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鳥になりたかった少女  作者: 葉里ノイ
3/8

第三章『助』

  【第三章 『助』】


 昏い空を舞う一つの光の噂は、瞬く間に広がった。

 最初は不気味な光として、やがて希望の光として。その光が舞う空を見て、多くの人間が高揚した。

 大きな蝶のようなシルエット。それは紛れもなく人間で、年端も行かない少女だった。少女は右目に黒い眼帯を当て、白い肌によく目立っていた。

「おい、姫が来てるぞ!」

「ああっ……胡蝶姫様が守りに来てくださった!」

 優雅に舞う姿から、次第にそう呼ばれるようになった。

 胡蝶姫、と。

 昏い空を舞う孤蝶。

 空を自由に飛び回るには、それ相応の金が必要だ。この世界の金は、植物。政府の生活区に行けば他にも金になるものがあるが、その外で大きな金を得るには植物しかない。空を飛ぶには、一本や二本ではない、多くの植物が必要だ。具体的な数は、空を飛ぶ術を与えてくれる技師によるが、この危険な空を飛びたいなどという物好きな者はそうそういない。障害物のない見通しの良い空を飛ぶことは、撃ち落としてくれと言っているようなものだ。鳥も飛ばない空。なのに胡蝶姫は空を舞う。頭がおかしいと言う者もいる。でも結果的に地に向く銃口が空へ向けられることにより、地の人々は束の間の安息を得る。人々全てが胡蝶姫の存在をありがたがっているわけではなく、姫の存在に脅え銃口を向ける者や、いつか姫に攻撃されるのではないかと震える人々もいる。だがそれでも、胡蝶姫は空を舞う。舞うことが義務だとでも言うように。

 少女はそんな胡蝶姫に魅了された一人だった。胸にぎゅっと薄い本を抱き、目を輝かせて空の蝶を見上げる。

「馬鹿っ! そんな目立つ所に立ってたら殺されるぞ!」

「えっ、でも」

 少女は腕を掴まれ、瓦礫の山の上から引き摺り下ろされる。物陰まで引っ張られしゃがまされ、少女は不服そうに頬を膨らませた。

「ここからじゃよく見えないよ。せっかく胡蝶姫が来てくれてるのに」

「確かにあいつがいると皆上を向いて、足元の私達から注意は逸れる。けどな、あいつが何もしてこないとは限らない。素性も何も知らない奴を味方だと言うつもりはないね」

「でも胡蝶姫は空を飛ぶ! 私も飛びたい!」

「はぁ……まだそんな馬鹿なこと言ってんのか。話噛み合ってないし」

 胸に抱いていた薄い本を、よく見えるように突き出す少女。この世界の黒い空とは裏腹に、澄んだ綺麗な青色の空と、その空を飛ぶ一羽の白い鳥が描かれた古い絵本。薄汚れて青も白もくすんでいるが、この世界と明らかに色が違うことははっきりとわかる。

 少女は空を飛びたかった。空を自由に飛び回れる鳥になりたかった。この濁った空でも、世界を見渡してみたかった。何処まで続いているのか、途切れる場所はあるのか、好奇心だけが膨れ上がっていた。危険な空を飛ぼうと思うのは、危険に勝てる自信のある殺し屋くらいのものなのに。



 事が起こったのは、少女が五歳の時だった。

 音もない小柄な胡蝶姫の飛行は、頻繁に空を見上げていないと発見しにくい。空ばかり気にしていると足元が疎かになり、躓いてしまったり転びそうになったりぶつかりそうになったり殺されそうになったりするが、少女は構わず空を見上げていた。その所為でよく、平和じゃないのに平和ボケ、と言われたが、気にしなかった。

 その日も少女は空を見上げていた。

「またあいつを捜してんのか。懲りねーなぁ、また転ぶぞ」

 植物を探して歩きながら、少女はきょろきょろと空を見回す。

「あっ」

 大きな蝶が視界に入る。胡蝶姫だ。少女は彼女に向かって手を振る。胡蝶姫がこちらを見た気がした。気の所為かもしれない。でも、そう感じたことが嬉しかった。いつもまっすぐ前を見ている彼女が、少し下を向いてくれたということが。

「あれ?」

 笑顔がすっと固まる。少女は小首を傾げた。こんなことは初めてだった。胡蝶姫が、地上に向かってきている。一直線に、少女の方へ。

 もしかしたら、会いに来てくれるのかもしれない。少女はそう思った。いつも胡蝶姫を見上げて、手を振って、彼女も気になっていたのかもしれない。少女は一気に高揚した。会ったら何を話そう。空を飛ぶのはどんな気分なんだろう。ずっと空を飛んでるの? 名前も聞いてみたい。名前が聞けたら、今度から名前で呼べる。どんな声なんだろう。優しい人かな、恐い人かな――


 だが、そのどれもが、叶わなかった。


「!!?」

 乾いた銃声が空気を震わせた。視界を埋め尽くす大きな翅と、真っ赤な液体。

 どしゃりと地面に落ちる、小さな体躯。

 少女の表情が凍りつく。大きく見開いた目は、まだよく状況を呑み込めていない。

「ぼーっとすんな!」

 銃声で駆けつけ、放心する少女の腕を荒っぽく掴み、物陰に潜んでいた人間に銃口を向け乱射。当たったかどうかはわからない。威嚇でも何でもいい。ここから逃げることができれば、それでいい。

「すまん、銃口に気づかなかった。お前ももっと周りをよく……」

 少女の表情は、まだ凍りついたままだった。無理もない。少女はまだ五歳なのだ。それに、あんなに憧れていた存在が、自分の目の前で自分を庇って、撃たれて、動かなくなった。死んでしまった。

 頭から地面に落ちた胡蝶姫は、眼帯の紐が切れその下の目が露になっていた。一瞬しか見ていないが、そこに目はなかった。からっぽの眼窩だけがそこにあった。この世界ではよくあることだ。目を傷つけられ目を失うことは少なくない。だが失った目の代わりに皆義眼を入れる。義眼を入れれば、目が見えるようになるからだ。この世界で視界を片側でも失うことは、寿命を縮めることにしかならない。生きるために皆、義眼を入れる。なのに胡蝶姫には義眼が入っていなかった。飛ぶことに必死で、義眼を入れる金すらその大きな翅に注ぎ込んだのだろう。そこまでして危険な空を舞う理由とは何だったのか……。



 それから三年後、懲りたかと思ったが全く懲りる様子もなく、少女は空を飛びたいと言い続けていた。きっと本物の馬鹿だ。

 胡蝶姫がいなくなった空を見上げることはなくなったが、地を見渡すことは多くなった。周囲を警戒するのはいいことだ。これで少しでも危険を回避できればいい。目の前で自分を庇って人が死んだおかげで、危機の意識が高まったのかもしれない。その点は胡蝶姫に感謝しよう――と思ったが、どうやら違ったらしい。少女は自分の身を案じて警戒していたわけではなく、三年前の少女のように、危険に気づかないでいる者を助けたいと思っていたのだ。たった八歳の少女が。

 見ず知らずの少年を助けるために地雷原に飛び込んだと聞かされた時は、さすがに殴った。二本の足で立って元気に帰ってきたから良かったものの、死んでもおかしくないのだから。あいつは、平和ボケした大馬鹿者だ。


     * * *


 目を閉じると、昔のことを思い出す。胡蝶姫のこと、地雷原に飛び込んだこと、それを武勇伝として嬉々として灰音に聞かせたら思い切り殴り飛ばされ意識が吹っ飛んだこと。……その時の灰音の気持ち。意識が飛んでいたので、その時説教を聞かされたらしいが何も覚えていない。

 ベッドから身を起こし、窓から外を見る。真っ黒な空。だが違界のような汚れた黒ではない。黒い空に光る粒がたくさん。知ってる。あれは星というものだ。誰かを殺しに来た飛行機が光っているわけじゃない。

 ベッドに手をつくと、柔らかく沈む。ふかふかの布団。違界ではざらついた布を体に巻くことはあるが、体を横たえるということはなかなかしない。手触りの良い布は、可能な限り衣服へ回される。

「やっぱり眠り方がわからない……」

 ルナには、おやすみと言われた。おやすみと言われると、眠らなければならない。絵本で読んだ。でも違界の者は通常、眠らない。気を失うことはあるが、寝ろと言われて眠ることはできない。睡眠は大きな隙を生む。寝ている間に殺される可能性を憂えて、頭につけたヘッドセットから睡眠欲を満たす電磁波が出るようになっている。今は首輪の電源を切ってあるのでそんな電磁波は出ないが、それでも今までずっと眠ってこなかったのに、いきなり眠れるはずがない。目を閉じてみても、昔のことが走馬灯のように思い出されるだけ。

 静かな部屋に、ことりと音が響く。床に足を下ろし、歩く。ルナならきっと眠り方を教えてくれるだろう。

 ルナの部屋に行く途中、明かりの漏れている部屋があった。カタカタと音がする。きっと宰緒だ。宰緒も眠り方がわからないのだろうか。

 宰緒の部屋は通り過ぎ、ルナの部屋の前に立つ。小さくドアを叩いてみるが、返事はない。眠っているのだろう。

 そっとドアを開けてみると、案の定寝息を立てて眠っていた。ベッドの上にはルナが、床の上にはヴィオが。椎が一部屋使ってしまったので、行き場を失ったヴィオはルナの部屋で眠ることになったのだ。サクは寝る時間が遅いから嫌だとか何とか、ヴィオが言っていた気がする。明かりが消えているので、床に転がっているヴィオを踏みそうになるが、どうにか起こさずにルナのベッドまで辿り着く。

(凄い。寝てる……)

 ベッドの脇にしゃがみ、じっとルナの顔を覗き込む。昨日も寝顔を見たが、何度見ても、凄い、と思う。

 気絶と睡眠は同じものかと思っていたが、どうやら少し違うらしい。睡眠は、顔色が良い。

 せっかく平和に眠っているのに、その平和を乱して起こしてしまっていいのだろうか。睡眠は、疲れた心身を癒すために必要らしいということは、絵本から得た知識で漠然と呑み込んだ。眠っているということは、ルナは今、疲れているのだ。起きている宰緒に相談した方がいいか? こちらの世界の人間は、違界の人間とは違うかもしれない。昨日は無理矢理起こしてしまったが、何度も無理矢理起こしてしまえば、死んでしまうかもしれない。

(死んじゃったら大変だ……)

 二人を起こさないよう、来た道を引き返す。宰緒の部屋からは、まだ明かりが漏れていた。

 ドアを叩くが、こちらも応答はない。ので、勝手にドアを開けた。宰緒は昼に会った時と同じように椅子に座り、パソコンに齧り付いていた。ルナは宰緒のヘッドホンを外していた。真似をして椎も外してみることにする。

「?」

 くるりと振り向く宰緒。

「まだ起きてんのか。返せ、それ」

 面倒臭そうにヘッドホンを指差す。

「あのね、寝てる人を何度も起こすと、死んじゃう?」

「は?」

 ぽかんと口を開けて瞬きする。何言ってんだこいつ。

「青羽かカルディに用があんのか? 別に死にゃしねーよ」

「本当? よかった……どうやったら起きるかな。また揺すればいいかな」

「……」

 引出しを開けるので、また丸いものがついた棒を取り出すのかと思ったが、今度は違うものが出てきた。また不思議な形をしたものだったが、綺麗な色をしている。

「綺麗! これは何?」

「洗濯挟み。指で抓むと先が開く。これで鼻を挟めば起きる」

「ふわ……こっちの世界には起こすための道具があるんだね。しかもこんな綺麗な色、初めて見た。空みたい」

 水色の洗濯挟みを電灯に翳し興味深そうに見ている。妙な光景だ、と宰緒は思った。

「気に入ったならやる。色々挟めて便利だぞ。ところで、そのお礼にホログラムを見せ――ってぇ!?」

 手を伸ばした宰緒の指は、思い切り洗濯挟みに挟まれた。



 洗濯挟みを持ってルナの部屋に戻ると、二人は変わらずぐっすりと眠っていた。ヴィオは起こさないよう、音を立てず踏まないようにそっと跨ぐ。

 ルナのベッドの脇にしゃがみ、宰緒から貰った洗濯挟みでそっとルナの鼻を挟む。

(よし、完璧……ちゃんと固定されてる)

 遣り切った顔で椎はルナの目覚めを待つ。

 程なくして、ルナの顔が歪んだ。

「!!?」

 がばりと勢いよくベッドから起き上がり、鬼気迫る速さで洗濯挟みを毟り取りベッドに叩き捨てた。手で鼻を覆い、肩で息をしている。唐突な動きに、椎はぽかんと口を開ける。

「し、死ぬかと思った……」

 ルナの息が荒い。椎は口を開けたまま震える。

「ご……ごめんなさい……これが死ぬ危険性を孕んだ道具だったなんて……」

「え? いや……何? 死なないけど」

「後でサクに文句言う」

「ああ……そう、サクか。俺も後で挟んどく」

 捨てた洗濯挟みを拾い、椎に返す。とりあえず洗濯挟みの正しい用途を教えておく。椎の震えは止まったようだが、サクは後で締める。

「それで、何? また眠れないのか?」

 椎はこくんと頷く。宰緒の差し金で安眠妨害をしに来たのかとも思ったが、そういう悪戯に手を貸すタイプではないと思う。先に起きている宰緒の所へ行って、眠れないと言ったのだろう。そこでルナを起こせとでも言われたか、洗濯挟みと間違った使い方を教えたのだろう。宰緒は頭が良いのに、よくよく馬鹿だ。

「眠り方がわからないの。だからルナに教えてもらおうと思って」

「眠くなったら寝れるだろ」

「えっと……違界では睡眠は取らないから……」

「え?」

 寝起きで上手く頭が働かない。睡眠を取らない? じゃあ眠くなったらどうするんだ?

 眉を顰めていると、椎が説明してくれた。睡眠欲を満たす電磁波のこと。そもそも『眠い』というものがどういう感覚なのかわからないこと。

「大変なんだな……違界の人って。電磁波で満足させるって言っても、脳を錯覚させるだけだろ? 本当に疲れが取れるわけじゃない。そんなのでよく生きられるな」

 欠伸をしながら、わしゃわしゃと髪を掻き回す。椎は上目遣いでじっとルナを見上げ、前触れなく身を乗り出した。

「こっちの世界の人は、凄く長生きだって聞いたことある! 百まで生きる人もいるんだよね? 違界では最高でもその半分くらいが限界なの。技師は自分の技術を使って長生きする人もいるけど。こっちの世界の人は凄い!」

 ああ、やっぱり長生きできないのか。殺されなくても、それくらいが寿命なのか。本当に住む世界が違いすぎる。

「あんまりこんな時間に出歩くもんじゃないけど、ちょっと散歩でもするか。俺は眠いんだけど」

「散歩すれば眠くなる?」

「疲れたら眠くなるだろ」

 ベッドから下り、靴を履く。ただでさえ迷路のようなこの街で、しかも視界が不鮮明な夜。光の届かない細い路地が幾つもある。だが眠れない椎を一人で置いておくと、暇潰しに一人で外に行ってしまう可能性もある。ついていてやるしかない。ルナにとっては慣れた街だ。土地勘もある。万が一の助けくらいにはなるだろう。たぶん。

「ほら、行くぞ」

 部屋を出る時にうっかりヴィオの腕を踏んでしまったが、小さく呻いて寝返りを打っただけで目覚めることはなく、ほっと安堵した。



「ルナ、海行こ!」

「お前、海好きだな」

「うんっ!」

 夜の海なんて黒いだけなのに。また飛び込もうとしているなら、今度は飛び込む前に止めよう。

 できるだけ細い路地は通らずに海を目指す。夜の街はしんと静まり返り、誰もいない。まるで世界に二人だけになってしまったかのように。

 椎は空を見上げながら歩く。違界の濁った空では、一等星すら見えないらしい。空に鏤められた星が珍しいのだろう。今日は少し雲が出ているが、それでも星は輝いている。

「星は落ちてこないの?」

 空に手を伸ばしながら、椎は何気なく訊く。

「落ちてくるよ。でも大抵は、途中で燃え尽きる。流れ星を見つけたら、願い事をするんだよ」

「自分に落ちてきませんように?」

「自分に落ちてくることはほぼないと思うから、好きなお願いをすればいいよ」

「そっか。星が落ちるのはそんなに恐いことじゃないんだ。違界だと弾丸が落ちてくるから、そういうのかなって思ってた」

 何でもない風に笑うが、弾丸が落ちてくるというのは尋常ではない。だが違界ではそれが日常なのだろう。椎はその日常に慣れてしまっているのだ。それを同じように笑い返すことは、ルナにはできない。空を見上げることしかできない。

「うっ――!?」

 空を見上げていると、唐突に力を加えられた。首がかくんと傾く。白い壁に叩きつけられ、ようやく突き飛ばされたのだと気づいた。

「げほっ……いきなり何すんっ……!?」

 地面に座り込むルナの体は、ぎゅっとか細い腕に抱き締められていた。顔は見えない。椎が何を思ってこんなことをしているのか見当もつかない。

「し、椎……?」

 強く抱き締めたまま、椎は動かない。突然に具合が悪くなったわけではないだろう。それならルナを有らん限り突き飛ばす理由がわからない。急に感極まったのか? 何故突き飛ばされたのかわからないが。

 椎の柔らかいものが、夏の薄着を通してはっきりと感じられる。こういう時、どうすればいいのだろうか。抱き締め返せばいいのだろうか。イタリアにいると、挨拶等で抱擁を交わすことは珍しくないが、こんなに長時間密着されることはない。それにルナは半分は日本人で、日本での生活も長い。どうしろというのだ、この状況。

 どう対処すべきか途方に暮れていると、ふと小さな光るものがぽつりと落ちてきた。

「雨……?」

 月明かりに照らされた雨が、ぽつりぽつりと降ってきた。ルナが呟くと、椎の手にぎゅっと力が籠るのがわかった。

「もしかして、雨が降るのがわかったのか? 雨が嫌い?」

 ルナが叩きつけられた壁には丁度雨避けになるだろう突き出した部分があった。

「星もまだ見えてるし、すぐ止むだろ。少しくらい濡れても……」

「駄目……」

「?」

「私には防弾膜がないし、雨に当たると死んじゃう」

 またおかしなことを言い出した。いや、違界ではそうなのか?

「防弾? 何? こっちでは雨に当たっても死なないし、怪我もしないから大丈夫」

 ルナに抱きついたまま、椎は勢いよく顔を上げる。近い。顔が近い。

「死なない? 本当に?」

「本当だ。死ぬなら俺も焦るから」

 証明するようにルナは手を伸ばす。ぽつりと手に雨が落ちるが、手に載るのはただの水滴。それを見て安心したのか、椎は漸くルナから離れる。

「違界の雨は弾丸って言われてて、人を貫くの。当たり所が悪いと死ぬし、大雨が降ると体中穴だらけになっちゃう。事前に雨が降ることがわかれば、今みたいに避難もできるけど、わからない時もある。だから皆、雨を防ぐための防弾膜を身に纏うの。目には見えないけど、雨から身を守ってくれる。ずっと雨に当たってると膜が破れることもあるから、どのみち避難はしないといけないんだけど」

「え? でも今、椎にはないって……」

「私は、飛びたかったから。防弾膜に使うお金も、飛ぶことと……」

 何か言おうとして、口を噤む。じっと雨の降る空を見上げて、言葉の続きが紡がれない。

「椎?」

 何か見えるのかと、ルナも空を見上げてみるが、特に変わった所はない。

「どうし――」

 椎に目を移そうとすると、ルナの胸にぽすんと淡い紫の頭がぶつかってきた。

「えっ、ちょっ、し、椎?」

 今度こそ、その、えっと……焦りながらも椎の肩を掴み、引き剥がす。椎の頭がぐったりと垂れている。

「おい、大丈夫か!? しっかり……」

 困惑が一気に消滅した。椎は眠っているだけだった。

 眠いという感覚もわからないまま、唐突に限界がきたのか。

「驚かせやがって……」

 一気に緊張の糸が切れ、脱力。せっかく眠れたのだ、起こすわけにはいかない。背負って帰るしかない。

「ああもう、雨のことは先に言っとけよ黒葉ぁ!」


     * * *


「っくしゅ」

 ミルクを温めながら、黒葉は小さくクシャミをした。

(夏風邪か?)

 目を伏せて、温まっていくミルクを見詰める。

「……」

 まさかこんなに近い所で、違界の者に出会すとは思わなかった。こちらの世界に来て良くしてもらった者達に、違界のことは知られたくなかったのに。あんな恐ろしい世界が存在していると、知られたくなかった。そんな世界に住んでいた黒葉も、恐ろしいものを見るような目で見られ、畏怖されると思ったから。怖がられようが避けられようが構わないが、今の状態が崩れるのは少し寂しい、気がした。

 それに、違界のことに、こちらの世界の者達を巻き込みたくなかった。

 温めていたミルクの表面で、ぽこりと気泡が弾ける。考え事をしていた所為で温めすぎてしまったようだ。

「?」

 玄関のドアから小さなノックの音が聞こえた。こんな夜中に来訪者とは珍しい。

 ナイフをすぐに取り出せるよう、警戒を怠らずドアを開ける。

「――アンジェ?」

 暗い夜の街に立っていたのは、アンジェだった。周りには誰もいない。彼女一人で来たようだ。

「忘れ物でもしたか?」

「まあ……ちょっと、ね」

 ドアを閉め、アンジェを家の中へ招き入れる。

 アンジェは、よく連んでいる顔触れの中では一番背が小さく、歳も一つ下で、皆から見れば妹のような存在だった。明るく元気、だが冷静。昼間のように、喧嘩を止めに入ったりもするし、割と手も早い。と言うか、喧嘩が強い。なので、アンジェと喧嘩をすることは、極力避けたいと皆思っている。アンジェは強い。弱音も吐かないし、弱味も見せない。

 椅子に座ったアンジェの前に、ホットミルクを置く。自分のために作ったものだが、来客優先だ。

「夏にホットミルクは飲まない。これ黒葉のでしょ? 気遣わなくていいよ」

「そうか」

 アンジェの前に置いたホットミルクを、自分の方へ手繰り寄せる。少し熱すぎたか。

「ホットミルクもだし、毎年思うけど、そのコートも見てて凄く暑いよ。右手は手袋までしてるし」

「そんなことを言いにわざわざ来たのか」

 ホットミルクを一口飲む。やはり熱い。少し冷まそう。

 アンジェはじっと黒葉の目を見詰める。こちらの世界では見かけない、紫色の目を。

「私が気づかないと思った?」

「……首輪か」

「黒葉が何処に行こうが、それは黒葉が決めることだし黒葉の勝手だと思う。でも、いきなりいなくなるのは嫌だ」

「いきなりいなくなるのも僕の勝手じゃないのか」

「それも黒葉の勝手だけど、嫌だって思うのは私の勝手だ」

 逸らすことなくまっすぐに見据えてくる。わかりやすい、まっすぐな言葉。まっすぐな矢は、よく刺さる。

 一つ息を吐き、黒葉もまっすぐアンジェを見詰める。大きな黒い目。

「違界には簡単には戻れない。違界へ行く装置がないからな。装置を造るには、装置が造れる違界の技師が必要だ。この広い世界で、そんな僅かなものを探すなど途方もないことだ。可能性のために首輪は直しているが、あくまで可能性にすぎない。お前が心配するほど可能性は高くない」

「そう……なの?」

 アンジェは、拍子抜けしたようにきょとんとする。最悪、明日にでも黒葉がいなくなってしまうのではないかと覚悟しながら会いに来たのだろう。読みが良いだけに、こういうことまで気を回す。だからこそ黒葉は今、ここにいる。

「安心したら眠くなったから、泊まっていい?」

「好きにしろ」

 ルナやヴィオには、アンジェに弱味でも握られてるんじゃないかと思われているようだが、弱味は握られていない。ただ少し、口止めをしていることがあるだけだ。


     * * *


 アンジェと黒葉が出会ったのは、六年前のことだった。

 黒葉には肉親がおらず、技師の老人に拾われ育てられた。その後、同じく老人に拾われた二つ年下の少女と三人で暮らした。少女は妹のような存在だった。名前のなかった黒葉と少女に名前を与えたのも、この老人だ。

 黒葉はよく色々なものを生み出す老人の手元を見ていた。自分も技師になりたいと思った。そうすれば老人も妹も、守れると思った。この残酷な世界から。

 だが守られていたのは、自分の方だった。

 老人が大きな装置を造り始めたことは、黒葉も気づいていた。大きな装置を造るには、その場に留まり、造り続けなくてはならない。この世界で一カ所に留まり続けることは、自殺行為に等しい。相手に自分の居場所を教え、行動パターンを探られてしまう。殺意のある者が見れば、すぐに殺すだろう。

 そんな危険を冒しても造りたかったもの。それは、世界間転送装置。老人の拾った二人の子供を、残酷な世界から平和な世界へ逃がすためのものだった。黒葉が、それが何の装置かを知ったのは、転送される直前だった。

 場所を嗅ぎつけ集まった人々に銃口を向けられながら、黒葉は装置の中に押し込められ、出ることができず転送された。妹の方が先に装置に入るはずだった。でも妹の方が一瞬早く、装置が転送するものだと気づいた。だから黒葉を装置の中へ突き飛ばした。黒葉は転送されたが、その後二人が無事に転送されたかは知らない。

 転送された黒葉は、土の上に落ちた。少し擦り剥いたが、気にする余裕なんてなかった。二人がどうなったかわからないのに、自分だけが助かったという罪悪感がこびりついていた。

 自分のいた場所の景色は変わり、身を起こして辺りを見回すと、ここが違界ではないことはすぐにわかった。木が生えていたのだ。それも、たくさん。何本も、何本も。違界にこんな光景が広がっていれば、間違いなく奪い合って戦争になる。

 何処に行けばいいのかわからなかったが、何処かに行けば、この世界のことを教えてくれる人がいるかもしれない。そして、転送装置を造れる人が。

 お腹がすいたが、食糧は持っていない。何も準備せずに転送されてしまった。精々武器が幾つかある程度だ。だが武器では腹は満たせない。

 行く当てなくとぼとぼ歩いていると、木々の隙間から要塞のような白い建物群が見えた。

「城……?」

 いや違う……ここは違界じゃない。木がたくさん生えているし、空は不気味な青をしている。ここが違界のはずがない。でもこの世界のことはよく知らない……それでも、建物のある所へ行けば人もいるということはわかる。

 だが迷路のような白い街に、黒葉は迷う。ぐるぐると同じ場所を歩いているような感覚。空腹と疲労で遂に黒葉は倒れてしまう。誰もいない路地で、たった一人で。暮れていく空に見下ろされながら。


「ん?」


 そこに通りかかったのが、当時九歳だったアンジェだ。友達と遊んだ帰り道、偶然覗いた路地に黒葉が倒れていた。

「だっ、大丈夫ですか!? 生きてますか!?」

 息をしていることを確認すると、アンジェは自分より背の高い少年を踏ん張りながら背負い上げた。

「アンは力持ちなので、大丈夫です!」

 この頃のアンジェは自分のことを『私』ではなく『アン』と呼んでいた。

 アンジェは自分の家に黒葉を運ぶと、自分のベッドに寝かせた。頭のヘッドセットと首輪が苦しそうに見えたので、がちゃがちゃと外しておく。

 頭に載せていたタオルの何度目かの交換で、黒葉は目を覚ました。

「ここは……?」

 黒葉が目覚めてほっとしたのか、アンジェはタオルを放り投げて笑顔で顔を覗き込んだ。

「何て言ったのかわからないけど、ここは私の家!」

 何を言ったのかわからなかった。知らない言語でもヘッドセットが自動翻訳してくれるはずなのに。黒葉に言葉が理解できないということは、彼女にも黒葉の言葉が理解できていない可能性がある。

 ベッドからゆっくりと身を起こすと、頭が妙に軽いことに気づく。おかしい、いつもの重さではない。違界と重力の大きさも異なるのか? そうしてふと手を遣った頭に、いつもの感触がなかった。

「!?」

 目を見開いて頭を押さえる黒葉にアンジェは不思議そうな顔をしたが、すぐに理解したようだ。

「ヘッドホンと首輪なら、邪魔だから外したよ」

 何を言っているのか全くわからない。でも理解できなくても、彼女がヘッドセットと首輪を外した可能性があることはわかる。先程までは確かに装着していたのだから。

 目を見開き、喉元と口を押さえる。あれらがないと、違界では生きていくことができない。人為的な危険から身を守るのは勿論、空気から身を守るにも必要なものだ。汚れきった空気、飛び交う有害電波。そんなものを浴び続ければ、すぐに体を蝕まれ、死に至る。それを外されるということは、殺意があるということ。

「お前っ……!」

「?」

 突然睨みつけられ、アンジェは小首を傾ぐ。だが苦しそうだということは、見てわかった。

「ちょっと待ってて!」

 バタバタと部屋から急いで出て行く。逃げた、と黒葉は思った。このままここに黒葉を放置して、徐々に衰弱させ、殺すのだと。

 一刻も早くヘッドセットと首輪を見つけなくてはならない。だが体が思うように動かない。ヘッドセットから出る特殊な電磁波で疲労感を麻痺させていた常から一変、誤魔化すものがなくなった今では、少し休んだくらいでは疲労は回復しない。

「う……ぐ……」

 前のめりになり肩で息をする。体中が痛い。怠い。動かない。

「わっ!? 大丈夫!?」

 大きなマグカップを持ったアンジェが戻ってきた。止めを刺しに来たのかもしれない、と黒葉は奥歯を噛みながら思う。

「これ飲んで! ホットミルク! これ飲むと落ち着く」

「毒、か……」

「言葉がわからなくてごめん……。えっと……変な夢でも見たの? いいから飲んで」

 顔を逸らす黒葉の顔を掴み、アンジェは無理矢理ホットミルクを飲ませた。口を閉じるので、ぼたぼたとミルクがベッドに零れる。指で口を抉じ開けながらミルクを流し込む。

「げほげほっ!」

「飲んでしっかり寝たら、きっと良くなる」

 無垢な笑顔を向けるアンジェに、黒葉は無力にも睨むことしかできない。最後の抵抗にと睨みつけて、そこでふと気づく。この少女は、頭にも首にも何もつけていない。もしかすると――こちらの世界では、そんなもの必要ない……? そう認めると、急に体が楽になった気がした。先程まであれほど苦しいと感じていた喉が、今では何も感じない。ミルクと一緒に流れてしまったかのように。異常のない空気の中で、思い込みに取り憑かれ感じない痛みに一人で呻いていただけなのか? だとすると、これはあまりにも――恥ずかしい。

「言葉はわからないけど、名前はわかるかな? アンは、アンジェリカ・ロッカっていうの」

 アンジェは自分を指差し名前を言い、黒葉を指差し首を傾げる。何度か繰り返すと、名前を訊いているのだと黒葉にも理解できた。

「黒葉……」

「通じた! じゃあよろしくね、黒葉」

「アン……」

「アンは、アンが呼ぶ呼び方だから、黒葉は呼んだら駄目だよ。皆はアンのことアンジェって呼ぶよ」

 口元のミルクを拭いながら、黒葉は目を伏せる。表情と語気で、呼び方を改めてほしいことを何となく察する。

「アンジェ、その……僕が取り乱したことは、誰にも……」

「ん? んー……わからないけど、わかった! 内緒にする!」

 アンジェも表情と語気で察する。

 この翌日、アンジェに紹介され、黒葉はルナとヴィオに出会う。黒葉が取り乱したことは勿論、アンジェ以外は知らない。


     * * *


「ホットミルク見ると思い出すよね、私が拾った時の黒葉」

「……」

「今日、違界の話を聞いて、あの時の黒葉の気持ちがわかった。怖かったんだよね、知らない世界で、大事なものがなくて。無理矢理飲ませてごめんね」

 ベッドに寝転がりながら、アンジェは微笑む。黒葉の持つマグカップを見詰めながら。

「いや、あの時のお前には感謝している。あのまま誰にも見つからなければ、死んでいただろうからな」

 アンジェと妹が時々重なる。どうして自分は、助けられてばかりなのだろう。強いつもりだったのに。

「おやすみ」

「うん、おやすみ黒葉」

 部屋の明かりを消し、ドアを閉める。黒葉も冷めたミルクを飲みながら寝室に向かった。


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