液体を纏いし【異形】の男
その時、突如として廊下から幾重もの悲鳴が響いた。
女子生徒の甲高い悲鳴、男子生徒の慄くような叫び、そして続くバタバタという足音。何者かから逃れようとしているかのような。
まったく突然に響き渡る悲鳴に驚き、翔真は振り返った。
教室の窓越しに覗く廊下に見えたのは――透明な液体の触手。
何本ものそれは長く伸び、狭い廊下の中で、のたうつように暴れていた。
己が視界に映る光景を疑い、眼を擦る翔真。しかし、何度瞬きしてもそれは【現実】として、そこにあった。本来であれば飛び散って床にこぼれ落ちてしまうだけの液体が、明確に触手のようなカタチをして、それが何本も廊下の中央に浮いたまま蛇のごとく蠢いていたのだ。
「なっ――何、あれは――!?」
唖然として言葉にならない声を漏らす翔真。その横で奈留は、僅かに驚きを帯びた真面目な口調で呟いていた。
「この感じ――魔族――? いや、そんな馬鹿な――こんなに強力な魔力を持った魔族が、いったいどうやって、こっちに――?」
ぶつぶつと呟きながら奈留は駆け出し、教室の戸を開いて廊下へと出た。翔真と瑞穂もその後に続く。
そして廊下に出た翔真は、何者かの声を聞いた。
「フヒヒッ――【あの方】の仰った通りだ。ここにいたか【枷の男】」
それはくぐもって聞き取り難い、薄気味悪く湿った男の声。
翔真は咄嗟に、声のする方へと向き直る。
そこに立っていたのは若い男だった。廊下の真ん中あたりに陣取り、それは翔真の姿と手足に嵌められた枷を見るや否や、愉しげに嗤っている。【枷の男】と呼んだ翔真へと向けられたその視線は、獲物を狙う獣のような鋭い獰猛さと小狡そうな陰惨さを帯びていた。
ヒョロヒョロとした細い身体に高い背丈、ボロボロな茶色のコートを羽織ったその姿は、一見してどこにでもいる不健康そうな若い男のように見えた。
【そこだけを見るならば】。
その男の身体は、異形――全身が、透明な液体で覆われていた。まるで分厚い服か鎧かを身に纏っているかのように、細くひょろ長い身体の表面は、溢れんばかりの液状の何かでなみなみと満たされていた。
男の両腕から滴るように伸びるのは、同じく透明で液状の触手めいた何か。教室から見えていたのは、これに違いないだろう。幾重もの液状の触手は、いずれも数メートルもの長さを有しており、それぞれが別々の意思を持っているかのように不規則に揺れていた。
そして、その触手の内の一本は、アメーバのように広げられたその先端は、まったく無関係な女子生徒の頭を、すっぽりと包み挟むようにして掴まえていた。
液状の触手の先端に隙間なく頭を覆われ、その女子生徒は【溺れていた】。彼女は苦しみ悶えながら、自身の頭に纏わりつく液体を引き剥がそうと、液状ゆえに掴みようのない触手を掴み剥がそうと、もがいている。
「おや……キヒヒ……」
液体を纏った男は、自身が触手に捕らえた女子生徒の足掻きに気付いたのか、目線だけを動かしてそれを見つめ、粘り気のある気色の悪い声を上げた。
「そんなに抵抗しても無駄だ……フヒヒ……わたくしの【腕】は液体ィ……で、あるからして、掴んだり、引き離したり、断ち切ったりすることなど出来はしない。諦めて素直にわたくしの蒐集品になるのだ」
男の声が聞こえたのか聞こえなかったのか、ジロリと睨まれた女子生徒の顔は、息ができない恐怖と絶望、そして苦悶に歪んでいた。必死にバタつかせる手足は次第に激しさを増し、痙攣しているかのように小刻みに震え出し始めている。
その刹那、液体を纏った男と女子生徒の間を白い斬撃が舞った。
「そういうの――やめてくれませんか?」
白く変色したツインテールを靡かせて、塚本瑞穂は剣を振るっていた。
少女の手にする剣は、あちらの時と同様、ポーチに付けていたペーパーナイフのようなキーホルダーが奈留の魔力で変化したものだった。
こちらでも、まだ|キーホルダーに込められた魔術が効いているのか、その剣は、持ち主の小さな身体からすると不釣り合いなほどに大きく立派なカタチして、少女の能力によって仄かな白色を帯びている。
少女の放った白き閃刃は、神秘斬滅。
男から伸びる液状の触手は断ち切られていた。男と繋がっている側の触手は、断ち切られた衝撃で撥ね上がり、女子生徒の頭を包み込んでいたその先端の方は、断ち切られたことによってカタチを喪い、水風船のように弾けて床へボタボタと零れ落ちた。
女子生徒はゲホゲホと嘔吐きながらその場に蹲る。瑞穂は彼女を抱きかかえ、背中を摩り、飲み込んでいた液体を吐かせる。
「な、なにっ……?! わたくしの【腕】を……カタチなき液体を【斬った】……だと!?」
狼狽たように湿った声を放ち、男はじりじりと後退する。瑞穂はギッと鋭い視線を男へと向け、怒りを含んだ口調で独りごちた。
「そりゃあ、【カタチの無いものの方が斬りやすい】ですからね――」
そう――カタチの無いものの方が斬りやすく、カタチのあるものの方が斬りにくい。
少女は、誰にも聞こえないほどの小さな小さな声で呟きを続けていた。
――カタチのあるモノを斬れば痕が残る。
――カタチのあるヒトを斬れば痛みが残る。
――でも、カタチの無いものを斬っても何も残らない。
――それが仮に、大事な何かであったとしても、何も残らない。だからこそ、何も考えずに断ち切って、何も思い出さずにいることができて――。
――思い出さずに――? いや、もうとっくに忘れて――忘れて――?
――何を――?
「あんたっ――! 寄生型魔族だね――?」
武庫川奈留の大きな声が廊下中に響き渡る。誰にも聞こえないほどに小さな瑞穂の呟きは、奈留の大声によって根こそぎ拭い去られていた。
男はゆっくりと肩を揺らしながら奈留の方を見やる。液状の触手を断ち切られた動揺は少しばかり落ち着いたのか、その口許からは再び、薄気味の悪い湿った嗤い声が漏れていた。
「クヒヒッ……実は、わたくしも詳しくは存じ上げませんが、わたくしのようなものを魔族と呼ぶそうですねぇ……【あの方】からも、そう教えていただきましたよ……」
男の言葉を聞き、奈留は怪訝そうに眉を潜めた。
「んっ――何、その言い方――自分のことを【詳しく知らない】――? 【あの方】――? こいつ、まさか――」
「どういうこと?」
奈留の呟きの意味が解らず、翔真は訊いた。