第二章『捜』
【第二章 『捜』】
日が昇り朝食を摂った後、ルナとヴィオは事情を説明し、ヴィオの父親に車を出してもらえることになった。小さな車の助手席にヴィオが、後部にルナと椎が座る。
「お嬢さん、無事にお友達が見つかるといいですね」
窓から珍しそうに外を眺めていた椎は、バックミラーに映るヴィオの父親に目を合わせる。
「うん!」
今日も夏らしいカラッと晴れた青い空。その色を目に焼き付けているかのように、椎は空を見上げる。今まで見たことがない色、絵本の中でしか見たことのない色を目にするというのは、どんな気持ちなのだろう。
助手席に座っているヴィオは、ガサガサとスナック菓子の袋を開け、後部を振り向き差し出す。ルナは袋から一つ抓み口に放り込み、ヴィオと同時に椎の方へ目を遣った。
「椎も食べる?」
声に気づきこちらを見るが、袋を見て不思議そうな顔をした。
「食べる? どうやって?」
袋の中を訝しげに覗き込むばかりで、手を入れようとしない。
「? 食べるって、こう」
ヴィオは袋から一つ抓み出し、口に放り込む。椎はまだ不思議そうな顔を止めない。菓子を食べたことがないのか?
「口に入れてどうするの? 呑むの?」
「えっ?」
呑む前に噛んでから……とヴィオは説明しようとするが、ルナはあることに気づいた。昨日、椎と出会ってから彼女は何も口にしていなかった……気がする。今朝も朝食の席に彼女はいなかった。本当に何も食べていないのか?
噛み合わない会話を繰り広げている二人を交互に見ながら、ルナは袋から菓子を抓む。会話が難航しているヴィオには悪いが、ルナが殆ど食べてしまいそうだ。時折ルナに助けを求めるような視線を向けるが、すっとヴィオから窓の外へ視線を逸らす。
二人の会話が収束しない内に、やがて林立する木々が目に飛び込んできた。椎は会話を打ち切って、青々とした木々に感嘆の声を漏らす。
「ふわあああ! 凄い! 木がいっぱい! こんなにいっぱい見たの初めて!」
キラキラと目を輝かせ、窓に張り付く。
「オリーブ畑だよ。で、あっちが……」
木々を指差し、ついっと指を上に持ち上げる。その先には真っ白な建物群があった。畑は平地にあるが、目指す街は丘の上にある。見た目はまるで要塞のようだ。
要塞のような街を見上げ、椎は呆然と口を開く。
「政府の城……みたい……」
「政府? 植物をお金に換えてくれるっていう?」
「うん……こんな真っ白じゃないけど……」
複雑な感情を映した表情を見るに、向こうの世界の政府はあまり良い印象はないようだ。恐怖の対象という気すらする。
「ルナ君の家は旧市街の方だったかな?」
「はい。入口の辺りで降ろしてください」
ルナの母親の実家がある街は、旧市街と新市街に分かれている。新市街では車が行き交っているが、旧市街には車を乗り込めない。ルナの母親の実家は、迷路のような旧市街の中にある。
旧市街に入る通りで車から降り、ヴィオの父親と別れた。ついでなので、ヴィオもルナの家に泊まるらしい。旧市街に入る通りは観光客もちらほらと見られ、余所者でも然程目立たない――が、さすがに椎の姿は目立つようで、視線を集めている。椎もまた物珍しそうにきょろきょろと通りに並ぶ店を見回しているので、余計に目立つ。
通りから横道に入り暫く路地を進むと、ルナの母親の家がある。周囲の建物と同じ、真っ白な外壁の家だ。家には今、祖父母がいるはずだが……いない。どうやら出掛けているようだ。ということは、この家には今は一人だけ。
ルナの部屋に荷物を置き、その一人がいる部屋のドアをノックする。
「入るぞー」
返事はない。どうせまたヘッドホンをつけて、外の音が聞こえていないのだろう。
ルナはお構いなしにドアを開け、机の前に座る人物からヘッドホンを奪う。
「帰った」
「ん? あれ? 早くね?」
他人の家で一人で留守を任されているのは、久慈道宰緒だ。机上に載っているパソコンの画面には、アルファベットと数字の羅列がのたうっている。また何かプログラムでも打ち込んでいたのだろう。プログラムのことはよく知らないが、宰緒の特技だ。
相変わらずコートを着てフードを被っている宰緒は、くるりと椅子を回して振り向く。口には棒付き飴を咥えて。
「カルディと……誰?」
久しぶりだなーサク~、と手を上げるヴィオの隣に視線を移し、凝視する。
「椎って言うんだ。友達と逸れたらしくて、捜してあげることになった」
「ふぅん。面倒臭いことやってんだな」
再びくるりと椅子を回し、パソコンに向き直る。もう興味をなくしたようだ。
宰緒は引き籠ってパソコンに向かってばかりいて情報を持っているかわからないが、と思いつつ、ルナは椎に、灰音のホログラムを出してくれと頼む。
「サクもこれには興味を示すと思う」
椎は言われた通りに手の甲にホログラムを出現させた。何度見ても目の遣り場に困るホログラムだ。
「サク、灰音見かけた?」
名前はまだ教えていないが、ルナの真似をして名前を呼ぶ椎に、宰緒は今度は面倒臭そうに首だけ振り向く。
ホログラムを出現させた手を突き出す椎の方は見ず、まっすぐホログラムを目に捉えた。同じホログラムをルナとヴィオも見たが、その後のホログラムは初見だった。椎が「動くよ」と言うと、ホログラムの灰音が手を上げたのだ。反射的にヴィオも手を上げるが、誰もヴィオを見ていない。
興味をそそられたのか、宰緒は床を蹴って椅子ごとこちらに滑ってきた。
「面白いな。こんなペラペラの布にどうやって仕込んでるんだ?」
ホログラムを現している手の甲の布を抓んでぺろりと捲り、裏を見たり表を見たり。突然の態度の変貌で、驚いたのか急に触られたからか、椎は目を見開き頬を微かに朱に染める。
「ふっ、ふわっ……」
混乱したのか、ホログラムを出現させていない方の手を刀のように、宰緒の頭に思い切り振り落とした。
「って!?」
フード越しに殴られた宰緒は両手で頭を抱えた。さすが戦場で暮らしていただけはある。見た目よりも痛いらしい。
「女の子に急に触るのは失礼だぞ、サク」
ヴィオに苦笑されると、宰緒は再び床を蹴り、机へと戻った。迷いのない手で引出しを開け、中から棒付き飴を一つ取り出した。
「チョコミント。これで」
椎に向かって放り投げ、床を蹴って椅子ごと戻ってくる。椎は飴を受け取るが、包装紙で包まれたそれが何かわからず、不思議そうな顔で飴とルナを交互に見ている。宰緒はこの飴をやるからホログラムを見せてくれ、というつもりだったが、女の子に触れることと安い飴は釣り合わない気がする。なので「安すぎだろ」ルナは椅子を蹴り、宰緒を机の方へ戻しておいた。
「それで、このホログラムの人の情報、何かあるか?」
「いや、知らね」
予想通りの答えだった。どうせここに来て一度も外に出ていないのだろう。だが、こうして灰音の顔を見せて、捜していることを伝えれば、何か情報が入ってきた場合にこちらに流してくれる。
「じゃあ、俺らはまた捜してくるから」
「忙しいな」
ホログラムには興味があるが、外に出るのは億劫らしい。机の前から動かない。
部屋から出ると、暫くじっと飴を見詰めていた椎は、思い切ってルナに差し出した。遂に何かわからず、お手上げらしい。
「ルナ、あげる」
半ば押しつけるようにルナの手に握らせた。
「俺、ミント嫌いなんだけど……」
しかし部屋に戻れば宰緒にまた何か言われるかもしれない。せっかく部屋から出たのに。ルナは仕方なく工具入れのポケットに飴を突っ込んだ。後で返そう。
手分けして捜すのも悪くないが、如何せんこの街は迷宮のような入り組みっぷり。当てもなく彷徨っていると、すぐに迷子になる。ルナは日本の中学校に上がるまではこの街で過ごしているのでそこそこ土地勘はあるが、ヴィオには不慣れな街だ。椎は言うまでもない。迷子が増えるだけだ。ここは三人で聞き込みをする方が捗るだろう。
見渡す限りの白い外壁の建物と、ハッとするような青い空。陽射しの強い昼過ぎは、あまり外出をしない。知人の家に出向き直接聞き込みをしなければならないだろう。時間はかかるが仕方がない。
静かな路地を歩き、建物の間の細い階段を上り、また路地を歩くと、ルナの家から一番近い友人の家が現れる。
家の前で立ち止まると、椎はきょろきょろと辺りを見渡す。まるで景色を目に焼き付けようとしているかのように。
呼び鈴を鳴らすとすぐにドアが開いた。長身の少年が三人を見下ろす。宰緒も長身だが、この少年はすらりと背が高い。色白の肌に、金髪碧眼。絵に描いたような美少年だ。
「久しぶり、ロレン」
「久しぶり!」
ルナとヴィオが挨拶をすると、ロレンは柔らかく微笑んだ。
「お久しぶりです。元気でしたか? それと……そちらの方は」
丁寧な口調で話すロレンは、ルナ達より二つ年上だ。寡黙で物静かで、その所為か人付き合いが苦手だが、この街に来れば必ず挨拶に行く仲だ。
ロレンの視線の先にいる椎を紹介し、灰音のことを訊いてみる。ロレンは静かに首を振り、椎は落胆するが、「見つかるといいですね」と微笑まれると、慌てたように笑顔を返した。どの世界でも美は通じるらしい。
その椎の視線が下がり、ロレンの後方を捉える。彼の陰に隠れているが、誰かいる。こちらの様子を窺っている。
「えっと……」
ルナとヴィオもロレンの後ろにいる人影に気づく。恐る恐る上目遣いに見上げてくるロレンと同じ金髪碧眼の少女。
「リタ」
「あ、リタちゃん! 元気だった?」
「!」
声を掛けられ、一度は隠れてしまうが、また恐る恐る顔を出す。腕には不安そうにクマのぬいぐるみを抱いている。ロレンの妹だ。兄が美少年なら、妹も美少女。華やかな人形のような整った顔で、困ったように三人を見詰めている。人見知りな性格なので、初対面の椎がいるためいつもより兄の後ろに隠れて出てこない。
「リタ?」
隠れて出てこないリタが気になるのか椎は首を傾け、覗き込むようにロレンの背を見る。
「嫌われちゃったかな?」
「いきなり嫌われてはないと思うけど……初対面だし変な恰好だし、怖いのかも」
「えっ、変!?」
うっかり口が滑った。椎はリタからルナに視線を移し、自分の恰好を見下ろす。
「変かなぁ……気に入ってるんだけど……」
向こうの世界とやらではあまり目立つ恰好はしないと言っていたが、十人いれば十人が振り向くような恰好ではないのかもしれない。だがこっちの世界でははっきり言って変だ。もう少し未来になれば変ではなくなるかもしれないが、今は変だ。
自分の恰好とリタを交互に見、こちらも困ったようにルナを見上げる。
「私がいなかったら、リタ出てきてくれる?」
「いや……大差ないかも……」
ルナとヴィオでは、リタを兄の背から引き剥がすことはできない。声を掛けると一度は脅えて引っ込むがまた顔を出してくれるし、反応も返してくれるし、今のように半分しか顔を出してくれないこともなく、両目が見える程度には顔を出してくれるが、完全に全身を拝むことは難しい。
「リタちゃんは今日も可愛いね。これあげる」
にこやかに笑い、落ち込む椎とルナの横でヴィオはしゃがんでリタと目線を合わせ、ポケットからチョコレートを取り出した。この夏の暑い日にポケットにチョコレートを入れておけば溶けているだろうが、そこまで頭が回っていない。小さなリタもわかっていないのか、逡巡した後恐る恐る手を伸ばしている。リタは甘いお菓子が好きなので、差し出すとこうして手を伸ばしてくれる。だが今日は椎がいる所為か、兄の背から完全には出てきてくれなかった。
「あー……いつもなら出てきてくれるんだけどなぁ、残念」
「餌付けか」
華奢な小さい手がそっとチョコレートを掴み、引き寄せていった。チョコレートを握り、恥ずかしがりながら上目遣いで軽く頭を下げる。美少女も世界共通だと思う。
ロレンとリタといると、その独特な空気で、穏やかな気持ちになれる気がする。これが癒し系というやつか。
灰音の手掛りは掴めなかったが、まだ一軒目だ。そんなに簡単に見つからないだろう、この迷宮では。
「次はアンジェの家が近いか?」
「そうだな。行ってみるか」
「アンジェ?」
「うん。アンジェはよく外に遊びに行ってるみたいだし、もしかしたら目撃情報が得られるかも」
「ほんと!? 早くアンジェに会いたい!」
アンジェは一つ年下の女の子。ロレンとリタとは正反対と言ってもいいかもしれない。快活な女の子だ。目撃情報が得られる可能性はあるが、よく外に遊びに行っているので、家に行ったところで捕まらないかもしれない。
だが、落ち込んでいた椎が元気になったようなので、今はこれでいい。アンジェがいなかった時はどうするか、その時にまた考える。
似た景色が続く路地を横道を確認しながら歩き、角を曲がったところで初めて外を歩く人と遭遇した。
「あっ……」
「黒……」
現れた人物は、銀髪に黒っぽいコートを着た少年。ルナとヴィオには見知った顔だった。しかしこの暑いのにコートを着ているのは、やはり暑苦しい。宰緒のように理由は聞いたことがないが、この少年もまた夏でもお構いなしにいつでもコートだ。
突如現れた見知った二つの顔と見知らぬ顔に、少年は鋭い瞳を薄く細める。声を掛けようとした二人の声を最後まで聞かず、少年は姿勢を低くし、地面を蹴った。
「!?」
一直線に向かったのは、椎のいる方だ。椎の目が大きく見開かれる。青い瞳に、少年がナイフを握るのが映った。
突然の奇襲にルナとヴィオも反応が遅れる。少年は確かに変わったところはあるが、誰かを傷つけようとする人間ではなかった。
「おい!」
「きゃああああ!!」
一直線にナイフの鋒が椎に向かう。椎の話によれば彼女は戦場で暮らしていたようだが、護身の術は持っていないようだ。少年の見開いた目は、本気の目だった。本気で刺すつもりだ。
このままでは、椎が――
「やめなさい!!」
「!」
静かな路地に、一つの声がすっと通った。同時に少年の動きがぴたりと止まる。ハッとしたような目をした後、ナイフを地面に落とし、安心したのも束の間、再び地面を蹴った。
「!!」
速い。少年は慣れた手つきで椎の腕を掴み捩り上げ背に回し、足を払って俯せに組み伏せた。
「なっ……」
口を挟む暇もない。鮮やかな捌き。
少年は椎に乗り、背に膝を当て、長い髪を払う。そこに露になった首に取り付けられた輪。それに手を掛ける。
「いやあああああああ!!」
「椎!?」
目に涙を浮かべ、今まで聞いたことのない悲痛な叫びを上げる。必死に逃れようと身を捩るが、少年から逃げられない。
「やだぁ!! 殺さないで!! 灰音をっ、見つけないといけないのっ!! 放して!!」
徒事ではない訴え。あの首輪がないと向こうの世界では生きられないと椎は言っていたが、どちらの世界にいようと、外せば死んでしまうような代物なのか? 取り乱し方が尋常ではない。
「黙れ」
制止の声を出す前に、少年は低く一声、そして首輪に触れる手元からカチリと音がした。
同時に椎の動きがぱたりと止まる。声一つ上げない。ぴくりとも動かない。まさか……死んだ?
「お、おい、何を……したんだ? もしかして、死ん……」
少年は、動かなくなった椎から立ち上がり、冷たい目で見下ろす。
「気を失っただけだ」
死んでいないとわかり、ひとまず安心する。
少女を一人気絶させておきながら、少年は眉一つ動かさず、落としたナイフを拾い上げ仕舞う。
「その女を僕の家まで運べ」
「は?」
気絶させておきながら、介抱するのか?
「事情は後で話しっ」
言葉の途中で、少年は後ろから頭を叩かれた。
「あ……」
先程、少年に制止の声を投げた人物だ。金髪を弛く二つに束ねた勝ち気な目をした少女。
「アンジェ……」
「何女の子に乱暴なことしてるの? 私が通りかからなかったら、ナイフでこの人を刺してたの? だったら君も刺すわよ、私が」
アンジェの鋭い言葉に、ルナとヴィオが唾を呑む。当の少年は動じていないのに。
物騒な発言をした後、アンジェはルナとヴィオに向き直り、にこりと笑顔を作る。
「やあ、久しぶりだね、ルナ、ヴィオ。私も一緒に事情ってやつを聞いてもいいかな」
アンジェが捕まったのはいいが、少々面倒なことになってしまった。
路地を奥へ進み、他の建物の陰になっている小さな家。そこが彼の家だ。
彼はこの街に来てから、ここで一人で暮らしている。ここに来る前のことは、誰も知らない。六年前、倒れていた彼をアンジェが拾ったのだが、それ以前のことは記憶がないとかで何も聞いたことがない。
こぢんまりとした家の中へ入り、少年は四人に椅子に座るよう促す。
「起きてるだろう? この世界で、あの程度で、それほどの影響はない」
ルナに背負われていた椎は、恐る恐るゆっくりと目を開いた。
「椎! よかった、その首輪」
ほっと胸を撫で下ろすルナを、手で制す。
「座れ」
「……」
ルナ達が言われるまま座ると、椎も警戒しながら席につく。
少年から目を逸らし首輪に手を掛けると、少年は再びくるりと慣れた手つきでナイフを取り出し、椎に向けた。
「黒葉!」
三人は口々に少年の名前を呼び、制止の声を投げる。だが名前を呼ばれた少年は眉一つ動かさない。
「首輪の電源を入れるな。殺すぞ」
「!」
黒葉の恫喝に、椎は反射的に首輪から手を離す。アンジェは眉を顰めるが、ルナとヴィオはハッとした。
「黒葉……お前、この首輪のこと知ってるのか……?」
こちらの世界にはない、向こうの世界の首輪。それを黒葉は知っている? 本当に知っているのなら、黒葉も椎のような向こうの世界から来た者と接触したことがあるのか、あるいは――
「既にそこの女から聞いてるのか。なら話は早い。――いや、できることなら、黙っていたかったんだが」
黒葉はすぅっと目を細め、溜息を吐くように言葉を吐き出した。
「僕も違界から来た」
三人は目を見開く。黒葉の頭にはヘッドセットはなく、首輪もつけていない。これは外しても問題ないのか? それに、そんな話は聞いたことがなかった。アンジェだけは言葉の意味が呑み込めず、皆の顔を順に見回しているが。
「え……いや、黒葉……え? 違界?」
「向こうの世界、とかいうやつか……? 本当なのか? 本当に、向こうの世界ってやつがある……のか?」
半信半疑で話を合わせていたが、本当に、そんな世界が? だが黒葉が嘘を吐くとも思えない。冗談なんて言えない奴なのに。
「え? 私の話、信じてなかったの?」
椎は慌てたように首を傾ぐが、弁解している余裕はない。
「黒葉は……ヘッドセットも首輪もつけてないのに?」
ルナの疑問に、話についていけずおとなしく黙っていたアンジェが、ぴくりと反応した。
「どうしてルナがヘッドセットと首輪のこと知ってるの?」
「え?」
「は? アンジェこそ、何で……」
今度はルナとヴィオがアンジェを見る。つい先程椎と出会ったばかりのアンジェが、何故それを知っているのか。先程まで何も知らないような顔をしていたのに。
アンジェは黒葉を一瞥し、口を開く。
「倒れてる黒葉を拾った時。ヘッドセットと首輪をつけてたの。邪魔だったから勝手に外したんだけど」
「……ってことは、黒葉も……」
皆の視線が黒葉に集中する。黒葉は、何故僕の話になるんだ、と思いながら、椅子に座った。長い話になるかもしれない。
「ルナとヴィオが何処まで話を聞いたかは知らないが、できれば関わってほしくなかった」
黒葉は静かに目を伏せる。
「そこの女と僕がいた世界は、こちらの世界のもう一つの姿だ」
「もう一つの姿……?」
「鏡に映った世界。だが別の運命を歩んだ世界。別の空間に存在しているが、繋がることのできる世界。こちらの青空は違界では灰色に澱み、こちらの害のない空気は違界では塵が蔓延し有害電波が飛び交う。それを遮断するのが、ヘッドセットと、信号を送る首輪だ。この二つがないと、違界では数日で死ぬ。詳しい説明は省くが、違界は疑心暗鬼に染まり、殺される前に殺せという強迫観念によって毎日争いが起こっている。廃墟と瓦礫だらけの荒廃した世界だ」
断片的だった椎の説明が、繋がった気がした。俄には信じがたいが、別々に話を聞いた二人が同じことを言っているのだ。信憑性は高まる。
「こちらの世界の存在を違界の者全員が知っているわけではないが、噂としては知っている者も多い。信じない者の方が圧倒的に多いが。こちらの世界の存在を信じる者は、技師に大金を積み、空間転送装置を造ってもらう。技師もこちらの世界を信じていないと話にならないがな。それで大金と技師に恵まれれば、違界を捨てこちらの世界に逃げてこられる、というわけだ。僕や、その女のようにな」
黒葉に目を向けられると、椎は隣に座るルナの陰に隠れるように身を寄せた。一度目を逸らした後、意を決したようにまっすぐ黒葉を見据える。
「じゃあ私とあなたは同じってことでしょ? 何で……あんな乱暴なこと……」
「お前と僕は同じかもしれない。だが、同じではない者もいる」
「え?」
「その首輪の電源が入っていれば、そこから出る電波で居場所がわかる」
「うん……居場所がわかっちゃいけないの? わからないと灰音も困る……」
椎の言葉に、黒葉は初めて眉を寄せる。
「仲間とこの世界に来たのか?」
「灰音。逸れちゃったから、捜してるの。でも、灰音の電波、キャッチできなくなった」
「そうか。仲間の方が利口だな。この世界に来る者が皆お前のような平和ボケした者ではないということを、覚えておけ」
灰音と同じこと言われた……と椎は少しむくれる。自分では平和ボケの自覚はない。
「とにかく、今後一切、首輪の電源を入れるな。この世界で平和に暮らしたいなら、な」
こちらの説明は一通り終わったようだ。ルナとヴィオとアンジェは、じっと黒葉を見る。すぐに全てを信じるのは難しい。
「はーい、質問」
手を上げたのはアンジェだ。彼女は椎の語った説明は聞いていないので、今の黒葉の言葉だけで、信じるか信じないか判断しなければならない。
「殺される前に殺せなんていう物騒な世界で、黒葉はどうやって生きてたの? 私が拾った時、まだ十歳だったでしょ?」
アンジェは黒葉の言葉を信じるようだ。アンジェと黒葉が出会った時のことはルナとヴィオは詳しくは知らないが、こんなに簡単に信じてしまうほど信用しているのか。
愚直なことを聞くな、と黒葉は溜息混じりに呟く。確かにアンジェの言葉では、人を殺したことがありますか? と訊いているようなものだ。
「そんなことが聞きたいのか?」
「だって私、黒葉のこと何も知らないもの。記憶がないとか嘘ついてたし。嘘だって気づいてたけど」
「……」
アンジェは勘が鋭い。下手な嘘では誤魔化せない。だが嘘だとわかった上で、空気を読む。訊かれたくないことだ、と察すると、嘘をそのまま信じたフリをする。もしかしたら今の黒葉の説明も、信じたフリをしているだけなのか……?
「……僕に肉親はいない。技師に拾われ育てられた。その技師にこちらの世界に逃がされた」
時々、黒葉はアンジェに弱味でも握られているのか? と思うほど、素直に答える。弱味なら知りたい、とルナとヴィオは思う。
「結果だけ言う。違界では、殺さなければ殺される」
「へぇ」
冷ややかに揺れる黒葉の目を、アンジェは目を細め見上げる。動じた様子はない。
黒葉は即ち、殺したことがある、と。その言葉に異議を唱えたのは、椎だった。
「私は誰も殺したことなんてない」
「それはお前が守られてたんだろう。誰かに」
「っ!」
「その誰かはお前の代わりに殺している」
冷ややかな言葉。凍えそうなほどに。椎の目が不安定に揺れる。
「わっ、私だって、誰かを守れる! 殺さなくたって、守れる!」
「?」
叫ぶように放ち、勢いよく立ち上がる。さすがに様子がおかしいと四人は怪訝な顔で椎を見上げた。
「……ああ、もうこんな時間か」
固まった空気が、黒葉の声で弛緩する。時刻はすっかり夕刻を告げていた。
「えっ、あ……晩ご飯作らないと」
「私も買い物の途中だった」
口々に言い立ち上がるルナとアンジェに釣られて、ヴィオも立ち上がる。椎はまだ浮かない表情をしているが、黒葉から引き離せば少しは表情が戻るだろう。
「今日はルナがご飯作るの? 私も食べに行こっかなー」
「構わないけど、買い物の途中なんだろ?」
「ん? いいのいいの。急ぎじゃないし」
祖父母の帰りが遅くなるのなら、留守番をしている宰緒の夕食を作ってやらなければと思い口にしたのだが、アンジェが釣れた。まあ一人増えても問題はないだろう。……いや、椎とヴィオの分も作らなければならないのか。
「それじゃあ黒葉、また」
「なあ、それならここで皆で食べようぜ!」
家を出ようとしたそれぞれの足がぴたりと固まる。椎と黒葉を引き離そうと急ぎ足で出ようと思っていたルナとアンジェが、じっとりとヴィオを見る。ヴィオは状況が読めていないようで、オレ何か悪いこと言った!? と目が泳いでいる。
こちらは状況が読めているだろう黒葉に追い出してもらうのがいいかと二人は黒葉を見るが、状況が読めて猶「構わないが」とヴィオの案に乗ってきた。その言葉にヴィオは助かったと胸を撫で下ろすが、黒葉はヴィオに助け船を出すような奴じゃない。単に自分が料理をするのが億劫なだけだ。宰緒のような面倒臭がりではないが、どうも料理は苦手らしい。
「どうする……?」
アンジェの方を見ると、彼女は少し考えた後「いいわ、ここでいい」と二人に乗った。ルナは先が思い遣られたが、アンジェにも考えはあったようだ。
「私とルナがキッチンを預かるから、黒葉と……えーと?」
そういえばまだ紹介をしていなかった。椎の名前を教えてやる。
「じゃあ、黒葉と椎とヴィオはここで待っててね」
黒葉と椎の張り詰めた空気の中にヴィオを放り込む気だ。さすがにそこまですれば状況がわかるだろうが、ヴィオには少々可哀相な展開になった。
「わかった! 待ってる」
当のヴィオはまだ険悪なこの状況に気づいていない。鈍感というか何というか。
「食材は好きに使ってくれていい」
苦手だが、料理ができないわけではないのだが、黒葉に手伝う気は更々ない。
椎のことは少し気掛りではあるが、黒葉もさすがにもう危害を加えることはしないだろう。いざという時はヴィオがキッチンに逃げ込んでくるだろうし、逃げ込んできた時にすぐに駆けつければいい。
「ルナのイタリア料理も好きだけど、久しぶりに和食食べたいな~」
「じゃあイタリア料理はアンジェに任せて、俺は何か和食作るよ。黒葉いるし、出汁巻き卵かな」
「好きだよね、黒葉」
キッチンの台の上に食材と道具を用意しながら、他愛なく笑う。
「リクエストあれば聞くよ、ルナ」
「こっち来たからにはやっぱオレッキエッテかな。アンジェは?」
「了解。んー、何て言ったっけ、えーと、天麩羅? あれ食べたい」
「わかった」
「椎は何が好きかな?」
ふとした話の流れだった。だが、言葉が詰まる。
「さあ……あいつ何も食べてない気がするんだよな……」
「こっちの世界と違界じゃ食べ物が違うのかも、ね」
そうか、食生活の違い。こちらの世界も国によって様々な違いがあるように、違界もまたこちらとは違う食文化があるのかもしれない。
だが実際の違界の食生活は、想像を大きく裏切られるものだった。
食卓にルナとアンジェの作った料理が並ぶと、椎は一つのアルミのようなボトルを取り出した。飲み物か? と思ったが、それを徐に首の後ろへ持っていく。
「やめろ」
制止の声を掛けたのは黒葉だった。椎の手がびくりと止まる。
「それは首輪の電源を入れないと摂取できないだろう」
「……」
椎は何も言わない。考えているのかもしれない。電源を入れるのか、黒葉の言葉を信じて電源を入れないのか。
「そのボトル、何?」
見守るルナとヴィオの心中を代弁し、アンジェは椎の持つボトルを指差す。椎は何も言わない。代わりに黒葉が口を開く。
「あれは違界の食糧だ。首輪の後部に突き刺し、栄養を補給する。同時にヘッドセットに信号が送られ、脳を刺激し満腹感を与え、短時間で食事が完了する。食事には隙が生まれるからな、違界では効率のいい方法だ」
「食事って……何も食べないのか?」
車の中で菓子を受け取らなかった椎を見ているので、まさかとヴィオは身を乗り出す。
「食べない。違界では滅多なことでは口に物は入れない。それに、違界で口にできる食べ物なんか、殆ど存在しない。脳を刺激して錯覚させてるだけにすぎない故、本当の満腹状態にはならないが。僕もこちらの食事に慣れるのは苦労した。だが首輪の電源を入れられない以上、こちらの食事方法で生きていくしかない」
「何か……思った以上に凄絶な世界だな、違界って……。食事の隙とか……」
椎が何も口に入れていない理由に合点が行く。ヴィオは座り直し、言葉を噛み締める。そんな凄絶な世界にいた椎と黒葉。生きるか死ぬか、安寧などない日々。そんな毎日ばかり続くのなら、平和な世界に逃げるのも当然だろう。
「……」
椎は黒葉の何もついていない首を見る。こちらの世界の食事の仕方なんてわからない。黒葉が苦労したというのも、わかる。だが本当に信じていいのか? 椎は椅子を蹴り立ち上がり、前に置かれたフォークを握り締め、オレッキエッテを突き刺した。それを黒葉に突きつける。
「食べて! 本当に食べられるのか見てあげる。それから、あなたの首輪とヘッドセットを見せて! 持ってこられたら、信じる」
「単なる平和ボケではないようだな。いいだろう」
かたりと席を立ち、突き出されたオレッキエッテをそっと口に含む。フォークに唇が触れると、椎が微かに震えているのがわかった。視線を合わせると、ぎゅっと唇を結んだ椎に睨まれるように見詰められる。
咀嚼し、飲み込む。
「食べたぞ。仕方ないから首輪とヘッドセットを持ってきてやる」
踵を返そうとすると、椎は慌てたように呼び止めた。
「待って! 本当に食べたか見る。口開けて」
「……」
面倒な女だ、と思いながらも、黒葉は言われた通り口を開ける。その様子を三人は黙って見守る。ルナとヴィオは、黒葉がアンジェ以外の奴に素直だ……もしかして女に弱いのか? と疑惑を生み出していた。
「……ない」
確認を終えた椎はぽつりと呟く。
「何処にやったの」
「噛んで飲み込んだ」
「手品か……」
大真面目な顔で大ボケを噛ました椎に、黒葉はさっさと踵を返す。
椎も椅子に座りフォークを置く。先の尖ったフォークを見下ろし、独り言のように呟いた。
「こんな尖ったものに無防備に口を開けるなんて信じられない……こんなの、喉を一突きしたら死んじゃうのに」
椎は誰も殺したことがないと言っていたが、武器も持ったことがないのではないだろうか。それでも今までずっと違界の空気の中にいた。殺し方は知っているのだろう。
「椎」
脅え俯く椎に声を掛けたのは、アンジェだった。呼ばれた椎は顔を上げ彼女を見る。
「それは、黒葉が君を信じてくれたってことじゃないかな。黒葉だって元は違界にいたんだ、鋭利なものの怖さは知ってるはず。それでも君を信じた。だから今度は君が黒葉を信じてあげてほしい」
「アンジェ……」
天使のように微笑むアンジェに、椎は心が安らぐのを感じた。そんな椎の心の状態を読み取り、アンジェはほっとする。同時に、黒葉があんな無防備に口を開けるなんてない、あれは、突き刺されそうになっても避けられる自信があったからだ、と思う。この中では黒葉のことを一番知っているのはアンジェだろう。だからなのか、アンジェは黒葉を信じてやりたいと思っているし、味方になってあげたいと思う。違界のことは初耳だが、黒葉にはずっと違和感はあった。私達とは何かが違う、と思っていた。それが何なのかは、今わかった。今まで話してくれなかったのは、無闇に不安にさせないためだったのだろう。違界のことを忘れたかったのかもしれない。だが――黒葉はまだ、首輪とヘッドセットを捨てずに持っている。もう戻らなくてもいい世界で必要なものを、まだ持っている。そこにまた新たな違和感を覚える。
少しの沈黙の後、黒葉は細い首輪とヘッドセットを持って現れた。四人は身を乗り出すように覗き込む。椎のつけているものとデザインは異なるが、椎のものと同じ役割を果たすものだとわかった。
そして、もう一つ。アンジェにだけ引っ掛かるものがあった。この中でアンジェだけは、六年前のこれらを見ている。精神が揺れるのがわかった。黒葉に感じた違和感がわかった気がした。
首輪とヘッドセットのサイズが、十歳の彼のものではなくなっていた。
これは明らかに、今の十五歳のサイズに直されている。もう必要ないはずなのに。
(黒葉は……逃がされただけで、逃げたわけじゃないんだ!)
黒葉は殺伐とした世界に、帰ろうとしている。アンジェは自分の勘が外れていることを願うが、同時に自分の勘の良さを恨んだ。