プロローグ
西暦2213年。
深刻な水不足・食糧不足、地球温暖化の進行、物資の不足による戦争の勃発。
世界は正に、破滅の時を迎える。
西暦2250年。
火星探索ロケット「アビス」帰還。
褐色生物の生息が可能であると報告。
西暦2301年。
スペースステーションによる地球からの脱出。
褐色生物達は、火星へ向けて旅立つ。
褐色生物が一人も存在しなくなった地球は、あまりにも無残である。
酷い空気の汚れ、森林の減少、オゾン層の崩壊。
かつての奇跡の星は、褐色生物の行いによって地獄へと変貌していた。
これが全て事実ならば、もう地球には生物一つ存在しないだろう。
ボーダーコリーの雌は思う。
自分達犬のおよそ四割は、褐色生物によって種を改造された。
それを示すかのように、自分の体毛は鮮やかなピンク色である。
猫で言えば、シュレーディンガー実験も歴史に深く刻み込まれている。
褐色生物は、実験をするために平気で他の生物の命を利用するのだ。
自分達が最も地球に生息している生物であるというのに、わざわざ別の生物を利用する。その精神は私達にはわからない。
しかし、絶対に善良な褐色生物は存在したはずである。
犬の首に紐をつけて歩かせる異様な接し方ではなく、もっとしっかり、自然のままの姿で生物達と接するような褐色生物が。
そうでなければ、自分達は環境に打ち負け、滅んでいたはずだ。
結局、歴史は自分達に都合の良い事しか残さない。
その点では、褐色生物も教会もまったく共通しているというのに、
「褐色生物達が犯した過ちは繰り返さない」などとほざく教会は知らん振り顔である。
出来るのならば、教会を説得してやりたい。
これじゃあ結局、本質は褐色生物となんら変わっていないからだ。
説得するには、自分が教会の重要犬物にまで上り詰め、方針を改新するしかないだろう。
教会は、白影の言っていた事を違った方向で解釈してしまっているのだ。
その解釈を根から変えるべきである。
……こんな馬鹿らしい事を思っている自分に呆れた。
もし教会の解釈を正しく直すにはとしたら、真っ先に考え付いたのがこれだったのだ。
教会へ反対する犬猫達に集まってもらうという手段の方がおそらく楽であろう。
もしかすると、自分一匹の力で何とかできると思っているのかもしれない。
そんなにちゃちくないぞ、この目標は。
一匹で強い主張をするよりも、百匹で普通に主張した方が明らかに説得力が高いのだ。
こんなちっぽけな自分一匹で出来る筈がないのだ。
つくづく愚かだなと思う。
自分の予定表を確認した所で、机の横に立てかけられているバッグの背負う部分に前足をひっかけて、
背伸びしつつ前足を素早く振り上げた。
バッグの重さが背中にのしかかる。
子犬の時に誰でも練習することだ。
こうでもしないと、バッグは背負えない。
この当たり褐色生物が残していった文化っぽいな、褐色生物はどんな風にバッグを背負っていたのかな、とか思う。
大人になってまで好奇心旺盛な自分は良く「子供っぽい」と言われる。それが自分が子供に好かれている理由なのかもしれないが。
忘れ物が無いか机の上、ベッドの上を確認する。
机の上には子犬達の成長記録で一杯、ベッドの上には歴史の本が大量に積んである。
かろうじて眠るスペースはあるが、大抵自分は地べたに毛布をかぶって眠る。
もちろん毛布は「自分と家族の抜け毛」を使う。長期間家族達と生活して生まれる、結束の証だ。
犬の毛なので犬種によってはゴワゴワだが、自分の家系は比較的さらさらとした毛の多い家系なので気持ちがいい。
最後に時計で時間を確認する。――六時ジャスト。
しっかりと戸を閉める。薄暗い家の中が見えなくなった。
戸には小さく「トシェ」と書かれてある。
円筒型のスロープをひたすら下へ歩いていく。
エレベーターが一つもないうえに通路は歩くたびギシギシ音を立て、蜘蛛の糸はそこらじゅうに張っており、外見は正に貧乏である。
それを裏付けるかの様に住んでいるのは自分も含めた貧乏人だらけで、そのくせ性の悪い奴等が多い。
通路ですれ違うたびに嫌らしい目つきで睨まれるのはたまったものではない。
けれども、自宅に入れば周りは何も気にならない。
自宅は最上階の端っこにあるし、最上階には誰一人住んでいない。
これだけが、住むうえで唯一の救いだ。
マンションから出て、街道を歩き始める。
街道の電信柱には小型の空気清浄機が至る所に設置されている。
この時間帯はまだ車もあまり通っておらず、昼間に凄く賑わう交差点も静寂に包まれていた。
この世界は、褐色生物と同じ生き方をしないために、環境を第一に考えた国造りが行われている。
そのおかげか、砂漠地帯は減り、森林は増え、オゾン層は修復し、北極・南極は氷がしっかりと固まり始めたらしい。
確かに、教会の「環境に優しく」は正論だ。地球の寿命を延ばす一番の方法だろう。
しかし、昔の地球がどの様な姿であったかをはっきりと証明できる証拠が無いのだ。
褐色生物の残していった古物書などは、教会によって殆どが焼き捨てられた。
褐色生物の残した文化に一切触れてはならないという規則があるため、この事に関して口出しする犬はいなかった。
勿論私達のような馬鹿な研究者は反論した。古代の地球の姿がわかるかもしれないと言うのに、それを捨てるのは勿体無いと。
教会は、全てあの褐色生物が残した物なのだから、地球を壊す事についてしか書かれていないと言い、あっという間に焼却してしまった。
褐色生物には悪者しかいないと考えているのだ。
教会を作った本人だとも言える白影も、これを聞いたら悲しむ事だろう。
自分の言った事が、数百年後にはこんなにも違う形で解釈されていたのだから。
白影の思う地球はもっと違う姿だったのだろう。
教会を継ぐ者達の頭が偏りすぎていたのだ。
教会の事をぶつぶつと頭の中で呟いているうちに、駅まで着いていた。
もはや日課となっていた。もっと面白い事は周りにいくらでもあるというのに。
駅は大部分が改装中であり、そのうえ通勤ラッシュ中だったのか、いつも以上に狭苦しく感じた。
電車に乗り、適当な席が空いているのを確認し体を押し付け、バッグの中から本を漁りだす。
シートベルトを締めた途端に、発車を告げるブザーの音が鳴った。
電車が浮上する音。
数秒の内に電車は満員御礼だ。
珍しく席に座れてラッキーだと思った。何かいい事あるかも。
大量に犬猫が降りる首都駅を通り過ぎ、電車を待つ人さえいない寂しい駅に降りる。
息苦しかった電車から降り、一安心したのもつかの間、
「あ、今日はお早いのですね、トシェ先生」
と、階段の方から声をかけられた。
トシェは素早く踵を返し、声の聞こえる方向へ歩く。
高そうな赤いコートを身にまとったヨークシャーテリアだ。
ああ、何か悪い事あるかも。
「おはよう御座います、メリルさん」
普通に生き生きと暮らしている子犬や毎日を生きるので精一杯な子犬まで保育園にいるために、差別が起きやすいのがここの保育園の欠点だ。
それらは自分達保育士がなんとかしなければならない点なのだが、いかんせん上手くいかないのが現実である。
だから、親達の協力が必要だというのに、
「うちの子、昨日もまた他の子と喧嘩してしまったそうで……。
トシェ先生、もう少し早く喧嘩を止めてくだされば、あんな怪我はしなかったでしょうに。
しっかり叱ってやりましたから、しばらくは大丈夫でしょう」
などと適当な親がいるから困る。
「申し訳ありません。けれど、ルート君はあの後するにごめんなさいが言えましたから立派ですよ」
と、一応謝っておく。
本音が言えない所、機械文化という言葉が異様なまでに胸に突き刺さる。
トシェ達は人気の無い駅を出て、街道に出た。
「雨が降りそうな天気ですわね」
メリル婦人が呟く。
空を見上げると、これから起きる出来事を予知させるような黒い雲がたちこめていた。