霧を眺める少女の【憂鬱】
その少女は机に肘をつき、教室の窓から外に立ち込める深い霧をぼんやりと眺めていた。
「眠そうね――瑞穂ちゃん?」
誰かが話しかけてくる。小さく欠伸をし、少女は――塚本瑞穂は、我に返ったかのようにゆっくりと顔を上げた。白と水色の中間あたりの明るい色をした髪が、両サイドで束ねられたツインテールが微かに揺れる。
「なんだか今日は元気が無さそうね――大丈夫?」
話しかけてくる声の主は、心配そうに囁くような言葉を続けながら、瑞穂の席の前にある椅子へと静かに腰掛けた。
瑞穂は眠気を振り払うようにその小さな身体をぐいを伸ばすと、霧と同じくらいに透き通るような白い指先でその眠たげな目をさすり、目尻に浮いた涙を拭った。
「まぁ――うるさくてしつこいお姉さんに追いかけ回されて、野犬の集団に襲われて、でっかい鋼鉄の化物に襲われて――ってなことに巻き込まれてたら、そりゃ元気も出ないよ」
いかにもしんどそうな口調で瑞穂は呟く。
「なあにそれ、夢の話?」
僅かに驚きと困惑の入り交じった、しかし落ち着き払った言葉が返ってくる。
瑞穂は目を凝らした。相手の顔がよく見えなかった。霧か靄のような眠気が視界に張り付いて、その聞き覚えのある声が誰なのか咄嗟に判断がつかなかった。
うすぼんやりとした視界を振り払うかのように瑞穂は頭を振る。
「あら――その様子だと、変な夢を見てだいぶお疲れのようね」
その声は瑞穂のクラスメートで友達でもある少女、成田エリスだった。
エリスは肩のあたりで切り揃えられた艶のある黒髪を靡かせ、柔和な微笑みを瑞穂へと向けていた。絵に描いたような良家のお嬢様然とした佇まいから、仄かに漂うのは甘い芳香。
「あぁ……エリスちゃんか……そう、あれは夢だよ。とっても目覚めの良くない悪夢……だったと思いたいよ」
「ふうん――よくわからないけれど、大変そうねぇ」
小首を傾げてエリスは曖昧に頷いて見せると、話題を切り替えるように呟いた。
「そういえば――隣町で起きていた若い女性の連続誘拐事件だけど、つい先日、この付近でも発生したみたいよ。誘拐されたのはこの学園の生徒ではないようだけれど、それにしたってすぐ近くで起こっているみたいだし、私たちも気をつけないといけないかも――」
瑞穂は僅かに瞳を細める。隣町で起こっていた連続誘拐事件のことは聞いており、以前からその特異性について、少し気にもなっていた。
「確か――誘拐されたと思われる場所の地面に、大量のアルコールの痕跡が残されているんだよね――その謎の共通点ゆえに連続誘拐だと考えられているって」
エリスはうん、と小さく頷く。
「そう、誘拐された女性の鞄や携帯電話とともに現場に残された、道幅いっぱいの水たまりをつくるほど、すごい量のアルコール……そんな大量のアルコールをどうやって運んだのか、そもそも何のためにそんなものを誘拐現場に持ち込んで、何に使ったのか……」
その刹那、瑞穂の背筋をぞくりとした悪寒が走った。
大量のアルコール――液体――構成要素――能力者――。
動く鋼の身体――魔力で自律する人形――操られる炎――魔族――。
そして脳裏を過ぎるのは、【断ち切った】はずの記憶の断片。
その巨躯は色という概念を塗り潰す黒――虚空に生えるのは牙――咀嚼され消える上半身――頬に飛び散る【彼】の体液――。
黒き虚空の牙――燃える鋼鉄の自律人形――誘拐現場に残された大量のアルコールの痕跡――。
それは同じ類いのモノ――? それはヒトを殺すモノ――? それは【この世界】のモノではない存在――?
【それ】はアルコールを用いたのではなく、アルコール【そのもの】だったのでは――?
「瑞穂ちゃん――? どうしたの、大丈夫――?」
エリスの心配げな問いかけに、瑞穂は我に返る。
「えっ――う、ううん。ちょっと考え事してて――」
瑞穂の返答に、エリスは小首を傾げ、ゆっくりと相手の瞳を覗き込むかのように顔を近づけた。甘く心地よい芳香が瑞穂の鼻腔をくすぐる。
「そうなの――? やっぱり疲れているみたいね。それとも、そんなにその誘拐事件のこと、気になるのかしら――?」
「うん――いや、なんとなくだけど、その誘拐事件の犯人って【普通ではない】ような気がするんだよね――もちろん、女の人を誘拐するなんてそもそも普通じゃないんだけど、そういう普通さとは違う次元の【普通ではない】感じが――」
考えながらゆっくりと言葉を選んでいく瑞穂を見つめて、エリスの微笑みをたたえた口許は囁く。
「それは【人間ではない】――みたいな?」
「えっ――」
ドキリとして、瑞穂は言葉に詰まった。まるで心の中を見透かされたかのような問いかけ。思わず、瑞穂は相手の顔を見返した。真っ先にその視線が捉えたのは、深く黒く吸い込まれそうな妖しさを帯びた、成田エリスの見開かれた瞳。
「なんて、そんなわけないわよね」
妖しい揺らめきを帯びた瞳を隠すかのように瞼を閉じ、エリスは上品で大人しそうな微笑みを浮かべた。肩のあたりで切り揃えられた、艶のある黒髪がさらさと揺れる。
その時だった。
「いんや! そんなわけがあるかもしれない!!」
二人に割って入ってきた声。どこかで聞き覚えのある声。あまり思い出したくはない記憶の中にあった声。うるさいくらいに大きな、女の人の声。
二人の少女は、同時に大きな声のする方を見やった。
「ゔっ!?」
塚本瑞穂は声の主の正体に気付くと、露骨に嫌そうな声を発していた。
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