左腕より拡がりし【守護の紫盾】
「――グルルルルゥォォォォッ――!!」
轟雷のような音が響く。咆哮のようにも、その巨躯の軋みのようにも聞こえる異音を発しながら、異形なる獣の形状をしたその黒は、瞬く間に背中と思しき部位より、無数の触手を放出していた。
「なっ――うっ、ぎゃあぁぁっ――!」
黒い触手は各々に放物線状の軌道を描き、キシュゥへと殺到していく。その身体を雁字搦めに縛り上げられ、呻きとも悲鳴ともとれる叫びとともに、老人は絡み合う黒い異物によって宙へと持ち上げられていた。やがて、ギリギリと軋む音が低く響き、老人を縛り上げて団子状に絡み合った触手の隙間から、赤黒い液体が、ぽた、ぽた、と滴り落ちていく。
「あが、がああぁぁあっ――!」
老人キシュゥの、断末魔の、叫び。
「まっ――主人――!?」
アシャの背後に控えていたクスガが痛ましげな声で主人を呼ぶ。口元に手をやり、その指先をわなわなと震わせ、今すぐにでも眼前にて飛び散る惨劇から視線を逸らしたげに、瞳を細めながら。
「くっ――クス――ガっ――! ぐあああぁぁっ――! お、お前達だけでは――、まだ天使どもにはかなわぬ――! あ――あれを――、魔縮炉を――起動――させ――」
グチャ――、と何かの潰れる音がして、そこで老人の声は途絶えた。空中を漂う黒色の触手の先端はもはや血溜まりそのもののように赤く濡れ、漏れ出る音はもはや、零れ落ちる鮮血の、ぼた、ぼた、という滴りだけになっていた。
「――っ!? あ、うっ――、主人が――、死にました――」
幼女リヨクに惨劇を見せぬ様、自身の腹の辺りへとその小さな頭を押しやりながら、クスガは棒読みのように呟く。アシャもまた、呆然と立ち尽くしたまま声を漏らして。
「ああ、キシュゥがこうも簡単に――殺られるなんて――」
「これが主人の恐れていた、天使というものの能力です。
そして――主人の死に際の言葉の通り、今の私達では、奴らにはまだ――対抗できない」
「確かに――このまま戦っても、キシュゥのように、ただ殺されるだけだろう。
だが、それならどうする――? 退こうにも、あちらは3人もいる。普通に考えて、無事に逃げ切れるとも思えないが――」
「ええ。それに――、できれば残された竜族の子達も逃してあげたい。その為には、主人が死に際に命じた、アレを使うしかない――」
潰れた何かが、更に押し潰される音が響く。
老人を絡み喰らった触手の先端が、黒々とした獣の形状へと戻り、その中に捕えていた肉塊を咀嚼する音。
「アレ――を使う?」
心の耳に栓をして、アシャは眉根を上げてクスガを見る。彼女はぐいと幼女リヨク抱き上げて肩の上に乗せると、小さく頷いて見せて。
「主人の遺した兵器のひとつ。アレなら、天使を倒すことは出来なくとも、私達が逃げる時間を稼ぐことくらいは出来るはず――だから――」
クスガは一瞬、迷ったように視線を落としたが、しかしすぐにアシャの瞳を再び見据えて。
「アシャ――あなたには、竜族の子達を逃し、アレを起動させるまでの――時間稼ぎをお願いしたい」
「なるほど――時間稼ぎのための、時間稼ぎということか――いいだろう。それなら、この場は任せてもらう」
アシャは応え、拳を握り締める。その様子を見つめるクスガが、不意に息を呑むような表情を浮かべたことに気付き、彼は怪訝そうに小首を傾げて。
「どうした、クスガ」
「あ、いえ――その眼差し、頼もしいですね。では、よろしくお願いします」
クスガはそう言うと、幼女リヨクを抱きかかえたまま、天使たちやアシャとは反対の方向へと駆け出していった。
「おや、逃げるつもりですか」
平べったく粘着質な、サリエルの声。
アシャは即座に声のする方へと向き直る。サリエルは既に腕を伸ばし、その矛先を駆けていくクスガの背中へと向けていた。
――グルルゥゥゥァァァッ――!
その腕の動きに呼応して、黒い獣の形状は唸りにも似た爆音を轟かせる。そして、老人を締め潰した時と同じように、背中に相当する部位より、無数の触手を放つ。それらは一斉に駆けていくクスガを追いかけるように伸びていき、その先端を花弁のように開かせると、少女のか細い身体を喰いちぎらんと、内部に隠した牙を剥き出しにして――。
――ザシュゥゥゥゥッッ――!
何かの、激しく、潰れる音。
続いて、ぼたぼたと、液体が壁を伝い、滴り落ちていく音。
「何処を――見ている――?」
野太い声が、湿った音の響いた後の短い静寂に刺さる。
それはアシャの声であって、しかしそれまでのアシャとは異なる声。
天使と呼ばれる銀髪紅眼の者達3人は、見えない壁のような何かに阻まれるようにして潰れた黒い触手の先端へと向けられていた視線を、アシャへと戻した。
「貴様の相手は、俺だ。あの女は殺させぬ。故に、絶対遮蔽領域を展開させてもらった――。
生憎、貴様の放ったチンケな歪みは、我が領域を突き破ることは出来なかったようだな」
言い放つアシャ。そんな彼へと視線を向け、じっと見据えて、天使サリエルは不意に僅かに、その白い顔に驚きの表情を浮かべて。
「なるほど、君は普通の人間ではない――、ということか。その腕と脚とに凝縮された高密度の魔力と、瞬時に展開された領域魔術――。
そして何より――突如として黒色のそれより変貌せし、金色の瞳――。
人間の姿をしながら、しかし人間を超越し者――どうやら、おじいさまは、厄介なモノを遺してしまったようだ」
アシャは左手を前へと掲げている。外側へ向けられたその手の甲には、盾の形にも似た魔法陣が浮かんでいた。魔法陣は紫色の仄かな光を放ちつつ、細い薄紫色の魔力線を周囲に張り巡らせて、彼自身やその後方より駆けて行ったクスガ達を護ろうとするかのように、絶対遮蔽領域を展開させていた。
「――我が名は、魔神のアシャ。異界より漏れ出した侵略者――即ち、貴様らより、この世界を護る為に生み出されし者だ」
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