微笑みと微嗤みに、私【ワタシ】は
瑞穂はホッとしたように溜息をつき、胸を撫で下ろしていた。
――と同時に、ふと彼女はノエの表情に異変を覚え、そして訊いていた。
「――あれ――? あの、ノエちゃん――どうかしたの――?」
ノエは、これまでの冷静なそれとは少し異なる、どこか憂いを帯びたような面持ちをしていた。その澄んだ瞳を瑞穂へと向けながら、しかし何も捉えていないかのように茫洋と泳がせながら、ぽつりと呟いて。
「――立体映像越しに、私も彼の言葉を聴いた――」
「彼――って、もしかして――天使を名乗っていた、あの――」
「ええ――私たちにも、貴方たちにも、彼は――マモルくんだった男の子は――自分のことを天使と、憤怒のアウリエルと名乗っていた――」
ノエは瞳を細めて。そして、不意に語気を強めて。鈴の音のような澄んだ声を震わせて。
「でも、それは違う。
私には、天使というものが何なのか、第3異界というものが何なのか、知らないし――そんな情報は持ち合わせていない――けれど――」
紫色の長髪を揺らして、小さな白い肌の少女は息を吐く。冷えた吐息が、その頬を霧のように伝い。
「あの子は――人間だった。少なくとも、最初に出会った時は、間違いなく、人間だった。
ワタシの認識でもそうだったし、私の印象でも、そうだった――。
そして、彼は言っていた――、私と出会ったときには、既に半分くらいは天使のものになっていた、と。
――裏を返せばそれは、その時点では、まだ半分は人間だったということ――。
――そう、彼は人間だった。そして天使になったのか、させられてしまったのか。それはわからない。だけど――。
それでも――彼があの時、私に見せた笑みは――あんな偽りなんかではなかった」
ノエは山吹色の瞳を細め、とっくの以前に天使の飛び去っていったその空を――じっと見上げていた。
○●
ノエの脳裏を過ぎるのは、サンドイッチを頬張る男の子の笑顔。
「私は――ティマニタの計画を阻止して、もうその役割を終えたと思っていた――あとの残りの時間は、本来死んでいたはずの私にって、おまけのようなものだと思っていた。
でも――」
言いながら、少女は思い出す。
それは、かつての姉の記憶――自分の作った料理を美味しそうに食べてくれる、その微笑み。優しい言葉。そして――それらは次第に、脳裏に映る男の子の姿と重なっていく。
「でも――、もし私に――、他にやるべきことがあるとするなら――戦うべき理由があるとするなら――」
そして、次に思い出されるのは、姉が異形のものに飲み込まれていく時の、あの忌まわしき記憶。助けを求める声すら出す間もなく、熔鋼の中へと消えていく姉の姿と、ただそれを見つめるだけで何も出来なかった自身の、灼ける様な胸中。
――自分が、自分でないものに飲み込まれていくなんて。
――それが終わりだなんて、悲しすぎるから。
「もし、あの子が――もともと人間で、天使というものに成り代わられてしまったのなら――」
そして更に思い出す。あの時の――最初に出会ったときのマモルの無邪気な笑み。飛び去っていく間際の、天使アウリエルの見下ろすような嗤み。
同じ者が、同じように浮かべたものでありながら、まるで本物と偽物ほどに全く異なって感じられたそれは、人間か、人間でないものの違いか――。
それでも――、とノエは口の噛み締めて。
『――それじゃあね――、お姉ちゃん。
お姉ちゃんの作ったサンドイッチ――うん、美味しかったよ――』
最後に聞いた、彼の言葉。相変わらず偽物のような嗤みを浮かべていた彼はしかし、最後の最後で、その口調の端に迷いのようなものを滲ませているかのように感じられた。少なくとも、今から何度思い起こしても、ノエにはそう思えてならなかった。
もし――あの時の嗤みが偽物ではなかったのなら、僅かながらでも本物で笑みであったのなら。
「――天使を名乗った彼の中に――マモルくんが、あの本物の笑みを見せた彼が、まだ少しでも残っていてくれるのなら――私は――」
少女は――、ノエは呟き、視線を下ろす。
その視線の先では、小柄な女の子が――、塚本瑞穂が身に降り掛かった粉雪を振り払いながら、ゆっくりと立ち上がっていた。
「そうだね――」
瑞穂はノエを見つめ、ゆっくりと近寄りながら、呟いていた。
「でも――、大丈夫だよノエちゃん。その機会は、いつかきっとやってくる。
だって、たぶん――私たちは、あの子とまた出会うことになると思うから」
「それは――どういう――」
問いかけるノエ。瑞穂はその手を握り、真っ直ぐに真正面に立つ相手を見据えた。
「何となく――、だけど思うんだ。直感というか、胸騒ぎというか――。
だって、私は――、あの男の子と似たような存在なんだろうなって――そんな気がするから――。
いずれ遠くないうちに、また惹かれ合い、ぶつかり合うことになると思う――」
紫紅色を帯びた瞳を疲れたように細めて、白銀に染まったツインテールを吹雪の残滓に靡かせて、瑞穂は静かな声で。
「だから――その時には、きっと――ノエちゃん」
そこまで囁いて、瑞穂はその先を促す様にノエを見つめる。それに応えるように、自分に言い聞かせる様に、ゆっくりとノエは呟いていた。
「ええ――私は――、あの子を、マモルくんを、あの笑顔を見せた本当の彼を――助けたい」
○第6話 終わり●




