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鳥になりたかった少女  作者: 葉里ノイ
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第五章『蝶』

  【第五章 『蝶』】


 アンジェと黒葉が買い物へと出掛けると、宰緒もやっと解放されたと部屋に戻っていった。

 ヴィオは部屋を出るタイミングを逸し、ベッドの上でルナの陰に隠れている。ルナはここが自室なので、行き場がない。アンジェと黒葉の買物に付き合おうと思っていたのだが、二人に「気を遣わなくてもいい」と言われてしまった。

「ちょっと泳いでこようかな……」

 ぼそりと呟いてみる。ここぞとばかり、ヴィオが勢いよく食いついてきた。

「いっ、いいね! 暑いし丁度いい!」

 だが食いついたのはヴィオだけではなかった。

「そういえば、大きな湖だか海だか知らんが、あったな」

「海です」

「こっちの人間は暑いと泳ぐのか?」

「泳ぐと涼しくなるので、泳ぐ人は多いですよ」

「ふぅん」

 あまり興味はなさそうだ。以前に椎が話していたが、違界の海は汚れきって真っ黒で、わざわざ泳ぐ者はいず、違界のほとんどの人間は泳ぎ方を知らないだろうと言っていた。椎も泳げないらしく、灰音もおそらく泳げないだろう。

「暑い――のか」

 違界の人間は『暑い』『寒い』という感覚が麻痺しているらしい。首輪で感じにくいよう調整されているそうだ。羨ましいとも思うが、そんなことを続けていれば体調を崩してしまうだろう。首輪の電源を切っている今でも、感覚が麻痺しているようだ。

「暑さがよくわからなくても、水分は適度に補給してくださいね……わからないことがあったらサクに訊いてみてください」

 押しつけていいのか迷ったが、宰緒なら大丈夫な気がした。根拠はないが。

「ああ、わかった。私もついて行きたいが、武器の整備をしなくてはならないからな」

 銃を取り出し、早速分解しようとする。部屋が物騒になる前にさっさと家を出よう。

「じゃあ、私はついて――」

「椎も留守番よろしくな」

「えっ」

 上げかけた手が、しゅんと力なく下がる。椎がついて行くと言えば、整備なんて放って灰音もついて行くと言い出すに決まっている。椎には留守番をしていてもらわないと。

 家を出ると、窮屈な空気からやっと解放されたヴィオが両腕を大きく伸ばした。

「ルナー、ジェラート食いに行こうぜ!」

 泳ぐ気はないらしい。そもそも水着を持ってきていない。家から出る口実が欲しかっただけだ。ずっとあの部屋にいるのは息苦しい。

「そうだな、上の方に行くか」

 丘の上へ。


     * * *


 違界は現在の荒廃した世界になってから、出生率が激減した。疑心暗鬼と殺意に支配された世界で子を作ろうと思う者は少なく、たとえ孕んでも、動きの鈍る体では生き延びることは難しい。産めたとしても、泣き声で居場所を特定されやすく、育てることも儘ならず失うことになる。

 現在の違界で生まれた子供達のほとんどは地下出身だ。地下には小さなコミュニティが幾つも存在し、地上よりは安全だと言われている。コミュニティ内ではできるだけ結束し、裏切りなどはないように心掛ける。あまり人数が多くなると一人一人に目が行き届きにくくなるため、何処も数人程度の小さなものだ。コミュニティ同士、手を組むケースもある。

 地下には、発展していた頃の名残である地下施設が殆どそのままになっている。地上の建物のように倒壊するということがないため、比較的壊れずに保たれている。技師の技術で新しい穴を掘り、隠れ住む者もいる。出産はこうした新しい穴で行われる。地上より安全と言っても、安心できるものではないが、生存率は上がっている。

 椎と灰音も地下に生まれた。灰音の母親は、灰音が生まれた時に亡くなった。父親は不明。灰音はコミュニティに属していた椎の母親に拾われ、育てられた。椎が生まれる時も、ずっと傍らにいた。椎の母親は灰音にとって命の恩人だ。彼女に拾われなければ、灰音はすぐに死んでいただろう。命の恩人である彼女の子供を、死んでも守ると誓った。

 その後椎の母親は病気で他界。父親は、彼女の墓を作ると言って出掛けたまま戻ってこない。

 残された灰音は益々椎を守るために必死になった。恩を返せるのはもう椎しかいないのだから。何処に行くにも一緒で、行動を共にし、殺意が向けられれば全力で排除した。椎には指一本触れさせない。そう思った。でも当の椎は、ずっと平和ボケしたような態度だった。守られすぎて、安心しきってしまったのかもしれない。危機に際して反応が鈍いし、ずっと行動を共にしているはずなのに目を離すと時々いなくなるし、何処で見つけてくるのか絵本を持ち帰ってくるし、空を飛びたいなんて言い出すし。このまま守っていてもいいのか? 守るのはこいつのためになるのか? と自問することも多々あった。

 だがある日、椎は言った。当時まだ年端もいかない五歳の少女が。

「灰音は、何に脅えてるの? 何と戦ってるの?」

 さすがに殴ってやろうかと思った。何のためにこいつを守っているのか、わからなくなった。胸座を掴んで、怒鳴ってやろうと思った。でも、できなかった。

「灰音は、自分に脅えてるの? 自分と戦ってるの?」

「は……?」

 灰音は椎より二つ年上だが、椎の言っていることの意味がわからなかった。

「灰音が私のために誰かを殺す度、私は誰かに花を置く」

「花? 貴重な植物を、捨ててるのか……?」

 花なんて何処で見つけてきているのか、見当もつかなかった。胸座を掴む手が少し弛み、椎はするりと抜け出す。先程灰音が殺した者に近付いてゆく。そいつはもう死んでいる。近付いても問題はない――椎はしゃがんで地面を掻き、死体の上に何かを置いた。灰音は、椎の陰になって見えないそれを、横に回り込んで見る。

「あ……」

 小さな石だった。小石を五つ、花片のようにして並べていた。これが、花……?

 植物なんて、そんなに簡単に見つかるはずがない。なのに、何故疑わなかった? 椎だと簡単に見つけてくるような気がしたから? 絵本だってそうだ。椎が見つけてくる絵本は、あまり流通していない、向こうの世界のことが描かれた古い絵本ばかりだ。すぐに見つかるはずがない。いつも守っている灰音がいない中で、一体どうやって、誰にも見つからず探している――?

 背筋が凍りつくのを感じた。寒さなど感じないはずなのに、寒さを感じた気がした。何なのだ? 椎は、灰音の知らない所で、何をしている?

 小石を置いた椎は、今度は死体の手から武器を引き剥がす。死体はライフル銃と拳銃を所持していた。椎はライフル銃から弾倉を抜き、バラバラと弾を落とす。弾を拾い、灰音の手に握らせる。

「灰音の分」

 すぐに理解できた。灰音の持つライフル銃と同じ口径の弾丸。弾だって無限にあるわけじゃない。撃てばなくなる。なくなれば買わなければならない。考えなしに弾を消費し続けると、やがて己の死を招く。

 それなりに撃っているはずなのに弾の減りが遅いと感じることが今まで何度もあった。それは椎が、灰音の目を盗んで銃に補充していたのだ。どうして今まで気づかなかったんだ。いや、無意識に気づいていないフリをしていたのか? 自分より弱い守るべき者に守られていることに、脅えていたのか?

 椎は灰音に弾を渡すと、今度は拳銃からも弾を落とした。この時の灰音はまだ拳銃を持っていない。一体何のために拳銃の弾も抜き取るんだ?

「これは私の分」

「!?」

 ずっと一緒にいたはずだった。目を離した時間の方が短いはずだった。なのに椎が拳銃を持っていたことに、気づかなかった。

 椎は拳銃を取り出し、弾を込め、残った弾は大事に仕舞った。弾を込めるということは、今までに撃ったことがあるということだ。

「椎……それ……」

 虫も殺さない平和ボケした少女だと思っていたのに。

「殺したこと、あるのか……?」

 椎は不思議そうに瞬きし、小首を傾げる。

「殺してないよ」

 ああ――そうか、一人でふらふらと歩いている時に、威嚇をしているんだ。殺さずとも、動きを奪うことは可能だ。絵本を探す時、誰にも遭遇していないはずがなかった。椎は一人でも生きられるんだ。

 何処で手に入れた銃かは知らないが、今みたいに死体から奪ったのかもしれない。平和ボケして如何にも温い奴だとばかり思っていたら、とんだ曲者じゃないか。ちゃっかり死体から物取りか。こいつは――弱くなんかない。余程根性の据わった、強い人間だ。少なくとも、守る目的を忘れてしまった自分よりは。

「ずっとこんなことをしてたのか」

「うーん……口径が違えばこんなことはしないけど……」

 椎は一旦口を閉じ、もごもごと言いにくそうに口を動かす。

「灰音はいつも私を守ってくれて嬉しいけど、どんどん撃つからどんどん弾がなくなって、灰音も気づかない時あるし……だから、えーと、向こうの世界には、知らない間に靴を縫ってくれる妖精がいるみたいだから、私も妖精みたいに灰音が知らない間に弾倉を満たすことができたらいいなって思ったの」

 にこりと椎は笑う。でも知られちゃった、妖精になれなかった、と肩を落とす。

 ああ――この少女は、椎は、


 守ってやらないと


 改めて、そう思った。

 だがこの後、椎は灰音ではなく胡蝶姫に守られることになる。


     * * *


 こう暑いと外を出歩く者はあまりいない。湿気の多い日本とは違いイタリアは乾燥しているが、突き刺さる陽射しは暑い。冷房のない家も多く、ルナの祖父母の家では、宰緒のいる部屋にしかついていない。パソコンの電源をつけた時の熱気で宰緒が熱中症に罹ってしまったからだ。その暑い中で長袖のコートにフードまで被っていれば、そうなるだろう。仕方なくルナが冷房を取り付けた。

「ジェラートと言えば、リタちゃんジェラート好きだよな~。甘いものは何でも喜ぶけど、ジェラートは特に嬉しそうで可愛い」

 そう言いながらヴィオは嬉しそうな顔をする。

「それなんだけど……」

 歩きながらルナは、まだ確信の持てないことを話すことにした。

「朝に会ったリタは、何か変じゃなかったか?」

「ん? そうか? いつも通りだと思ったけど」

「ならいいんだけど……」

 いつも通り兄の後ろに隠れ、人見知りで、脅えて。

 考えすぎかもしれない。それに変わったなら変わったで良い変化かもしれない。

 そう思いながら、壁で日陰になっている石畳をだらだらと歩く。真っ青な空が見下ろす白い街。誰も歩いていない道を行くと、まるで御伽噺の中の街のようだった。そんな誰もいない路地に、一人の少年が現れる。今し方話題にしていた少女の――

「ロレン?」

 兄。

 いつも兄妹二人でいることが多いので、これは珍しい。だがリタが一人で出歩いていれば途惑うが、ロレンならまだ一人でいる可能性はある。驚きはするが、驚きすぎることはない。

「どうしたんだ? 一人でこんな所で」

 少し顔色が悪い気がした。体調が優れないなら、家まで送ろうと思う。

「ルナ、今の話……少し聞こえてしまいました」

「え? あ、ごめん、気分害したなら謝……」


「本当に、そう思いますか?」


 謝罪を求めているわけではなさそうだった。

「ロレン?」

 何かあったのかもしれない。

「リタは……今、昼寝をしています。その隙に僕は家を出てきました。あの子がリタなのか、わからない……」

 ロレンには珍しく感情で表情が歪む。徒事ではないことだけはわかった。

「えっと……ちょっと座るか、そこ」

 近くの細い路地にある階段を指差す。人通りがないので邪魔にはならないだろう。道の真ん中で立っているよりは。

 どうやらヴィオはロレンが気分が悪いものと判断したらしく、

「オレ何か冷たいもの買ってくる!」

 率先して走っていった。良い奴なんだが、どうにも勘が働かない。

 ロレンを階段に座らせ、その隣に座り、事情を聞く。

「リタなのかわからないって、どういう意味だ?」

「ルナはさっき、リタが変だって言いましたよね? それはどうしてですか?」

「それは……リタと椎が会うのは二回目だったけど、灰音とは初対面のはずなのに、お前の後ろからよく顔を出してるなって思ったし、それに、ヴィオに『ありがと』って言ってたから……何となく……」

 歯切れ悪く言う。実の兄を前に妹の陰口を言っているような気がしてくる。悪口ではないのだが……。

 違うと言われれば、そうなのだろう。人見知りを克服しようとしているのなら、むしろ良いことだと思う。

 ルナの言葉に、ロレンは淡く笑う。

「ルナかアンジェなら、何か気づいたんじゃないかと思っていました。やっぱりあの子は……リタじゃない」

「!? 何もそこまで……俺は、いつもとちょっと違うかなって思っただけで……」

 あの金髪碧眼の少女は、どう見てもリタだった。ロレンの後ろにくっついて不安そうに見上げる、いつものリタだった。

「ルナ達が人捜しに来た時は、まだいつものリタでした。その次の日――昨日の朝から、おかしいんです。僕はあまり喋らないので、他の方が訪ねてきた時の反応しかわかりませんが、ルナの言ったように、以前ほど人見知りじゃない気がするんです。今日も、外に出掛ける時に、いつも連れているぬいぐるみを持たなかったし……」

「でもそれだけでリタじゃないとまで言うのは……」

「僕の方がおかしいのでしょうか?」

 リタと同じ碧眼にじっと見詰められる。何と答えるのが正しいのだろうか。いや――正しいか正しくないかよりも。

「じゃあ、一度ちゃんとリタと話してみたらどうだ? 何かわかるかもしれないだろ?」

 ルナの返しに、僅かにロレンの顔が曇る。

「話したくありません。話すとリタが帰ってこない気がしました」

「根拠……とかあるのか?」

 ふるふると首を振る。お手上げだ。一番近い場所にいるロレンだからこそ、無意識に感じる勘と違和感があるのかもしれない。対してルナは、生まれはこの街だが、中学からは日本にいる。正確にはイタリアでも少し中学校に通っていたが、それは日本とイタリアの学校に通う年数が違うからであって、それは今は置いておこう。それからは長期休暇にしかこの街には戻らない。そんな中でリタの変化を敏感に感じ取るのは難しい。ロレンでさえ曖昧にしかわからないのだから、俺になんてわかるはずがない、と思ってしまう。

 どうしよう、と溜息を吐きそうになった時、ヴィオが戻ってきた。両手にジェラートを持って。

「ロレン、大丈夫か? ほい、ルナも」

「ありがとうございます……」

「ありがと……って、あれ?」

 ヴィオの後ろに、もう二人いる。

「やあ。そこでヴィオに会って、ジェラート奢ってもらった」

 買物帰りなのだろう、食べ物が詰まった買物籠を提げたアンジェと黒葉だ。アンジェはもう片手に持ったジェラートをヴィオに渡す。黒葉はジェラートを持っていないが、断ったのだろう。黒葉はあまり借りを作るようなことはしたがらない。奢ってもらうことは借りとは少し違う気もするが、黒葉の中では大差はない。

「ロレンが熱中症かもしれないって聞いたんだけど、ジェラートでいいの? 飲み物くらいなら買ってくるけど」

「熱中症じゃないよ」

 ルナが苦笑すると、ヴィオは「えっ」と驚き、アンジェは食べ物が詰まった買物籠をヴィオの腰にぶつけた。

「じゃあ何? どうしたの? 確かに気分は良くないように見えるけど」

 さすが勘の良いアンジェだ。ジェラートを一口含み、答えを待つ。

「アンジェは、今日会ったリタに何か感じましたか?」

「……」

 ジェラートを齧り、黒葉と目を合わせる。

「やっぱり何かおかしかったの?」

「!」

「さっきちょっとね、黒葉とそのことを話してたの」

 話を聞くと、ルナと同じ所に着眼したようだ。あの場に居合わせた内の二人がこうして異変を感じたのなら、やはり何かあるのか……?

「頑張って人見知りを直そうとしてるなら、応援するけど……」

 何だろう、それだけじゃないような……ロレンのこの状態は、それだけではない気がする。

 三人が頭を悩ませていると、少し離れてジェラートを食べていたヴィオが、ふと視線に気づいた。

「!」

 白い壁の陰から、人形のような顔が覗いている。金髪碧眼の、見慣れた少女。無表情でじっとこちらを見ている。動かなければ、本当に人形だと思ってしまいそうな。

「リタ……ちゃん……?」

 驚くヴィオの声に、四人も視線に気づく。壁から覗く少女に。

「リタ……?」

「お兄、ちゃん……」

 平淡な声。背筋が凍るのを感じた。ロレンが、リタじゃない、と言った理由が少しわかった気がした。

「起きたらお兄ちゃんがいなかったの。だから……」

「ああ、そうか……ごめんね」

 立ち上がり、リタの元へ向かう。壁から姿を現したリタは、やはりぬいぐるみを持っていなかった。

「皆さん、話を聞いてくれてありがとうございました」

 それだけ言って、ロレンはリタの手を取った。何事もなかったように二人は帰路につく。

「昨日の朝から何も食べてないけど、夕食はちゃんと食べてくれるかな?」

 離れてゆく二人を目だけで見送りながら、ロレンのそんな言葉がぼそりと耳に入る。すぐに角を曲がり姿が見えなくなったが、最後の言葉に四人は顔を見合わせる。

「今……昨日の朝から何も食べてないって」

「リタちゃん、夏バテ?」

「昨日の朝からでしょう? さすがにお腹がすくと思うんだけど」

「ロレンの心配の種はこれかもしれないな」

 もう一度四人で顔を見合わせる。

「そりゃ心配だよなぁ。でも何でそのことは言わなかったんだろ」

「うーん……」

「体調が悪いっていうならともかく、元気なら問題だよね」

「そうだな……食べたくないというならともかく、食べられないとすれば、厄介だな」

 今度はアンジェと黒葉だけが顔を見合わす。ルナは考えながら目を逸らし、ヴィオは顔を見合わす二人を不思議そうに見る。

「……黒葉、私ちょっと嫌なこと思いついた。けど根拠はない」

「おそらく僕も同じことを考えてると思う」

「え? 何? 二人はわかったのか?」

 たぶんこの中で全く理解できていないのはヴィオだけだ。

「何も食べないって、まさかリタまで違界から来たなんて言わないわよね? リタがお菓子食べてる所とか、私見たことあるよ!」

「いや……変化があったのは昨日の朝からなら、昨日の朝に何かと入れ代わったと考えるべきだ」

「でも外見は完全にリタだぞ」

 さすがにヴィオも、三人が何を言おうとしているのか理解した。

「えっ? それじゃあ、その……仮に入れ代わってる? として、本物のリタちゃんは……?」

 三人は押し黙る。何処かに捕らえられているのなら、まだ良い方だ。殺されているとすれば――いや、考えたくない。

「仮に入れ代わってるとして、こんなに完璧になりすませるものなの? 黒葉もその気になったら誰かに化けられるとか……」

「僕にはできないが、可能な者は存在するかもしれない。違界にそういう技術があっても不思議なことではない」

「お前も違界にいたのに、正確には知らないのか」

「ルナは世界中の技術を知ってるのか?」

「……知らない」

「僕は技師に育てられたが、僕自身は技師じゃない。知らないことの方が多い。すまないな、僕の住んでいた世界なのに」

 申し訳なさそうに笑った、気がした。いつも涼しい顔で、あまり笑ったりはせず、見透かしたような目で見て、距離を取るように喋る黒葉が、少し憂えるように笑った気がした。

 これがもし違界の者の仕業だったとしても、同じ違界の者というだけで黒葉を責めたりはしないのに。黒葉が責任を感じる必要はない。

「黒葉、違界絡みなら、家に椎と灰音もいるし、相談すればいいよ」

「そうそう! 黒葉が全部背負い込まなくていいし!」

「わかってるよ、黒葉。わからないことがあっても、いいんだよ」

 アンジェの言葉だけは、今回のことだけを言っているわけではないと、すぐにわかった。黒葉が違界からこの世界に来た時に取り乱したこと、それも含めての今の言葉。ルナとヴィオにはわからないだろうが、黒葉は目を逸らす。

「うるさい」

 言葉の意味を理解し、アンジェは笑う。

「それじゃ、荷物置いたらルナの家に行くね」

「ああ。事情は先に二人に話しておくよ」

「ルナ頑張れ」

「お前もだバカ」

「えっ!?」

 どうも灰音が苦手らしいヴィオは「嘘だろ!?」と手をバタバタさせたが、ルナが腕を無理矢理掴むと、観念したようだ。

 三人は急いでジェラートを食べ終え、二組に分かれる。

 だが、その場から動けなくなってしまった。

 全員の目が、白い壁をひらひらと舞うものに釘付けになる。

「ピンクの……蝶?」

 見たことのない色の蝶だった。ひらひらと優雅に壁の間を舞う。曲がり角から一匹、二匹、と増えていく。

「何だあれ……」

 見たことのない蝶が、ひらひらと増えていく。

「何処かの家から逃げ出したとか?」

 まるで空に咲く花のようだった。何処から飛んでくるのかは定かではないが、この場所に集まってきているのは確かだった。


「伏せろ!!」


 黒葉の叫びに、反射的に地面に伏せる。頭上で風を切る音がした。

「えっ、な、何?」

 頭を押さえながら、ヴィオはそっと目を開ける。ピンクの蝶に周りを囲まれていた。

「な、何だよこれ!?」

 近くに伏せていたルナの服を引っ張るが、ルナにこの状況がわかるはずもない。

「何か俺達を狙ってるみたいに見えるんだけど……」

 思わず顔が引き攣る。

「攻撃してくるなら逃げなきゃいけないけど、さっきの風を切る音を聞くと……さすがに素手で蝶を叩き潰すなんてしたくないよ」

 アンジェの発言に、ルナとヴィオは更に顔が引き攣る。虫嫌いではない逞しさはいいとして、その発想にあっさりと至ることが恐い。必要ならば素手で叩き潰すことも考慮しているのだろう、その発言は。それはちょっと気持ち悪い、とヴィオの方が女の子のようなことを言う。

「逃げるか潰すか、決めなければならない」

 最初に立ち上がったのは黒葉だった。潰すことはやはり考慮するのか。

「よし、逃げよう!」

 伏せて様子を窺うルナとアンジェの横で、力強くヴィオが立ち上がる。

 無防備すぎる。

「くっ!」

 透かさず黒葉がヴィオの腕を引く。ひらひらと舞っていた蝶が弾丸のようにヴィオを掠めた。

「ひぃいああ!?」

 頬から薄く血が滲む。蝶が狙って攻撃を仕掛けてきた。この蝶達は明らかにこちらを攻撃対象として集まっている。

 続いて攻撃を仕掛けてきた蝶を、黒葉はナイフを抜いて裂く。ぼとりと落ちた真っ二つの蝶は、ギチギチと鳴き声のように翅を軋ませ、やがて動かなくなる。目を細め蝶の断面を見ると、それは生物というより……

「機械の、蝶……?」

 生物でないのなら、人為的に動かしている者がいるかもしれない。

「ヴィオも伏せていろ」

「あっ、はい!」

 次の攻撃が来ない内に、ヴィオは言われた通りに慌てて伏せる。黒葉の近くにいれば安全だと本能で感じたヴィオは、黒葉の足元にぴったりとくっついて伏せ「邪魔だ」と踏まれた。

 黒葉は軽く片足を引き、臨戦体勢を取る。蝶も、今までは様子を窺っていたのだろう、ギチリと確かにこちらに殺意を向けているのがわかった。

 ルナとアンジェとヴィオは伏せながらごくりと唾を呑む。黒葉一人に任せていいのだろうかと不安になる。先程蝶を真っ二つにしたのはただの偶然で、一斉に攻撃を仕掛けられたら、ハリネズミのように体中に突き刺さるのではないかと。それでも、蝶に応戦する術を三人は思いつかない。弾丸のように飛んでくる蝶を素手で叩き落とすことはきっと不可能だ。手に刺さるか貫通するか……持っていかれる。

 不安そうな目を一身に浴び、黒葉はナイフを構える。蝶如きからも守れないでどうする、と。

「――――っ」

 弾丸のように機械蝶が一斉に飛び掛かる。黒葉は近いものから順にナイフを当て地面に落とす。

「速い……」

 三人は息を呑む。今まで黒葉を普通の人間として見ていた。違界人だと知った今でも、漠然とした認識で現実味がなく、実感なんてなかったのかもしれない。漠然としすぎていて、何も見ようとしていなかったのかもしれない。姿は完全にこちらと同じ人間の姿をしているし、ちゃんと会話もできる。この世界にはいない紫色の目をしているが、それだけだ。それだけの違いしかない。なのに、今三人は、黒葉は普通の人間じゃない、と思ってしまった。自分達とは違う人間だと。

 機械蝶が次々と地面に落ちていく様も、助かったという喜びより、恐ろしさが勝っていた。怖い。ただ、怖く思った。機械蝶が? いや――黒葉が?

 空を見回し、地面の蝶の残骸を見渡し、黒葉は緊張を少し緩和させる。

「片付いた」

 一体何匹の蝶を裂き壊しただろう。石畳の地面は花畑のようにピンク色に染まっていた。

 頭上に蝶がいないことを確認し、三人も起き上がる。言葉が出てこない。守ってくれた黒葉に、ありがとう、と言わなければならないのに、何も言葉が出てこない。

「?」

 地面の残骸に目を落とし茫然とする三人を怪訝そうに見る。何故座り込んだまま立ち上がらないのか。何故誰も口を開かないのか。

「何処か怪我でもしたのか?」

 腰を落としてしゃがみ、黒葉は三人を覗き込む。ヴィオが震えていることに気づき、怖かったのかもしれない、という考えに至る。無理もない、こんな恐怖体験、この世界では遭遇しないだろう。日々殺意に囲まれた世界で暮らしていた黒葉とは違い、彼らは平和な世界で暮らしているのだ。こんな脅威、初めてだろう。

「立てるか?」

 手を伸ばす。ヴィオがびくりと跳ね、硬直した。そこでようやく認識の甘さを思い知った。三人は蝶よりも、黒葉を恐れてしまったのだと。それに気づき、黒葉は手を引く。たった六年で、何がわかったというのだ。ずっと黙っていたのは黒葉の方だったのに、どうして認められたと、同じだと、思ってしまったのだろう。彼らとは違う人間なのに。

「怖い思いをさせてしまってすまない」

「っ!」

 違う。謝ってほしいわけじゃない。気づけたはずだ。アンジェなら、あの脅える黒葉を見たアンジェなら。こちらの人間と違うのは、生きるためであって、殺すためじゃない。少なくとも黒葉は、守るために戦った。なのに、誰も何も認められないのは、黒葉を信じられないと、疑っていると、そういうことなのか。

 アンジェは奥歯を噛む。あの時どうして黒葉を拾った? 倒れていたから? 何故倒れていたのか深く考えず、ただ倒れていたから介抱した。それだけだ。その時、嫌な感じはしなかった。なら、今は? 嫌な感じはしたのか? どうしてごちゃごちゃと考えるようになったのだろう。まっすぐ最初に思ったことを素直にやれば、言えば、それだけでいいのに。黒葉は何が違う? 同じように考え、悩む黒葉が、一体何が違うという?

 きっと、怖いわけじゃない。少し驚いて途惑って混乱して、それだけだ。黒葉が怖いなんて、あるわけないじゃないか。

「違っ」

 踵を返す黒葉を呼び止めようとアンジェは腰を浮かす。だが、伸ばした手は黒葉には届かなかった。

「あ……」

 アンジェの腕に、機械蝶が突き立った。

「アンジェ!!」

 血相を変えルナとヴィオが駆け寄る。アンジェの腕には深々と機械蝶がギチギチと刺さっていた。蝶のピンク色の明滅に合わせるように、血が流れる。

 二人の声で黒葉も振り返る。決して油断していたわけではなかった。それでも、六年間この生温い平和の中にいて、鈍ってしまったのだろう。これは誰かを信じようとした罰なのだろうか。疑い続けなくてはいけない違界の定めから逃れたかった罰なのか。

 機械蝶は、まだいる。ひらひらと数を増やす。甘かったのだ。何もかも。甘い考えなんて捨てて一人で生きていれば、こんなことには。

 三人に襲いかかる機械蝶をナイフで裂く。ばたばたと残骸が地面に落ちる。

 怖がられたっていい。助けられてばかりで碌に守れないことへの、償い。望まれていなくてもいい。これは自己満足だ。


 今度は、守りたい。


 黒葉はポケットから首輪を取り出す。灰音に襲われてから考えを改め、持ち歩くようになった首輪。ナイフ一本では対応できないと判断した時に使おうと持っていた首輪。でもまさかこの世界で再び首輪をつけることになるとは思っていなかった。

 この機械蝶は間違いなく違界のものだ。違界のものに生身では、ナイフ一本では、限界がある。違界のものには違界のもので対応しなければならない。

「ルナ、ヴィオ、そこから動くな。アンジェの止血をしていろ」

「黒葉……」

 三人の前に立ち、黒葉は首に懐かしくも忌々しい金属の輪を嵌めた。ひやりと締めつける冷たさが、意識を研ぎ澄ます。首輪の電源を入れ、弾丸のように一斉に飛来する機械蝶を見据え、片手を翳す。

「っ……」

 まるで見えない壁でもあるかのように、蝶は黒葉が手を翳した位置でぐしゃりと壊れ、地面に散らばる。

「何だあれ……」

 蝶は一匹も黒葉に掠ることすらできない。まるで魔法でも使っているようだ。だが違界には魔法なんてものは存在しない。

 蝶は近づくのは無駄だと判断したのか、一旦空中でひらひらと留まる。判断する、ということがこの機械の蝶に可能なのかは定かではないが、攻撃の手が途絶えた隙に黒葉は翳した手を翻し横一閃。蝶に小さな刃が刺さり、次々と落ちていく。

「すげぇ……」

 恐怖よりも驚嘆が漏れる。

 ただ目の前で起こったことに脅えて、途惑って、理解を超えた事象を、恐怖に結びつけた。結びつけて、考えることを放棄した。

 でも黒葉は三人に背を向けて、三人にこれ以上傷をつけないよう、鈍った感覚を取り戻すように、刃を振るう。一度恐怖に逃げた三人を守るために。一人で、戦っている。

「これで終わりか……?」

 見える範囲にいた機械蝶は全て駆除した。動いている蝶はもう視界の中にはいない。だがまだ隠れている可能性はある。油断はできない。まだまだいるのならキリがないが。

 アンジェの止血を終え、安全を確認しながらルナが立ち上がる。

「えっと……黒葉、その……ありがと」

「……」

 表情が乏しいなりに黒葉は不思議そうな顔をする。何故礼を言われたのか、わからなかった。

「怖くないのか?」

「え? ……いや、まあ、最初は驚いたけど、黒葉が俺達を襲うってことはないだろ?」

「……」

 黒葉はルナの目をじっと見詰め、首を傾ける。

「え? そこは頷いてほしかったけど!? 何で首傾ぐんだよ!」

「ああ……そうだな」

 どうにも煮え切らない。

 ヴィオも立ち上がり、ルナの後ろから顔を出す。その表情に脅えた色はない。

「黒葉! お前すげぇな!」

「お前も……怖くないのか?」

 ルナに言ったことと同じことをヴィオにも言う。ヴィオは屈託なく笑い、

「最初はちょっと怖ぇーなぁって思ったけどよ、よく考えたら灰音さんの方がずっと怖ぇし、その、黒葉は友達だしな!」

「お前、たまには良いこと言うな」

 ルナに肩を叩かれる。

「たまにって何!?」

「黒葉って実は心配性?」

「何の心配だ」

「俺達に怖がられるのが怖いのかと思って。心配しなくても、少し心が離れてもすぐに戻るよ。一瞬でどうにかなる程度の仲じゃないし」

 ルナの言葉に、仕返しとばかりにヴィオは「たまには良いこと言うな!」とルナの肩を叩く。ヴィオより低いルナの肩は叩きやすい。

 アンジェも怪我をした腕を庇いながら立ち上がり、二人の横から顔を出す。

「腕は大丈夫か?」

「うん。何とか」

 二人には多くの言葉は必要ないようだ。少しの言葉で感情が伝わっている。

「無傷なら良かったんだがな」

「これくらいで済んだんだから、喜んでいいよ」

 少し離れてヴィオが顔の傷を指差したが、ルナに「それは怪我の内に入らないな」と言われ、ショックを受けた。

 だがいつまでも喜んでいるわけにはいかなかった。腹に響く轟音が空気を震わせた。

「!?」

「な、何だ!?」

「もしかしたらこの蝶だけでは事は済まないのかもしれない」

 花畑のようだった足元の蝶の残骸は、徐々に枯れ葉のように朽ちてゆく。

「僕は音のした方へ行ってみる。三人は安全な所に避難してくれ」

 黒葉が一歩踏み出すと、三人も同じように一歩踏み出した。黒葉は怪訝な顔で振り返る。

「聞こえなかったか? それとも理解できなかったか? 僕は避難しろと」

「ついて行く」

「何を……」

「黒葉を一人にしたくない。今のでわかった。黒葉は実は心配性だ! 私達が近くにいないときっと心配する!」

「そうだそうだ! 心配性――え?」

「足手纏いにならないよう、おとなしくしてる」

「ちょ、何でついて行くことになってんの? オレは待ってたいんだけど」

 アンジェの勢いに乗せられてしまったようだが、誰もヴィオの言葉を聞いていない。

「それなら近くにいる方が気が散るだろ。おとなしく待ってろ」

「今黒葉良いこと言った。待ってよう、皆」

「ヴィオは黙ってて」

「すみません」

「俺達もお前のことが心配なんだよ。それにさっきの音、俺ん家の方向から聞こえた。椎と灰音にも声を掛けるべきだ」

 黒葉は口を噤み、三人を見る。ふざけて言っているわけではなさそうだ。が。

「お前達……違界では長生きできないタイプだな」

 呆れたように首を振る。どうやら折れてくれたようだ。ルナとアンジェは顔を見合わせ喜ぶ。ヴィオは一人で震えていたが、見えていないフリをした。

「アンジェは負傷してるから特に気をつけろ。それと」

 黒葉は三人に小さな黒い玉を一つずつ渡す。

「いざという時は使え」

「えっ、これ何……」

 ヴィオが尋ねようとした時には、黒葉はもう走り出していた。その後にルナとアンジェも続く。二人に急かされヴィオも渋々ついて行くが、黒葉に渡されたものが何なのか訊かなくてもいいのか? 察しが良いと言ってもさすがに何も聞かされていない玉の使い方がわかるとは思えない。黒葉の言う『いざ』が起こるはずないと確信でもしているのか? この玉の使用方法を聞いておかないと『いざ』という時に役に立たないかもしれないのに。

 自分の身を守るためヴィオは走る。ルナとアンジェに並び、前方の黒葉に向かって叫ぶ。

「黒葉っ! これ、何だよ!?」

 黒葉は後方に一瞥を投げる。

「いざという時に使うものだ」

「それじゃわっかんねーだろ!? 何なんだよっこれっ!?」

 少しの沈黙の後、予想しなかった言葉が返ってきた。

「何が起こるかはわからない。知り合いの技師から貰った試作品だ」

「は!? んなもん渡すんじゃねーよ! 何が起こるかわかんねーもんに命預けたくねぇよ!」

「腕は確かだ。何でも望め」

「はぁ!?」

 走りながら叫んでいたヴィオは、すぐに息を切らして咳込む。そんなに体力があるわけでもないのに無理をするからだ。

「まあヴィオ一人くらいなら、守ってあげるから」

 アンジェに苦笑され、さすがに惨めになる。自分より年下で小さくてしかも怪我まで負っている女の子に、守ってあげると言われてしまった。返す言葉がない。

 機械蝶が突き刺さった腕は走ると震動が伝わり痛みに顔を顰めそうだが、ここで弱音を吐けば置いていかれるだろう。アンジェはもう、置いて行かれるのは嫌だった。自分の前から誰かがいなくなるのは。


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