白く無邪気な【悪意】
音を立てて崩れてゆく、白の空間。
色のない空はヒビ割れ、終わりの見えない大地は裂けて。
空間は萎んでいく。まるで世界の、終わりのような光景。
そこに、残された者たちがいる。
このまま領域の狭間に押しつぶされようとしている者たち。
その少女は、今にも涙が零れ落ちそうな潤んだ瞳で、崩壊していく空と大地とを見つめていた。
ツインテールの青い髪、透き通った白い肌、幼さを感じさせる小さな身体。
緊張したようにぎゅっと握られた拳と、その掌でしっかりと掴んた剣が、小刻みに震えている。
戸惑いと困惑の入り混じった口調で、少女は呟いていた。
「そ――そんな、いきなり言われても――そんなの、どうやって――どこを、どう斬ればいいのか――わからないですよ――」
――案ずるな、小娘。
と――俺は言った。
薄れゆく意識。暗く狭まってゆく視界。
その中で俺は、何かを少女へと語りかけていた。
それは、滲みゆく異界の白を殺す方法。
それは、少女が断ち切るべき場所。
不安ではち切れそうになっていた少女の顔が微かに綻ぶ。その目尻には涙が溢れていた。
――【僕】は人差し指を前へと突き出し、
――【俺】が見つめていたその場所を、指し示す。
指し示されたその座標が、ズレてしまわないように気をつけながら――僕は倒れた。
○●
――数時間前――
天王寺翔真は、朝のホームルームの時間中ずっと、教室の机に突っ伏していた。
腕と机で視界を覆った彼に感じ取ることができるのは、周囲の音だけ。他の生徒たちの他愛無いヒソヒソ声、それを注意する教師の声と黒板とチョークの擦れる音、誰かが椅子を引くギィギィという音。教室の中は細かい音に満ちていて、しかし彼の頭は別のことで占められていて、何の音も聞いてはいなかった。
翔真は、昨日の出来事をぼんやりと思い出していた。
――魔術を使う金髪の少女によって【異世界】へと【召喚】されたこと。
――自分と一緒に現実世界から召喚された小さな女の子は、普通の人間にはない【断ち切る】という能力を持っていたこと。
――そして自分も、【俺】を名乗る【覇王アシャ】という存在に意識を乗っ取られ、人ならざる力を持って――紅く屈強な右腕によって――炎を帯びた鋼の怪物と戦ったこと。
――そして、【俺】を縛っていた封印の枷が、【僕】の身体をも強烈に縛りつけ、その激烈な痛みの記憶を最後に意識が無くなり――気づいたら自宅のベッドで目を覚ましていたこと。
――まさか、あれは夢だったのだろうか――?
翔真は少し顔を上げ、寝ぼけ眼で教壇を見つめる。教師が何かを黒板に書き示している。縦書きで、大きな文字で。しかし、考え事をしていた彼の視界はおぼろげで、何を書いているのかまでは読めなかった。
――いや、違う――。
翔真は眠たげな眼を動かし、自分の右手首をちらりと見やった。
制服の袖から僅かに覗く、赤黒い【枷】。
【覇王アシャ】である【俺】を縛り、その底無しの力を封印しているとされる【夢幻拘束】。
いまだ自身の手首と足首に嵌められているその枷こそ、昨日の非日常的な記憶が、夢ではなく現実であったことを雄弁に物語っていた。
「――では、武庫川さん。自己紹介してもらえるかな」
不意に耳に入る教師の声。
――自己紹介――? 転校生でも来たのだろうか。
翔真は顔を上げた。
教壇に立っていたのは、背の高い金髪の少女。健康的な小麦色の肌に三つ編みと制服がよく似合う、黙って静かに立っていれば思わず振り返ってしまいそうなほどの美少女。
しかし、金髪の少女は開口一番、そんな美少女の幻想を叩き割るかのような、あっけらかんとした口調で、腹の底から響かせているかのような大きな声で、自己紹介を始めた。
「はじめましてっ! この国のどこか? うーん……とりあえず遠いどこかにあるレシノミヤっていう街から、はるばるやってきました武庫川奈留と申しまーすっ!」
翔真は金髪の少女の姿を見つめ、口をあんぐりと開けた。
それは昨日出会った、ナルと名乗っていた少女そのもの。法衣が制服になっている以外、紛れもなく彼女は、自分を異世界へと召喚した、あの金髪の魔術師の少女に違いなかった。
「こっちの世界は――じゃなかった、このへんの地域は不慣れなので、変なこと言ったりするかもだけど、みなさんよろしくねっ!」
転校生の少女――武庫川奈留はそう言い終えると、明確に翔真の方へと視線を向ける。その瞳と瞳が合わさる瞬間、彼女は何かを伝えようとするかのように軽く片目を瞑って見せた。
○●
「相変わらず悪趣味な部屋だねぇ――」
その【子供】は呆れたように、しかしどこか愉しんでいるかのような口調で呟いていた。
そこは【無限に広がる真っ白な空間】。
子供が見上げているのは、規則正しく並べられた高さ2メートルほどの大きさのカプセルの列。カプセルの中は液体で満たされ、そこでゆらゆらと揺らめくのは人影――。
「いやはや、【姉さん】が見たら、なんて言うだろう――ふふっ、【姉さん】は真面目だから、こんなの見たら怒り出すかもしれない。だとしたら、その時にはキミの命はないかもねぇ」
嘲笑うように子供は振り返る。肩の辺りまで伸びた雪のように儚く透明な銀髪をさらさらと靡かせながら、少し離れた場所で呆けたように突っ立っている男を見上げた。
「キヒヒ……どうやら、あなたのお姉様とは趣味が合わないようですね……こんなに素晴らしい蒐集品の数々をご理解いただけないとは……」
その男は薄気味悪い声を漏らした。湿ったような、澱んだような聞き取りにくい声。
「クヒヒ……理解していただくためにも実践が必要かもしれませんな……せっかくですし、お姉様にも、わたくしの蒐集品に加わっていただくのもいいかもしれません」
部屋の中に反響する、奇声にも似た男の笑い声。
その時、男の奇声を拭うような鋭い言葉が、空間を震わせた。
「キミ――調子に乗るなよ?」
僅かに怒気を含んだ、子供の声。
「キミごときに、姉さんのことを軽々しく口にして欲しくはないねぇ」
幼さを多分に残した声は、しかし微かに怒気を含んでいた。一瞬で男の奇声を消し飛ばすほどに芯が通って、肌を突き破らんばかりに鋭利さを帯びて。
「ひ……ヒィッ……!」
湿った声の男は、怯みきった小さな悲鳴を漏らした。鼓膜を震わす微かな怒気に動揺を隠せず、その男は子供の顔へと視線を移し、その表情を伺い――。
子供の、その表情を窺い知ることはできなかった。
何故なら子供の顔には、白い仮面が着けられていたから。
その白い仮面は、子供の顔貌や表情や思惑の片鱗すらもすべて――覆い隠していたから。
男は後ずさりながら、慌てて言い繕った。
「し……失礼いたしました。四天王がひとり【白霧幻面】であらせられるというヨツバ様へ、軽々しくこのようなことを……お許しくださいませ……」
ヨツバと呼ばれた【子供】は再び嘲笑うような声を出す。白い仮面からこぼれる銀髪が小刻みに揺れた。
「ふふっ、わかればいいんだよ。【その力】を君に与えたのが誰なのかを考えれば、普通そんなふざけた言葉は出てこないだろうからねぇ」
「お……お……お許しくださいませ……」
男は震えながらその場に膝をつき、平伏した。
「そ……それで、今日はなぜ、ここへいらっしゃったのですか?」
「【あちらの世界】で少しトラブルがあってねぇ。そのせいで炎魔軍が少しゴタゴタしているんだ。で、水魔軍――つまり、ボクに役割が回ってきたってわけ」
ヨツバの言葉に、男は怪訝そうに眉を潜めた。
「【あちらの世界】でのトラブルで【こちらの世界】に来られたのですか……?」
男の問いかけに、ヨツバは無邪気げな嗤い声を上げながら屈み込み、白い仮面を男の顔へと近づけて囁いた。
「そう――何故なら標的は、【こちらの世界からの召喚者】だからねぇ――彼らは|ダイスロウプ魔軍の領域を散々荒らして【こちらの世界】へと帰還した」
言いながら、ヨツバは更にその仮面を男へと近づける。子供というよりも年頃の少女から漂うような甘い芳香が、男の鼻をくすぐった。
「ふふ、【こちらの世界】でのこととなれば、ボクに役割が回ってくるのは必然なんだよねぇ……【姉さん】のおかげで、ボクはこっちに来やすいから」
徐々に部屋の中に白い霧が立ち込める。まるで、ヨツバが紡ぐ言葉に呼応しているかのように。
周囲を漂う白い霧と甘ったるい芳香に、男は息苦しさを覚えた。
「で、わたくしは何をすれば……?」
「キミがやるべきことはとっても単純さ――標的をキミの【蒐集品】に加えてくれればいい」
「は……はぁ……」
真意がわからず曖昧に頷く男に、ヨツバは微笑みかけるように小さく首を傾げて、その表情を覆い隠す白い仮面を揺らして見せた。
「ふふっ、簡単なことだろう――? 【透明に澱む蒐集者】であるキミにとっては」
○●