彼方の海波
波の音がした。
愛しさと憎らしさの間、波の音と一緒に私の気持ちも揺れていた。
「夜の海のうねりは、龍の鱗がなびいているかのようだね。なんだか、懐かしいな。」
彼はいつもの調子でそう言った。あたかも龍を見たことがあるかのように、ないものをあるかのように、真実のように嘘を語る人だった。もしかしたら、嘘を語る時の方が真実らしい喋り方をしているかもしれない。つまり、彼は根っから嘘つきだった。
「龍なんか見たことないでしょう。」
「ないけど、なんか、実際居たらこんな感じかなって。」
海を見つめたまま彼は答えた。その瞳に私は映らない。だから、なぜ、今隣に居てくれるのかわからない。けれど、その横顔を見つめるだけでこの鼓動の音が全身に溢れてしまいそうなのに、その目で見つめられたら、私は息もできないだろう。
二人で海に来ている今のほうが、一人で海に来ている時よりも寂しいと感じていた。
最初、彼がついてきてくれると言ってくれた時は、淡い期待を抱いてしまったが、実際海に着いてみると、彼は一人で海を見ていた。
二人隣に並んで話をしていても、言葉の奥の何かが交わることはなかった。その曖昧な感覚が、鋭い不安を生んで心に風穴を空ける。彼が私と何を共有する気はないらしい。
私以外の誰かとここへ来ても、同じ会話をしただろう。同じ言葉で。
私だけ会話を続けたくて、私だけ彼が隣にいることが嬉しくて、私だけ焦って、私だけが彼を思っていて……。そう思うと、どうしようもなく惨めな気持ちになるのだ。
「ねえ、好きな人とかいないの? 」
「いますよ。」
「告白しないの? 」
「……ええ。」
「なんで? 」
「どうせ、フラれるからですよ。」
知っているくせに。と、心の中で毒づく。だから、私の好きな相手が誰かを尋ねはしないのだ。きっと、彼は私の気持ちを知っている。それでいてこのように問いかけてくるのだ。
前に彼が、恋愛の経験値がほしい。と言っていた記憶が脳裏を過る。
もしも、思いを打ち明けて、彼が応えてくれたとしても、そこに彼の気持ちはない。
経験値、そう、大ボスを倒すための雑魚キャラと一緒なのだ。
いつか他の誰かと結ばれるためのスライムになどされて堪るか。苛立ちが募るが、それでも彼を直接睨みきれず、水平線を眺めた。
こんな、すべてを飲み込んでしまいそうな真っ暗な夜の中にも、空と海の境目は存在していた。
「水平線のところ、海がより一層黒くなっていますね。」
「……本当だね。」
「美しいですね。」
「水平線? 」
「……水平線も、波のきらめきも、このぬるい風も、消えそうな星の光も、いろいろ……。全部です。」
私は、それらを美しいと思えた私の心の部分を美しいと思えた。美しいものを素直に美しいと思える心があることで、私は彼を愛する気持ちを素敵なものだと思えた。
「……そうだね。」
波の音と同時に、彼の声が返ってきた。彼が本当に私の言葉に同意したのか、その音の響きでは私は判断できなかった。けれど、彼と同じものを美しいと思えていたらいいなと思った。
それらすべてを美しいと思えるのは、彼が私の傍に居てくれているからだった。彼が傍に居てくれる時、私は世界を愛しいと思えた。そんな自分を少しだけ、美しいものだと思うことができた。だから、私は彼を愛さずに居られなかった。そのせいで、彼が私の気持ちを弄んでいるのだとしても、彼を恨むことはできないのだ。
また、波の音がした。
読んでいただき、ありがとうございます。
この作品の後日談が「静寂と吐息」です。
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