【飛翔】
「て、天使――ですか――!?」
覇王アシャが唐突に発したその言葉に、瑞穂は心底驚いたような声を上げた。
「天使って――あの、いわゆるエンジェル――ですよね。羽が生えて、頭の上に輪っかがあって――」
白き異形を見上げつつ呟く瑞穂に、アシャは僅かに頷いた。
「この世界ではそういう風に伝わっているということか――まあ、仔細は違えど、概ね同じようなものだ。この世界の存在ではないということに変わりはないのだからな。
そう――ここでもない、あちらでもない、しかしそれぞれの世界の隣に位置する、また別の世界――いわゆる第3異界と呼ばれる全く別の異世界より、抑止壁を超えて侵入してきた者ども。それが、天使と呼ばれ伝えられる存在」
言いながら、アシャはぎりりと奥歯を噛み締めて。
「魔族とは似て非なる、白き異形――あんなものを創りだせる存在など、それ以外に考えられんからな。
なるほど、しかしふざけた連中だ。魔力により身体を成し、己を創りし操り主の代わりに自律してことを行う――それは完全に俺の――」
そこまで言いかけて、アシャは思い直したように口を閉ざした。
「――お、『俺の――』? どうしたんですか、アシャさん」
「いや、何でもない――そんなことより、まずはアレをなんとかするのが先決だ」
「そ、そうですね。でも、アシャさんの翠光の矢すら効かない敵を、どうやって――」
アシャの顔を見つめ、考え込むように瞳を揺らす瑞穂。そんな少女を、覇王アシャは鼻で嗤って。
「案ずるな、小娘。アレが、本当に天使の創りしモノだとしても、倒す手段は既に2つ考えてある。但し、忌々しき拘束への時間制限がある故に、行えるのはどちらか一方だけだ。
――1つ目の方法は、我が身体に大きな負担をかけることになる。
――2つ目の方法は、お前が頑張るだけでいい。
さて、小娘――どちらの手段で行くか、お前に選ばせてやろう」
「そんなの、考えるまでもありません。後者で――『私が頑張る』だけでいいなら、そっちの方でいきましょう。翔真さんに大きな負担だなんて――これ以上、かけられるわけないですからね」
瑞穂は即座に答え、アシャの返しを待った。
「そうか――その答え、二言は無いな?」
「もちろん」
その言葉を待っていたかのように、アシャの口角がニヤリと歪んだ。
「――ときに、小娘。お前、高いところは大丈夫だな――?」
予期せぬ突飛な問いかけに、瑞穂は訝しげに小首を傾げる。
「えっ――? た、高いところ――といいますと――?」
少女が訊き返した、その時だった。
横に立っていた筈のアシャの姿が消える。腰から腹にかけて誰かの腕がまわり、そして少女の小さく細い身体は――抱き寄せられた。
「えっ――」
戸惑いの声を上げる間もなく、ふわり――、と少女の足が地面から離れた。
「う゛え゛っ――えっ、えええっ――!?」
抱き寄せられた腹部に自身の重さが集中し、少女は軽く嘔吐くような声を漏らす。彼女は咄嗟に顔を動かして振り返り、背後より自身を抱きかかえているそれへと視線を向けて――。
「あっ――アシャ――さん――?!」
そこで、ようやく理解した。
瑞穂を抱きかかえていたのは、金色の瞳をした少年――覇王アシャ。彼は少女の背中にまわり、腰より両腕を回して、その小さく細い腹を抱き上げて。その上で少年は――、自身の背中から生え伸びたもう一対の翠翼を大きく左右へと広げ、羽撃かせて、空へと飛び上がっていた。
「――よそ見をするな、小娘。敵はまだ上方だ」
振り返る少女と、ちらと様子を伺う少年の視線がぶつかり、彼は言う。
言われて瑞穂は視線を戻す。そしてふと界に飛び込んできたのは、遥か数百メートル下に広がっている街の光景。ミニチュアかと見紛うほどに小さく感じる街々を見下ろし、少女は自身の足先から、すぅと血の気が引くのを感じた。
「うっ――うわあああぅっ――!? たっ、高いです――高いです、高いですってば――!? って、ててて、いうかアシャさん――空飛べるんですか!?」
「たわけ――よそ見をするなと言った意味が解らなかったのか」
心底呆れたようなアシャの低い声が、瑞穂の耳元をくすぐる。
「翼があるのだ――飛べぬわけがなかろう。
我が右足の枷に封じられし、翠の両翼――無論、ただの飾りなどではない。2対の翼の本来の用途、1つは何者よりも疾く空を駆けるための翼として――もう1つは何者よりも疾く空より敵を射抜くための弓として。
覇王たる俺にとって、空であろうと地上であろうとも戦い征するべき場所であるのだからな――。
――と、それよりも喚くな小娘。この程度の高さなら落ちても死なんだろう」
「いやいやいやいや――落ちたら普通に死にますって、この高さはっ――!?」
「案ずるな。要はお前を落とさなければいいのだろう――? 幸い、お前はチビゆえに軽く、チビな身体ゆえに持ち上げやすい――落としたりなどするものか」
「そっ、そんなチビチビ言わないでください――!」
若干涙声な少女の声を無視して、アシャは続ける。
「そんなことより集中しろ。我が右足に封じられし力たる射翼の矢が効かぬのであれば、奴にはより強力な威力を持った攻撃を喰らわせてやるしかあるまい。
無論、俺単独でも出来ぬ方法が無いわけでもないが――これ以上、我が身体に負担を掛けるのもリスクとなるのでな。
ゆえに、小娘――お前には『頑張って』もらう。お前の持つ概念格の能力――神秘斬滅による一太刀にて直接その身を斬り裂けば、いかに天使に創られしモノであろうと、その身体を維持することはできぬであろう」
言われ、少女は敵を見上げた。要は、アシャが翼として敵のいる高層まで飛翔し、瑞穂が刃として敵を斬り裂き、倒す――ということ。
考えてみれば単純な作戦――と、そこで瑞穂はふと思った。
「――わかりました――けど、ということは、あの敵がいる高さまで、更に上昇するってことですよね――」
未だ、瑞穂たちと白き異形との高度には、相当な隔たりがあった。
「当然だ。
高度を上げるぞ。備えろよ、小娘」
「やっ――やっぱりぃ――っ?! さらに高いとこに行くんですねっ――って、うわぁ、もう高いっ――!」
「高いところは大丈夫なのだろう? なぁに、とっとと奴を倒してしまえばいいだけのことだ。我慢しろ」
「そんなこと言った記憶ないですけど――!? まあ、ここまで来たら――やるしかないですけどねっ――!」
少女を抱きかかえた金眼の少年は、背中より広げし翠翼を羽撃かせ、急速に上昇していく。
向かう先は、さらなる上空――そこでは白き異形が、迎撃のための重奏を今にも放たんと、両腕を広げ待ち構えていた。
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