第六章『追』
【第六章 『追』】
ルナとヴィオが外出し、残された部屋でライフル銃を分解し掃除する灰音。それをじっと見ている椎。静かな時間が流れる。
「灰音」
「何だ」
手を止めず顔も上げず、灰音は応対する。作業の邪魔をするなという意味ではないが、作業の手を止める必要性も感じなかったからだ。椎も構わず話し掛ける。
「皆、良い人だよ」
「ああ、そうらしいな」
「殺しちゃ嫌だよ」
「それはあいつら次第だ」
頑なに灰音は意志を曲げない。椎のことを思ってくれているのは嬉しいが、過剰だとも思う。椎がいなければ殺されずに済んだ者もきっと大勢いる。どうして殺すことでしか解決できないのだろう。
「灰音の石頭」
「あ?」
毒突きながら椎が立ち上がると、灰音は銃身をくるりと回しながら椎を睨み上げた。
「何処に行くんだ」
「心配しなくても家からは出ないよ」
「ならいいが」
きっと灰音は過保護なんだ。椎は無言で頷き、部屋を出る。部屋から出たかっただけで行きたい場所はなかったが、廊下で突っ立っているわけにもいかない。宰緒の部屋にでも行こう。
だが宰緒の部屋をノックしてみても返事はない。相変わらずヘッドホンを装着してガンガンと何か聴いているのだろう。
返事を待たずドアを開けると、案の定宰緒はヘッドホンを装着している。後ろからヘッドホンを外すと、眉を顰め振り返った。
「……またお前か」
溜息を吐き、画面に顔を戻す。そして手だけひらひらと差し出す。
「返せ」
「いつも何してるの?」
いつも英字と数字の羅列を眺め、増やしていくだけ。何をしているのか椎にはさっぱり理解できなかった。宰緒は手を止め、もう一度振り返る。
「俺がホログラムを見せてくれと言った時、お前は断った。だから俺も断る。ホログラムを見せてくれるんなら教えてやらんこともない」
根に持たれていた。
「でも首輪の電源は入れちゃ駄目だって」
「ああ、それなら青羽に、ジャミングできねぇか訊いてみた。そしたら作ってくれた」
引出しを開け、作ってもらったらしいものを手探りで掴む。いつの間にそんなものを作っていたのだろう。
「やっぱりルナ凄い……でも黒葉と灰音にも訊いてみないと」
「面倒くせぇな、お前」
「そんなこと言われても」
バタン、と強く引出しを閉める。手には何も持っていない。
「俺も自分のことは相当面倒くせぇと思ってるけど、お前も大差ねぇな。そんなに黒葉と灰音が怖ぇかよ」
「だって、黒葉は……最初、殺されると思った……」
「あー、それな。何となく聞いたわ。ナイフ持った黒葉に組み敷かれたんだよな」
こくんと頷く。
「お前、あいつらの中で一番不幸だと思ってる?」
「え?」
話の意図が見えない。何を言おうとしているのだ? 宰緒は。
「黒葉のことはまだよく知らねぇから、まああいつは置いとこう。青羽とカルディとロッカだ」
「そんなの、わからない……」
「だろうな。いいか、あいつらは馬鹿じゃない。見す見すヘマして灰音に殺されるようなタマじゃねぇよ」
「え!? それさっき……え?」
先程ルナの部屋で灰音と話した内容に……
「あ? ああ、あいつの部屋に盗聴器仕掛けたからな」
とんでもないことをさらりと言い放った。椎はぱくぱくと開いた口が塞がらない。ヘッドホンで何を聴いているかと思えば、盗聴した声を聴いていたらしい。
「何してるの!? って、今まで筒抜けだったの!?」
「人聞き悪いなぁ。暇だったからさっき部屋行った時に仕掛けてみただけだろ」
暇だったら盗聴器を仕掛けるのか? この世界ではそれが当たり前なのか?
「ひっ、秘密のお話とかしてたらどうするの!? 好きな人言い合いっことか!」
「えっ、お前らそんなことすんの? 想像してた違界と違うわー。何? 違界って実は平和?」
「喩えだよ! 喩えの話だよ! 灰音とそんな話したことないもん!」
「可能性が全くない喩えを出されてもなぁ」
「サクだって、聞かれたくないことあるでしょ!?」
「さあ……?」
「ふわぁ! サクめんどくさい!」
言っても言ってもまともに取り合ってくれない。これでは一人で騒いでいるだけではないか。話が逸れてしまったが、椎はそのことに気づかない。
宰緒は面倒臭そうに溜息一つ。
「あいつらは痛みを知ってる」
宰緒が口を開くと、椎はぴたりと口を噤んだ。
「背景を見てるんじゃない。中身を見てる」
「背景? 中身?」
「お前で喩えれば、何処に住んでようがそこがどんな場所だろうが気にしねぇ、お前が何を考えてるか思ってるか、そっちの方を大事にする。じゃねぇと殺すとか殺されるとか言ってる世界の奴なんかと口利くかよ」
少し目を伏せる。椎は首を傾げているが、これ以上は三人の過去に触れることになる。一々説明するのは面倒だし、ぽんぽんと暴露するのも気が引ける。
アンジェの両親は彼女が幼い頃に事故で亡くなっている。その所為で、置いて行かれることを酷く嫌う。その話を聞いた幼馴染みのヴィオは、失うことを恐れるようになった。
ルナは日本に来た時、あの目立つ緑色の目の所為で好奇の視線に晒され、目を合わせることを恐れ一時ノイローゼになっていた。
「あいつらも恐れてるもんがある。怖いっていうのは敏感な証拠だ。そんな奴らがヘマするとは思わねぇ」
話し終えた宰緒はまた一つ息を吐く。話を聞いていた椎はぎゅっと手を握った。
「サクも……何か怖いの?」
「別に?」
「えっ!?」
掴み所がない。何を考えているのかわからない。
「あいつらは怖いもんがあるけど、ちゃんと乗り越えようとしてる。お前も怖ぇ怖ぇって思ってばっかいねぇでちょっとは克服してみろ。じゃねぇと俺が面倒くせぇし、こうしてお前と長々喋ってるのも面倒くせぇ」
椎はきょとんとする。
「俺は面倒なことには首突っ込まねぇけど」
ぎしっと軋ませ椅子に凭れる。
「サクは難しいこと言う」
「そうか?」
投げ遣りに返してから、もう一度引出しを開ける。引出しの中に転がっている棒付き飴を一本抓もうとし、途中で手が止まる。
けたたましい轟音が部屋を揺らした。
「な、何?」
何も見えるはずがないのに、椎はきょろきょろと部屋を見回す。
「青羽の部屋だな。盗聴器が壊れた。灰音が何かし」
言葉を遮り、椎は宰緒の腕を掴む。
「何だよ」
「凄い音だった。一緒に見に行ってほしい」
「え。いや一人で行っ、て、わっ!?」
思い切り宰緒の腕を引き、無理矢理立ち上がらせる。頭一つ分大きい宰緒を。アンジェほどではないが、違界育ちだからだろうか、力が強い。
椎に腕を引かれルナの部屋のドアを開けると、ぽっかりと壁に穴が空いていた。向かいの家の白壁と空が見える。さすがにこれには宰緒も呆然とするしかない。
「何してんだお前……うっかり爆弾でも落としたか」
部屋の真ん中に、組み立てた銃を提げた灰音が呆然と立ち尽くしている。銃を持ち歩いている灰音が爆弾を持っていても然程驚かないが、灰音はハッと我に返り「違う!」と否定する。
「私じゃない。外からやられた。この世界では珍しくないことか?」
「珍しいと思うけど。ったく、俺は知らねーからな」
宰緒は壁の穴から目を逸らす。大柄な宰緒でも簡単に通れるほどの穴の責任なんて取れない。いや本当に何も知らないが。関わらないのが身のためだ。
「おい、椎、穴の外見てこいよ。人為的か自然現象かくらいわかるだろ」
「えっ、わ、私!? ……み、見るだけなら」
行くのか。
半分冗談のつもりだったのだが、こういう度胸はあるらしい。違界ではきっと命知らずとか平和ボケとか言うのだろう。
灰音も止めることはせず、銃を構えようとする。何かあった時は援護するようだ。
ゆっくりと穴に近づき、そろそろと穴の下を覗き込もうとする。
「……あっ」
小さく声を上げ、椎は後方に仰け反り尻餅をつく。その椎の頭上を何かが飛んだ。透かさず灰音が目を細め、ライフル銃で飛来するものを撃ち落とす。
「椎! 穴から離れろ!」
落ちたものは、小さな蝶だった。ギチギチと軋みを上げ、やがて動かなくなる。どうやら機械のようだ。
「何だこれ」
壊れた蝶を拾い上げると、枯れ葉のように朽ち宰緒の手からパラパラと落ちた。
「お前よくそんな得体の知れないものを平気で触れるな」
呆れながら、灰音はライフル銃から機関銃に持ち替える。
「すげぇ、ゲームみてぇだ」
あまり動じない宰緒がホログラムに続き銃に興味を示す。いや――正確には、銃を取り出すことに、だ。灰音は布面積の少ない上半身にホットパンツと軽装だ。ライフルを入れておくような鞄なども持っておらず、何処に仕舞っているのか不思議だった。ずっと手に提げるのは目立ちすぎる。その謎が今、解けた。ライフル銃は姿を消し、機関銃はフッと顕れたのだ。ライフルは瞬時に小さな欠片に分解され、手の甲にある玉のような飾りに吸い込まれ、逆の甲からは欠片が顕れ、機関銃を形成した。違界には魔法は存在しないと聞いていたが、発達しすぎた技術は魔法と大差がないのかもしれない。
椎が姿勢を低く後方に下がると、穴から一斉に蝶の群れが飛び込んできた。どれもが弾丸のような速さを伴っている。だが灰音はそれを物ともせず機関銃を振るう。的は小さいが、数は多い。蝶は次々と撃ち落とされ、床に散らばる。
「おい、宰緒、この世界にもこんなくだらない真似しやがる奴がいんのか」
「いないと思う」
「じゃあ違界の奴か。――おい、誰だ? 姿も見せねぇで、恥ずかしがってねーで出てこいよ!」
蝶を撃ち落としながら煽る。煽りすぎてルナの部屋どころか家が倒壊でもしたらどうしよう、と宰緒は思う。パソコンのHDDだけでも死守したい。
「じゃあ俺はちょっと下がるんで」
足元まで後退していた椎がぽかんと宰緒を見上げる。
「に、逃げるってこと……?」
ひらひらと手を振り、宰緒は部屋を出ていく。
「に、逃げた!」
椎は立ち上がり、ドアと灰音を交互に見る。戦えとは言わないが、こうも至極あっさりと一人で逃げるとは思わなかった。
だが灰音はからからと笑う。
「ハハハ! いいんじゃないか? 違界だと長生きするタイプだ。周りを利用し、逃げる時は周囲を犠牲にしてでも一人でさっさと逃げる。いいねぇ、椎も少しは見習え」
「私は灰音を見捨てたりしない!」
「ああ、それはありがとう。でもまあ、そこに突っ立ってるだけじゃ邪魔になるだけだしな、逃げてくれてこっちも動きやすい」
蝶を全て撃ち落とすと、穴の向こうに少女が立っていた。向かいの家から少女が穴に飛び込んでくる。少女は違界特有の首輪とヘッドセットをつけていた。冷えた眼光でじっとこちらを見据える。
「椎というのはその後ろの髪の淡い方で間違いないか?」
細い指で椎を指差す。椎は怪訝な顔をするが、こくりと頷く。何で素直に肯定すんだよ、と灰音は心の中で嘆く。
「椎に何の用だ? わざわざ家に穴まで空けてご苦労なこった」
灰音は鼻で笑う。弾の切れた機関銃を仕舞い、拳銃に持ち替える。
「あなた、煩い」
少女は冷たい声で、表情を変えずその場にしゃがむ。拳銃の形成中だった灰音は反応が遅れた。
しゃがんだ少女を跳び越え、穴から大柄な男が大剣を翳し飛び込んできた。
「ちっ、もう一人いたか」
ここは違界ではない、ということが、油断に繋がったのかもしれない。ざまあない。警戒を怠っていたのは私も同じじゃないか、と灰音は心中で笑う。灰音には攻撃を防ぐ絶対的な盾はない。雨を防ぐ防弾膜ならあるが、あれは雨を少し防ぐだけで、人工的な武器を防ぐことはできない。遅い弾丸なら多少は防げるかもしれないが、こんな至近距離で大剣なんて振られたら防弾膜なんて一溜りもない。気休めにもならない。
「灰音!!」
椎が手を翳そうとするが、間に合う距離ではない。ここから走っても間に合わない。別に、平和ボケしていたわけじゃないのに。
「っく!?」
だが、その刃は灰音に届くことはなかった。男はびくりと体を強張らせ、頭を押さえ床に倒れ込んだ。
「うっ、く、あ!?」
少女も同じように頭を押さえ、床に崩れる。
「? 何……?」
椎は状況が呑み込めない。男と少女と同じように灰音まで床に片膝をつき頭を押さえている。
迂闊に近づくこともできず、その場で狼狽えることしかできない。
「おお、すげー威力だな」
ドアを開けて現れたのは、先程逃げた宰緒だった。手にラジオのような装置を持っている。
「サク!? 逃げたんじゃ……」
「逃げるとか一言も言ってねぇし。相手が違界の奴なら効くかと思って。灰音にまで効いちまったけど」
椎は宰緒に駆け寄る。椎だけは何ともない。
「椎、あいつらが動けない内に灰音を回収してこい。今度は逃げるぞ」
「わ、わかった!」
少女と男を警戒しながら、自分より大きな灰音を肩に担ぐ。
椎が宰緒の元に戻ると、小さく耳打ちする。
「灰音の首輪の電源を切れ。この装置は青羽がジャミング装置を作る過程でできた、違界のそのヘッドセットに有害電波を送るものだ」
「え……うん、わかった」
慌てて灰音の首輪の電源を切る。苦痛に歪んでいた灰音の顔が落ち着いてゆく。
「行くぞ」
装置を手に椎を促す。肩の灰音を重そうに引き摺るが、宰緒は手伝わない。精々ドアを開けてやる程度。
三人が外に出ると、丁度ルナ達が駆けてくるところだった。
「サク! 何かあっ……あああああ俺の家!!」
家の壁に大きな穴が空いていることに気づき、ルナは頭を抱える。
「隕石か!?」
「隕石だったら、外にいた私達にも見えるはずだけど」
漸く何とか一人で立てるまでに回復した灰音は、椎の肩から下り軽く頭を振る。
「最悪な気分だ」
宰緒は灰音を一瞥だけし、ルナに装置を渡す。
「青羽、これ役に立ったぞ」
受け取りながら眉を顰める。
「ってことは、違界の人が近くにいるのか?」
「近くも何も、お前の部屋に二人いる」
「そいつらがこの穴を?」
「おう。――それと黒葉、上の奴らどうすりゃいいんだ? 違界に強制送還とかできねぇの?」
皆の視線が黒葉に集中する。椎も黒葉を見る。
「そんなことができるなら苦労はしない。だが攻撃されたなら何か手を打たないといけないな」
「あいつら殺す」
低い声で唸るように灰音は声を絞り出す。流された有害電波でまだ頭が痛む。
「その状態でか? 今は丸腰の者も多い。一旦ここから離れた方がいい。僕の家に向かえ」
「黒葉の家? 何かわかんねーけど、逃げるのは賛成だ!」
ヴィオは元気に手を上げる。
そしてそれを合図にしたかのように、再び轟音が空気を震わせた。
「ひっ!?」
「おお、お向かいさん家の壁も潰れたな」
「呑気に言ってる場合かよ! はっ、破片が!」
壁を壊され散り落ちる破片にヴィオは頭を押さえる。蝶を殲滅した後一旦切っていた首輪に手を伸ばす黒葉を見て、ルナは慌てて装置を切る。黒葉まで戦闘不能にするわけにはいかない。黒葉は首輪の電源を入れ、上空に手を翳す。落ちる破片が見えない壁に阻まれるように砕け、全員を避けてバラバラと落ちていく。先程蝶に向かっていった時と同じように。
「防弾壁……」
椎がぽつりと呟く。
「防弾壁?」
ルナが問う。
「防弾壁は、防弾膜より優れた防御の盾で、膜では防げない弾丸や攻撃を防げるんだよ。違界の人は殆どが膜は持ってるんだけど、壁はそこまで普及してないの。あれば死亡率は下がるけど、高価なものだから……」
破片を防いでいると、ルナの家の穴から頭を押さえながら男が出てきた。
「くそっ、何しやがったのか知らねぇが、無駄な足掻きしやがって」
男が大剣を負い穴から飛び降りる。
「走れ!」
黒葉の叫びで一斉に走り出す。男は口端に笑みを浮かべ迫る。
「やばいって! あいつっ、速っ!」
「ヴィオは喋らない方がいいよ、すぐ体力消耗するから」
「いやオレよりやばい奴が後ろにいるっ、しっ!」
後ろを見ると、宰緒がゆっくりと走っていた。
「俺、走るの嫌い」
このままでは追い着かれると誰もが思った。
全員が全力疾走する中、黒葉は速度を落とし最後尾を走る宰緒に並ぶ。
「僕が足止めをする」
「!? だったら私も!」
アンジェも速度を弛める。
「馬鹿か。剣相手に素手で挑む気か? 無駄死にするだけだ」
「足手纏いにはならない! 黒葉を置いて行きたくない!」
「それにアンジェは負傷してる。今は全力を出せないだろう」
「私は……私は!」
後方で喧嘩を始めた二人に気づき、ルナはヴィオに眴せする。黒葉の気持ちも、アンジェの気持ちもわかる。だが今は喧嘩をしている場合ではない。ルナは黒葉の腕を引き、ヴィオはアンジェの腕を引く。
黒葉は皆を守ろうとしてくれている。
アンジェは足手纏いになりたくないと、離れたくないと思っている。
アンジェは六歳の時に両親を失っている。車でドライブに出掛け、事故に遭った。母親はアンジェを守るように抱き締め即死。父親は助けを呼びに行くと言ってアンジェを置いて負傷した足を引き摺り、誤って崖から転落し、戻ってくることはなかった。アンジェは自分が弱くて頼りない足手纏いだから置いて行かれてしまったと思っている。それからアンジェは心も体も強くなろうと、人の思考を考えてみたり、喧嘩が強くなったりした。力をつけ、強くなったと感じた頃、黒葉と出会った。だからか黒葉に対する思い入れは強く、黒葉に足手纏いにされること、黒葉に置いて行かれること、置いて行くことに敏感になり、意地になってしまうのだろう。
「黒葉、アンジェを悪く思わないでくれ、な」
黒葉はアンジェの過去を知らないはずだ。アンジェが話していないのならば。黒葉は俯き、打開策を考えようとしているのか口を噤む。
アンジェも俯いて唇を噛む。
「アンジェ……今はとにかく逃げよ? 誰も置いて行ったりしないから」
はあはあと息を切らしながら、ヴィオはアンジェの負傷していない腕を引き走る。
自分の足が遅い所為で二人が喧嘩し沈鬱な空気になったことは宰緒にもわかる。このままでは真っ先に自分が追いつかれて殺されてしまうだろうということも。
「おい、えーと……灰音でいいか、銃一挺貸せ」
「は?」
灰音が眉を顰め振り向く。まだ頭が痛むのか、不機嫌そうな顔をしている。
「その様子じゃまだ正確に狙えないだろ。だから貸せ。一挺くらいいいだろ」
「ちっ」
最後尾の宰緒の耳にも届くほど大きな舌打ちをした。最後尾でのうのうと殺されたくないのだろうと、護身用にと拳銃を一挺放る。
放り方が上手かったのか、走りながらも拳銃を受け取ることに成功する。
セーフティを解除し振り向くと、すぐそこまで男が迫ってきていた。相当重いだろうに、大剣を抱えて猶、男の方が足が速い。違界で鍛えられているということか。
宰緒は銃を構えるが、この世界の人間に銃なんて撃てるはずがない、ただのはったりだとでも思っているのか、全く動じず速度も落とさない。相手が大柄な男でよかった。的が大きくて狙いやすい。
威嚇ではなく足を狙い、連続して三発撃つ。
「――――っ!?」
正確に狙ったことに気づいたのか、ステップを踏み男は弾を避ける。
「避けたか。やっぱり動くものは難しいな」
弾を避けることに労力を使い、男の速度が大幅に落ちる。
銃声にルナ達も振り返る。
「サク、銃なんて撃てたのか!?」
「す、すげぇ!」
銃を構え直し、宰緒は面倒臭そうに答える。
「ちょっと射撃をやったことがあるだけだ。気にすんな」
中学からの付き合いだが、宰緒にこんな特技があるとはルナは知らなかった。あまり自分のことを話さないので、宰緒のことは本当に何も知らないかもしれない。
「ただの子供騙しだ。当たらないと意味がねぇ」
もう一度男を狙う。最初から足は難しかったかもしれない。次は胴を狙う。
「調子乗ってんじゃねぇぞクソガキィィ!!」
地面を蹴り、男は白壁を大剣で抉り飛ばす。
「あ」
壁の破片が飛来する。さすがにこれは銃では防げない。
「黒葉、バリア頼む」
「わかってる」
黒葉は再び宰緒に並び、防弾壁を張る。
「なぁ、そのバリア張ったままで撃ったらよくね?」
誰もが考えた。相手の攻撃を防ぎながら、こちらの攻撃を繰り出す。良い案だと思われた。だが黒葉は首を振った。
「それはできない。防弾壁は表も裏も防ぐように作られている。表の攻撃を防ぐと同時に、内側からの攻撃も防いでしまう。この壁の中では攻撃を相手に届かせることはできない」
「はぁ? 使えねぇなそれ。それ張ってる間は撃てねぇってことかよ」
「防弾壁を張ってる間は走ることに専念してくれ」
破片を飛ばし、迫ってくる男に目を遣り、宰緒はふと思ったことを尋ねる。
「破片は防いでるが、あの剣で直接刺してきたらどうなる? 防げるのか?」
「剣の性能による、としか言えない」
「……強度は? どれくらいのものなら防げる?」
「頑張れば、戦車の砲撃程度は」
「そうか」
頑張ればって何だ? と思ったが、そんなことまで訊いている余裕はない。
男は次々と大剣で壁を破壊し破片を飛ばしてくる。こちらに攻撃の隙を与えないつもりだ。防弾壁を張り続けていれば、男の追撃を振り払うこともできない。
「二手に分かれよう」
このままでは黒葉の家まで男を誘導することになってしまう。何処かで撒かなければならない。
「僕はこの街の路地を把握しきっていない。あの男を撒けるよう、この街に詳しい三人に先導を任せたい」
ルナとヴィオとアンジェは顔を見合わせ頷く。
「それじゃあ俺は次の右の路地に」
「じゃあ私は左の方に行く」
「えっ、え、あ、じゃあ、オレはまっすぐ、か?」
「二手と言っただろ」
ルナは右の、アンジェは左の路地に入る。椎はルナについて行き、灰音もその後を追う。バランスを考え、おろおろと足踏みするヴィオの腕を掴み、黒葉は左へ。宰緒も左へ行く。
男は迷いなく、ルナ達の入った右の路地へ走っていった。
「よ、よかったこっちに来なかった! あ、でもルナ達が……」
一時ほっと胸を撫で下ろすが、安心はできない。
「やっぱり向こうに行ったか」
「? どういうことだ」
意味深な宰緒の発言に黒葉は眉を寄せる。
「あいつらが奇襲をかけてきた時、女の方が椎を探してるみたいだった」
淡々と言う宰緒に、背後から誰も追ってきていないことを確認し黒葉は立ち止まる。
「黒葉?」
先頭を走っていたアンジェも止まる。
「何故それを先に言わない。それだとおそらく狙われているのは椎だ。お前達は先に行け。僕は向こうを追う」
「えっ!? それだとオレ達の方に戦える奴いなくなるじゃん!?」
「こちらを追ってこないということは、向こうに関わらなければ襲われることはない。僕の家じゃなく、他の場所に避難した方がいいかもしれないな」
あまりここで立ち止まっていると、ルナ達に追いつけなくなる。走り出そうと一歩踏み出すと、アンジェの静かな声が背に突き刺さった。
「それ、助けに行くから、私達は邪魔ってこと?」
声が震えていた。アンジェの過去を知るヴィオはびくりと体を強張らせる。
アンジェの様子を怪訝に思った黒葉は、出した足を戻しアンジェに歩み寄る。迷いなくポケットから鍵を取り出し、アンジェの手に握らせた。
「これは地下の鍵だ。扉を開けて待っていろ」
それだけ言い残し、黒葉は走っていった。残された三人は暫しその場に立ち尽くす。
「アンジェ……」
ヴィオは心配そうに手を伸ばそうとするが、何と声を掛けていいかわからず手を下ろす。
アンジェは鍵を持った手をだらんと下げ俯く。地下とはおそらく黒葉の家に地下室でもあるのだろう。ということは黒葉の家に行くことは許されたようだ。
このままここに立っていれば黒葉の言ったこともこなせないが、頭の中でぐるぐると過去が渦巻く。
見兼ねた宰緒は小さく溜息を吐き、アンジェに歩み寄った。
「お前らしくねぇ。んなうじうじしてんのはロッカらしくねぇ」
突き放すような無情な言葉に、アンジェより先にヴィオが反応する。
「何も知らねぇクセに、お前に何がわかんだよ!」
アンジェの過去はルナから聞いているので知っているのだが、ヴィオはそれを知らないようだ。
「過去なんてどうでもいい」
「お前な……!」
胸座を掴みそうになるヴィオをアンジェが手で制する。アンジェは静かに宰緒を見上げ、手の鍵を握り締める。
「……ごめん。きっと私はまだ弱いんだ。大丈夫、私は強くなる」
泣きそうな顔で唇を噛むアンジェに、宰緒は首を傾ぐ。
「お前もしかして泣いたことねぇ? 別に泣いても弱くなんねぇと思うけど」
そういえば、とヴィオはアンジェの両親の葬儀を思い出す。あの時もアンジェは泣いていなかった。ヴィオはぼろぼろと大泣きしたのだが。
アンジェがしっかりしているから、時々忘れそうになる。どれだけ気丈に振る舞っていても、アンジェは自分達より年下で、日本で言うとまだ中学生なのだ。強くなろうとして泣かずに笑って、それがアンジェを縛りつけているのなら。
「アンジェ、泣いていいぞ! 泣け! 今敵はオレ達なんて眼中にないからな! 泣くなら今の内だ!」
「は!?」
唐突な言葉にアンジェはきょとんとする。泣けと言われて泣けるものではない。
「泣くわけないじゃない! 悲しいことも起こってないのに! 馬鹿じゃないの!?」
何故かヴィオが頭を叩かれる。だが叩いた方のアンジェがぼろぼろと泣いていた。何故泣いているのかも止め方もわからず、わんわんと声を上げて泣く。
「アンジェ……」
「ほら、気が済んだら行くぞ」
頭一つ分低い位置にあるアンジェの頭を掴み揺する。
「気が済むって何!?」
それでも、泣きながら歩を進める。泣いて立ち止まっていては、前に進めない。
遠くで聞こえる轟音を背に、三人は再び走り出す。
* * *
「お前、意外と体力あるな」
石畳を走り、階段を上ったり下りたり頻繁に角を曲がり、体力を削るコースを直走る。ルナは手元でごちゃごちゃと作業をすることを好むインドア派だが、実は足は速い。宰緒と同じくインドア派でも、外に出るとこのように差がある。
「重いものを運んだりする時もあるし、ある程度は体力がないと」
何故敵に追われながら談笑しているんだ。緊張感は何処で油を売っている。
「それより何なんだよあいつは。お前ら違界で恨みでも買ったのか?」
「私は知らん」
「私も心当たりないけど……」
本人達になくても違界で殺し合いをするのは日常的なようだし、そこで誰かの恨みを買っていてもおかしくはない。
狭い路地を大剣で切り開く音が聞こえる。なるべく振り向かないようにしよう。振り向くと戦意喪失しそうになる。
「くっそ、何でこんなに狭ぇんだよこっちの世界は!」
身の丈ほどの大剣を抱えて走るには、やはりこの街の路地は厳しいらしい。ガリガリと左右の壁に刃を擦りつけている。壁を壊そうにも開けた場所に出ない限りはほぼ真上にしか振り上げられない。
「このままできるだけ細い路地を選んで家まで行くから!」
「ああ。向こうも相当苦戦しているようだからな」
最後尾を走りながら、ようやく回復してきた灰音は機関銃を取り出す。
「ここらで一発、撃っとくか」
この狭い路地では碌に大剣を振ることもできず、逃げることも難しい。当たれば足止めできる。
背後を振り向き銃を構えようとしたところで、灰音はハッとした。
――まずい。
何故今まで気づかなかった。追い込まれているのはこちらも同じではないか。狭い路地で逃げることが難しいのは、こちらも同じだ。今この場に防弾壁を持つ者が、いない。
「――っらぁ!!」
大剣を頭上に大きく振りかぶり、力任せに振り下ろした。こちらの世界のものでは、大きな剣を振り下ろしても、地面に突き刺さる程度だろう。だが違界の剣は、それだけでは済まないものもある。
この狭い路地では伏せても跳んでも避けることはできないだろう。
「お前ら! 振り向かず全力で走れ!」
空気を震わす怒号に、これでも限界なのにと速度を上げられるよう奥歯を噛み足を振り上げる。振り向くなと言われなくても、振り向く余裕なんてない。
振り下ろした大剣が地面に轟音と共に落ちる。その衝撃で石畳が捲れ上がり、左右の壁が崩れる。大きな破片が降ってくる。大きな石の塊を機関銃で粉々に粉砕するには一体どれほどの数の弾が必要だろうか。破片が一つなら何とかなったかもしれない。だが大小無数の破片をどうにかできると思うほど、灰音は楽観的ではない。男に向けて銃を撃つが、破片が邪魔をして届かない。
「くそっ!!」
ルナと椎に全力で走らせ続け、灰音は最後尾で盾になることを決意した。椎を守るためなら命を擲つ覚悟も疾うにした。気休めにもならないかもしれないが、防弾膜を張る。もし自分が死んでしまった場合、きっと黒葉が何とかしてくれるだろう。一度戦ったが、首輪のない状態であれだけ戦えれば上出来だ。それに防弾壁も持っている。きっと助かる。椎は死なない。
地面が抉られ、足場を奪われる。瓦礫ばかりの違界では、足場の良い場所の方が珍しい。このくらいの足場の消失なんて、どうということはない。
壁の破片が頭上から降り注ぐ。雨のように。これが本当に雨なら、防弾膜で防げるのに。
「灰っ……」
轟音に振り向いた椎の目に、破片を浴びる灰音の姿が映った。灰音の体が傷つき一瞬の内に埋まっていく。
「あ……灰っ、灰音ぇ!!」
踵を返す椎。悲痛な叫びにルナも振り向く。凄惨な光景に目を逸らしそうになる。
灰音に注いだ瓦礫に駆け寄ろうとする椎の腕を掴み引き戻す。一瞬前まで椎のいた場所に大きな破片が降ってきた。間一髪潰されることを免れたが、このまま走って逃げればいいのか、瓦礫の山から灰音を助け出すべきなのか、混乱する。元凶の男は瓦礫の向こうにいる。生きるためには再び男の目に映る前に逃げなければならない。灰音は椎を守るために盾になった。ならばここから椎を逃がすのが灰音の望みではないのか。
「椎、来い!」
腕を引くが、椎は動こうとしない。
「嫌だ……灰音を置いて行けない……」
「椎! 今は灰音のためにも、ここから――」
椎は瓦礫の向こうの男を見詰めるようにじっと呼吸を整え、手に拳銃を形成した。
「お前、それ……」
平和ボケしてるだの何だのと言われていたので、てっきり武器と呼べるものなんて所持せず丸腰なのかと思っていたが、椎も結局は違界の人間ということなのか。
瓦礫の一部が吹き飛んでくる。動揺している暇はない。椎の腕を引っ張り、破片を回避する。
「お前、防弾膜すらないって言ってただろ! 無闇に突っ込んで行っても死ぬだけだぞ!」
ポケットの中の黒い玉を掴む。いざという時は使えと言って黒葉がくれたもの。今がその『いざ』という時だと思うが、いざ使おうとすると、このタイミングで良いのか判断に迷う。
いや、迷っている場合ではない。ここで椎を止められなくても逃げることができても、二人で家まで辿り着ける可能性は低い。ここで使わなければ。
「椎、下がれ!」
「!?」
力強く腕を引き、椎を瓦礫から遠ざける。
「食らえ!」
瓦礫に向かって、思いきり黒い玉を投げた。玉は瓦礫に当たり、刹那発光。
「っ!?」
一瞬の光に目を細め、恐る恐る開く。だが視界にあるもので特に変わった所は見受けられなかった。
「?」
使い方を間違えたのか? そもそも投げろなどとは一切言われていない。爆弾の類なのではと思っていたが、ただの閃光弾だったのか? だとすると、いざという時すら使えないものをくれたのか? 黒葉は。
「何? 今の……」
怪訝な顔を向けられるが、それはルナの方が聞きたい。何も起こらないのなら、ここで突っ立って無駄な時間を過ごしているわけにもいかない。男も、突然の閃光に警戒しているだろうが、何も起こらないとわかればすぐにでも攻撃を再開するだろう。
「と、とにかく逃げよう」
黒葉と再会できたら文句を言おう。
だがそう簡単に逃がしてはくれなかった。
瓦礫の崩れる音が聞こえる。
「何にしたってここじゃ不利だ! 行くぞ!」
「でもっ……」
逃げることを躊躇ったその一瞬が命取りだった。瓦礫が破壊され、破片が飛び散る。
「っ!」
「椎!!」
灰音のこともあり動揺していたのだろう。動けなかったのだろう。対してルナの体は勝手に動いた。飛来する破片から椎を守ろうと、足が勝手に動いた。
二人で破片を躱すなんてできなかった。そんな速さと都合の良い展開なんて、なかった。椎を突き飛ばし、自分が代わりに破片に当たるしかできなかった。
「――っ」
一瞬のことに、椎は言葉が出ない。灰音のことに動揺して、敵の方ばかり見て、周りが見えなくなっていた。大事な時に一歩も動けず、代わりに誰かが、
死ぬ。
頭より大きな破片がルナの頭に直撃し、そのまま地面に落ちる。
「ルナ! ルナぁ!!」
飛来する破片を避け、倒れたルナの元に駆け寄る。あんなに大きな石が頭に直撃した。死んでもおかしくない。
「ルナ! 生きてる!?」
目を閉じていたルナの瞼が震える。よかった、生きている。
「あ……あれ?」
どころか、頭を押さえながら起き上がる。破片が当たった箇所が、痛くない――?
「あ、痛い」
代わりに、倒れた時に地面にぶつけた箇所が痛い。
頭から血すら流れないルナを、椎も不思議そうな顔で見ている。
「……石頭?」
「そ、そんなに石頭じゃないと……」
近くに落ちていた破片を何気なく拾う。妙に軽い。まるで発砲スチロールでも持っているかのようだった。
「まさか、さっきの玉で……?」
違う破片も拾ってみる。やはり軽い。これなら当たっても痛いはずがない。黒葉に文句を言うつもりだったが、礼に変えておこう。
「椎、逃げるぞ」
「え、あ……う、うん」
まだ躊躇いはあるようだったが、今のルナの件で思い直してくれたようだ。いや、まだ混乱していて、事態が呑み込めていないかもしれない。
瓦礫を踏み走り出すと、邪魔な瓦礫を散らした男が、大剣を担ぎ姿を現した。
「おーおー、まだ生きてたか。しぶてぇなぁ!」
左右の壁が崩れたので、道の幅が少し広くなってしまった。もうあの玉はない。自力でこの状況を打開するしかない。
男は瓦礫の上を走っているにも拘らず、軽捷な身の熟しだ。
「邪魔するなら男の方も斬る!」
男は距離を詰め、大剣を振り下ろす。
「うわっ!」
何とか間一髪、回避することに成功する。だがそう何度も成功しないだろう。命が幾つあっても足りない。
「このままじゃ撒くどころじゃ……!」
街の地理を頭に浮かべ考える。どのルートなら男を撒けるのか。逃げ切れるのか。辺りを見回しながら考える。何か使えるものはないのか。何か、何か――
「ルナ!!」
椎の声で我に返る。思考に集中しすぎていた。
「うっ、わっ!?」
足元の破片に気づけなかった。破片が軽くなったのは、玉が弾けたあの場所だけだったのだろう。足元の破片は硬く重く、ルナが足をぶつけても微動だにしなかった。
破片に足を取られ、ルナは地面に叩きつけられた。石畳を滑り腕が擦り剥ける。
「危ない!」
ルナが転んだ隙を逃がすはずがなかった。男はルナに狙いを定め、広くなった路地で横薙ぎに大剣を振るった。
「死ねやぁっ!!」
おそらく何も考えていなかっただろう。椎は反射的にルナに向かって走った。防弾壁も防弾膜すらないのに、ただの無防備なまま、椎はルナと大剣の間に飛び込んだ。
死ぬ覚悟もなかっただろう。本当にただ反射的に、助けないといけないと、ただそれだけ思った。
「ルナは殺させなっ……」
言葉は最後まで叫べなかった。
「――――!!」
腕を広げ大剣の前に飛び出した椎の両脚が、無惨に断絶された。
一瞬、音という音がなくなった気がした。音も色も何もかもなくなったような、そんな気がした。決して楽観視していたわけではない。けれど、目の前に叩きつけられた残酷な光景は、あまりに凄惨なものだった。断絶された脚から夥しい鮮血が周囲を赤く染める。
何も、できなかった。
「う……うわあああああ!!」
両脚を失った椎の体が地面に崩れる。まるでただの物のように、どさりと地面に転がる。つい先刻まで動いていた人間が、ぴくりとも動かない。体中が寒くなるのを感じた。見たくない。こんな無惨なもの、見たくない。呼吸の仕方がわからない。今までどうやって息を吸い、吐いていたのか。全身が震える。寒い。寒い。どうしてこんなに、寒いのだろう?
ガチガチと歯を鳴らし震えていると、視界の隅で男が倒れるのが見えた。どうしたんだ、今頃、どうしたんだ。
「ルナ」
名前を呼ばれ、びくりと体が跳ねる。
「しっかりしろ」
視界に入る。頭が朦朧として、顔がよくわからない。誰だ? 誰なんだ?
「混乱しているな。少し我慢しろ」
目を覗き込んでいたが、一歩後ろに下がる。何をするのだ。今更。
混乱した頭を揺さぶるように、思いきり頬を殴られた。再び地面に体を擦りつけ、呆然と辺りを見回す。
「黒……葉? 何で……」
「気になって来てみた。大丈夫か?」
「え……あ、ああ……」
黒葉は椎の姿を遮るようにしゃがんでいる。ルナに見せないようにしているのか。
黒葉は椎を一瞥し、ルナに手を貸す。
「酷なことを言うが、椎を背負えるか?」
「え……?」
「このままにしておくわけにはいかない」
ああ、そうだな……このままここに椎を置いて行くわけにはいかない。誰か他の人に見つかると騒ぎになって厄介だ。脚を失った椎は、きっと軽いのだろう……。
「大丈夫……」
黒葉は何か言おうとしたが、やめておいた。今は下手な言葉は掛けない方がいいだろう。
「走れるか?」
ルナは言葉なく頷く。
先程倒れた男は、死んでいないようだった。動いているのが見える。立ち上がる前にここから立ち去らなければ。
椎を背負い、ルナと黒葉は走り出す。