を吐きながら目を見開き、まるで何が起こっているのかわかっていないかのように茫洋とした瞳を泳がせていた。暴れることも苦しむ様子もなく、透明な液体の中で少女は、白い肌を揺らし、肩の辺りで切りそろえられた黒い髪をふわりと漂わせていた。
「クヒヒィ……! この女は貰ってイクゥ……!! 」
キシナリは叫ぶ。エリスを捕らえた液体の塊を引き寄せ、自身の体表に纏った液体と合わせるように抱き寄せると、アルコールの液体を纏った男は跳び上がる。足から勢いよく液体を噴出し、男は廊下の窓を突き破り、外へと逃げ去っていった。
「ちょっ、待てこのっ……! 【シム・ルシベ】……!」
奈留は咄嗟に指を伸ばし詠唱すると、遠くへ跳び去っていく男へと小さな光を飛ばした。
翔真と瑞穂は窓へと駆け寄った。だが、エリスを抱えた男の背中が物凄い勢いで遠ざかっていくのを、ただ眺めていることしかできなかった。
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