彼の【視て】いたもの
【2053年3月26日 11:06】
「ほ、ホントにいいの――? 大事な研究資料なんでしょ――?」
件のミイラが保管されている資料室の扉を前にして、瑞穂は不安げな面持ちで大樹へと話しかけていた。
「大丈夫だよ。上の許可は取ってるし、公開こそしていないけど別に隠しておくほどのものでもないみたいだからね。さて――、いくよ」
あっけらかんと応えて、大樹は資料室の扉の取っ手へと手をかける。ズオォォン――と、低く唸るような音を立てて、ゆっくりと扉は開いていく。
ひんやりと冷え切った、資料室のちょうど中央に、それは安置されていた。
「――これが――心臓だけが生きているっていう――ミイラ――」
瑞穂は呟きながら、恐る恐るそれを覗き込む。
それは――、乾涸びた人間の形状。頭部から足先までの大きさから推測できるおおよその年齢は、大人未満かつ子供以上といったところだろうか。その表面はカラカラに乾き切って無数の皺が刻まれ、元の色を完全に失って錆びているかのような茶色に染まっていた。
「――この人――いったい、何があって――ミイラになったんだろう――」
無意識の内に、少女は思考を零す。かつて、貌であったであろう部分をじっと見つめて、しかし無数の皺に覆われている上に所々が風化してしまったそれは、もはや仔細な形状を留めてはおらず、かつて浮かべていたであろう表情などは一切たりとも窺い知ることはできなかった。
やがて瑞穂の視線は、落ち窪んだ眼窩へと向けられる。眼孔は深い闇に満ちて、特に右眼だったであろう場所は、そのあまりの底の見えなさに、少女は途端――ぞくり、とした感覚を抱かずにはいられなかった。
まるで――その右眼は、何かによって穿斬られた、痕のようにも見えたから。
心を、その胸の内にある心臓を、冷たい指先でぎゅっと握られたような。不快な感触が、唐突に瑞穂の中に湧き上がる。彼女は、ゔっと嘔吐くような声を漏らし、思わず口元を抑えると――。
――と、その時。不意に予期せぬ声を、瑞穂は聞いた。それは彼女の背後に立っていた、塚本大樹からのものだった。
「――君は――誰だ――? いや、それより――その子から――手を離すんだ――」
誰かに話しかけているかのような、彼の言葉。
誰に向けて――? ここには、大樹くん以外には私しかいないはずなのに――?
驚きのまま、瑞穂は胸元に纏わりついたままの不快感を堪え、振り返った。
その視線の先で、大樹は立ち尽くしたかのように虚空を見上げていた。何もないそこに、居るはずのない誰かの姿を視ているかのように。彼は少女以上に驚いた表情を浮かべ、怪訝そうな眼差しを上方へと向けて、独り言ちていた。
「――もしかして――君は――ずっと――この中に――?」
「えっ、あの――大樹くん――? 誰かと――話してるの――?」
虚空へ向けて話しかけているかのように声を漏らし続ける大樹へ、瑞穂は困惑した声をかける。その問いを境に、彼はハッと我に返ったように目を見開き、そしてその視線をゆっくりと瑞穂へと向けて。
「――そうか――僕にしか――視えて――」
意味の理解らない彼の呟きの連続に、少女は僅かに苛立ち含んだ、しかし心配げな問いを再び。
「ねえ、何を言ってるの大樹くん。急によくわからないことを言い出して――いったい、どうしたっていうの? 何か、あったの――?」
「い、いや――なんでもない――よ」
そう応える大樹の目線はしかし、少女と、明後日の方向である虚空とを行き来していた。
「ど――どうしたの――大樹くん――? なんでもないってこと無いでしょ――だって大樹くん、明らかに様子がおかしいもの。まるで――」
横たわるミイラの近くにある、見えない何かを、視てしまっているかのようだもの。
「なっ、何言ってるの、瑞穂ちゃん。テレビか何かの観すぎじゃないの。そんなことあるわけないだろう――?」
わざとらしい、はははっという乾いた笑いを鼻から空かし、大樹は今度こそ真っ直ぐに少女を見据えた。
「それより、そろそろ出ようか。いい時間だし、せっかくだからお昼も食べていきなよ。ここの食堂のオススメランチを教えてあげるからさ」
言われて瑞穂は時計を見る。彼の言う通り、その時間は昼前を表示していた。
彼の態度への違和感は拭えず、聞きたいことの答えも返ってはこなかったが、しかし瑞穂は不承不承頷き、そして立ち上がっていた。
「うん――そうだね。そろそろ出よっか。こんな貴重なものをわざわざ見せてくれてありがとうね、大樹くん」
ミイラの安置された資料室を後にする、瑞穂と大樹。そしてその扉は再び、閉じられた。
――後に、少女は知ることになる――。
――この時――彼は、【彼女】の姿を視ていたのだと――。
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