解き放たれし歪みの【獣】
「――ユ――キナ――?」
思わず、アシャは声を漏らした。少し先に佇む、かつての幼馴染みの少女の姿を見つめて。その物憂げな視線に射抜かれたように、微動だにせずに。
「あら、あなた――もしかして――アシャくん――? 生きて――たんだね――?」
白銀の髪をさらさらと靡かせて、かつてユキナと呼ばれていた少女――天使ジヴリエルは、どこか気怠げで眠たげな声を返す。彼女はアシャからの呼び掛けを聞いてそこで初めてその存在に気づいたかのように、ゆっくりと紅い瞳を見開いて、冷たさを帯びた視界の中心に彼を据えた。
繋ぐ言葉が見つからず、アシャは押し黙る。ジヴリエルもそこで言葉を一旦区切り、短く深い沈黙が、少年と少女との間に張り詰めた。
「――どうした、ジヴリエル。その男、知り合いか――?」
ジヴリエルの隣に立っていた青年が、訝しげな眼差しをアシャへと向けつつ問い掛ける。ジヴリエルはちらを彼を見やり、そしてこくりと頷いて。
「ええ、ミハエル。昔ちょっと――ね。殺したつもりだったけれど、殺しそびれていたみたい」
ミハエルと呼ばれた青年は僅かに興味を抱いたかのようにアシャへと向き直る。短くも仄かな輝きを湛えてるかのような白銀の髪が揺れ、見開かれるも鋭さを帯びた紅い瞳が値踏みするかのようにぎょろりと動いて。
「なるほど――ジヴリエルと関わって生きているとは幸運な男だ。そして、今ここにいるのも偶然ではなく、必然と見た。」
「その白い髪に――赤い眼――お前も、天使――なのか?」
「その通り――ふむ、ジヴリエルの知り合いであるならば、名乗るのもいいだろう。
我は七惑天使がひとり、傲慢のミハエル。第3異界より顕現せし、繋げるという概念の能力を戴きし者だ。
だが、しかし――名乗らずとも、我らのことを知っているようだな。やはり、これは必然――どうやらあの魔術師の手駒のひとつ――といったところであろうか」
ミハエルはそこまで言って口元に嗤みを浮かべる。アシャはその嗤みに危険なものを感じて身構えると、青年の発した、あの魔術師という言葉に、ふと老人のことを思い出し。
「あの魔術師――? そうだ、キシュゥは――。
お前達、ここに居るはず魔術師の老人はどうした――」
――ズドオ゛ォォォッン――!
眼の前で、青年たちの背後で、既に半壊していたキシュゥの隠れ家が突如として爆発した。外壁が弾け飛び、土埃が噴出し、遅れて轟音と爆風とが響き渡る。
「なっ――!?」
咄嗟に両腕で顔を庇い、飛来する小さな破片を防ぐアシャ。と、その眼前にドシャリと何か大きなものが墜ちてきた。
「きっ――キシュゥ――!?」
墜ちてきたそれは、全身をボロボロにされた魔術師の老人だった。キシュゥは、ぐおぉという呻きを漏らしながらも即座に立ち上がり、2人の天使へと、その後ろから噴出する土埃へと手を突き出し、叫んでいた。
「ノヒプ・ヴェレン――!」
老人の詠唱と共に、突き出したその腕から閃光が迸る。それは風を舞い起こし、2人の天使の背後にてもうもうと立ち込める土埃を吹き飛ばし、そして――。
払われた土埃の奥から、もうひとつの人影が現れる。それは、この地下に封じられていた筈の天使を名乗る少年――サリエルだった。その身体には、かつて地下で見たような全身を縛る鎖は無くなっている。すらりとした身体に純白の法衣を纏った少年は、静まりつつある土埃の中に立ったまま、ただ紅い瞳を茫洋と泳がせていた。
「お前だけは、逃さぬ――私の命に代えてもここで――!」
キシュゥは再び、嗄れつつも野太い雄叫びを上げた。と同時に、先程放たれた閃光が収束し、サリエルの身体に纏わりついていく。その光は魔力の鎖となって、かつて地下で見たようにサリエルの全身を縛り上げていった。
「ほう――人間にしては、面白い小細工を弄するではないか」
その様子をちらと眺めて、ミハエルは嘲笑うように言う。
「うっ――ぐぬぬっ――新たな天使が襲来して来ようとも――此奴だけは、逃さぬ――!」
「――いや、それは無意味だ。人間」
老人の言葉を否定するかのように、短く冷たくミハエルは言い放つ。彼はちらりと横に立つジヴリエルに目配せし、それに気づいたは少女は小さく頷くと、右腕を小さく振り上げて――。
「そう――このような小手先の魔術など、我ら天使には無意味――何故なら――」
――ザンッ――!
何かの斬れる音が、空気を震わせる。その刹那、白き一閃がジヴリエルの指の爪から迸り、宙を泳ぐように舞ったかと思う間もなく、サリエルの身体を縛りつつあった光の鎖を瞬時の内に断ち切っていた。
「我ら天使の有する神器は、人間の魔術など容易く上書きできるのだから――な」
勝ち誇るようなミハエルに、キシュゥはその老いを感じさせぬほどの剣幕で、噛みつくかのように呻いた。
「ぐぬぬぬっ――神秘斬滅か――! だが、私の邪魔はさせぬぞっ――!」
「見苦しいぞ、人間――。サリエル、せっかく解放してやったのだ。後はお前に任せる」
吠える老人を薄汚い布切れでも見るような目つきで眺めてから、ミハエルは魔術の鎖から解き放たれしサリエルへと視線を向ける。くい、と顎をやり、まるでそこに落ちたゴミを片付けておけ、とでも言わんばかりの仕草を見せて。
「ミハエルの言う通り――、本当に見苦しいですよ、おじいさま」
サリエルは焦点の合っていない紅い瞳で老人のいる方を見つめ、口許に嗤みを浮かべた。頬に刻まれているタトゥのような黒々とした模様が、その表情に呼応して歪んでいく。
「貴様にそのように呼ばれる筋合いなどないわ――! この、化物めがっ――!!」
「そうですか――では」
喚く老人に素っ気なく応じると、サリエルは右腕を軽く振るった。次の瞬間――、グルオォォッンという低い音が周囲に木霊し、そして――。
少年の茫洋とした瞳の見つめる先に、その虚空より、黒々とした何かが渦を巻き出した。それは、ぐるぐると絡み合い、次第に大きくなっていき、やがて形状を成していく。
「さあ、そこの人間を喰らえ――、僕が造りし、歪みの獣。儚い沼の虚空よ――」
それの名を、サリエルは呼ぶ。彼がその眼前に捏ねくり回したと思しき歪みは、黒と闇とが複雑に絡み合った歪な、体長数メートルもの巨躯を誇る――異形の獣のような形状へと練り上げられていた。