序章/第一章『拾』
2013年に書いたものなので、作中もその年です。
ゆるく たのしく 鬱くしく
【序章】
土煙と有害電波が舞う世界。
崩壊した、世界。
その世界を統治する最上機関である政府が導入した思考共有システムは、相手の思考が手に取るようにわかるという代物だった。嘘を吐いても本心は透けて見え、真実しか吐けない。相手が嬉しいなら共に喜び、悲しいなら慰め、危害を加える可能性があるなら即座に対処できる。相手の感情が透けて見えることで、安寧を手に入れた。
だがその安寧は実に不安定で、相手の思考が全てわかってしまうこと、真実しか話せないということの恐ろしさが徐々に滲み出てくる。
一切の秘密が持てなくなり、全てのものが共有され知識の奪い合いが起こった。一人が考案した新しい考えが周囲に筒抜け。独占はよくないと、まるで追剥のように奪われた。
見兼ねた政府はシステム導入から五十年後、今度はシステムの全てを廃止。システムのない時代へと戻した。しかし、今生きている若い者達は、システムのなかった時代を知らない。そのため、相手のことが全く理解できなくなってしまったことで人々は疑心暗鬼に陥り、何も信じられなくなった。精神は病み、今日明日にも誰かが自分を憎み殺しに来るのではないかと脅えるようになった。
殺される前に殺せ。人々は殺すための力を求め、それまで高度に発達していた世界は荒廃した。
そして政府は世界の惨状を嘆き、切り離した。
それから三十五年後――今でも連日、世界の何処かで争いが起こっている。
システム撤廃から三十五年の間に生まれた子供達は、システムに翻弄され生きた大人達に人の恐ろしさを教え込まれ、同じように脅える生活を強いられている。
瓦礫と廃墟ばかりになってしまった世界。外に出ると殺される危険があるため、人々は物陰に隠れ脅えて暮らしていた。政府の思い通りにならなかった人々は、政府に見捨てられてしまったのだ。いや、政府は最初から人々を見てはいなかった。
人々はこうして過酷な生活を強いられているのに、政府の人間は『城』と呼ばれる安全な場所でのうのうと暮らしている。助けなんてない。誰も助けてくれない。誰も信じられない世界で、一人で生きていくしか――ない。
空は塵に覆われ、濁り、澱み、誰かを殺すための機械だけが飛ぶ。
鳥すら空を飛ぼうとしない。
壊れた建物の物陰で、無造作に積まれた瓦礫の上、少女は建物の隙間から覗く灰色の空に手を伸ばした。その傍らには、一冊の汚れた絵本。
ゆらゆらと伸ばした手を見上げ、少女は長く淡い紫の髪を揺らし、小首を傾ぐ。少女の頭には似つかわしくない無骨なヘッドセット、首には細い首輪が嵌められている。この世界で生きていくために、なくてはならないもの。これがなければ、この世界ではすぐに死んでしまう。
少女の指の隙間を小型飛行機が飛んでいく。ずっと向こうにいてあんなに遠いのに、人々は脅える。
「ああ……私も空、飛びたいなぁ」
ぽつりと漏らし、青空のような目を細めた。
そんなのんびりした口調を叱咤するような、鋭い声が少女に突き刺さる。
「椎! ここはもう駄目だ! 逃げるぞ!」
椎と呼ばれた少女は、手を伸ばしたまま声の方を見る。少し年上の少女が、高い位置で結んだ髪を揺らしながら近付いてきた。
「灰音」
「空の見える所に行くなと言っただろ! ――いや、今はそれより、ここから離れることが――」
「待って」
腕を掴まれ瓦礫から下ろされた椎は、慌てて灰音の手を振り解く。
「絵本……」
「本より命の方が大事だろ!」
「あっ」
絵本に手を伸ばした椎を抱き上げ、灰音は走り出した。青い空と白い鳥の絵本。椎が憧れた鳥の姿が遠離る。
絵本なんかに構っている余裕はない。見つかれば殺されるこの世界で、後ろを振り向くなんてできない。その本が彼女にとってどれほど大切なものであっても。この世界に抗う術を持たない椎を守れるのは、私だけ。灰音は手に機関銃を持ち、椎を運ぶ。
「椎、あの本は諦めろ! 平和ボケしたお前にぴったりの世界で、いくらでも本を探せばいい!」
にやりと不敵に笑う灰音に、きょとんとする椎。
「え……? もしかして、完成したの?」
「ああ。あのジジイ、やりやがった。これでこのブッ壊れた世界にさよならできる。向こうの世界で平和に暮らせるぞ、椎!」
この壊れた世界の中で唯一と言っていい救いが、技師の存在だ。腕の良し悪しはあるが、良ければ、世界間の転送装置をも創り出せるという。向こうの世界がどんな世界かはよく知られていないが。
だが、錆びたドアを蹴り開けた先に待っていたのは、惨劇だった。
「!!」
ありったけの金を注ぎ込んで装置を造らせた技師の息は、絶えていた。
赤く血塗れになって地面に倒れている。それを見下ろす、斧を提げた数人の人間。皆、防毒マスクをつけているため顔はわからないが、背恰好から見て男だろう。
貴重な技師を殺したこいつらの目的は、ただの殺戮か、それとも装置を奪うことか。
「椎、先に向こうの世界へ行け。私はこいつらを片付けてから行く」
防毒マスク達から目を離さず、灰音はゆっくりと椎を地面に下ろした。椎にも状況はわかっているだろうに、彼女はあまり動じず、少し首を傾ぐだけ。
「どうして? 灰音と一緒に行きたい」
防毒マスク達がそれぞれ斧を構える。灰音は薄く目を細め、再び椎を担いだ。
「何処まで平和ボケしてんだ! お前がいても足手纏いにしかならないとわかれ!」
「灰音!?」
機関銃を振り回し、振り下ろされる斧を躱し、装置の中へ椎を放り込む。
「ちっ、座標が狂ってる! 修正してる暇はない、椎、受け身と覚悟だけしておけ!」
「えっ、は、灰音!」
先に技師から教わっていた操作を思い出しながら、扉を閉めた装置の覗き窓から椎の顔を見る。不安にさせないよう、安心させるよう、笑顔で。
「後から行くからな」
笑顔の後ろで、斧を振り上げる防毒マスクが見えた。
「灰音! 後ろっ……」
それが、椎が見た最後のこちらの世界だった。
【第一章 『拾』】
「あー、暑ぃ」
賑わう教室の窓際でぱたぱたと下敷きで扇ぎながら、目立つ緑色の目を後ろの席に向ける。
夏。カラッと晴れた青い空。容赦なく太陽が照りつける。日射しを遮るためにカーテンは閉めてあるが、窓際には熱気が残る。
今日も平和な学校。今日の終業式が終われば、明日から夏休みだ。
「冷房、もう少し強くするべきだな」
「いや、お前はまずコートを脱げ。暑苦しい」
後ろの席に座る彼は、年中コートを着てフードを被っている。夏は薄手のコートではあるが、コートは夏に着るものではない。身長が高いので圧迫感もある。ここは決して涼しい地方じゃない。日本の一番南にある県だ。暑くないはずがない。それでもコートを着てフードを被るのは、フードで世界を覆って一人の世界に籠るため。彼は休日は引き籠りをしている。
「嫌だ。それより青羽、ジュース買ってきて」
「行くわけないだろ、これから通知表渡されるんだし」
暑さで引き攣った笑いを浮かべながら、こちらはまともに半袖を着ている青羽は一旦下敷きを置いた。青羽は綺麗な緑色の目をしている。父親は日本人、母親がイタリア人の、ハーフ。この目は母から継いだものだ。
「そういや青羽、夏も行くの?」
「え? ああ……行く。毎年行ってるし。サクは?」
「じゃあオレも行く。毎年行ってるし」
毎年長期の休みには、青羽は母親の実家があるイタリアに滞在する。一人の時間が欲しいサク――久慈道宰緒は、いつも青羽についてイタリアへ行く。宰緒は実家が東京にあり、こちらでは知人の家に厄介になっているが、長期休暇と言っても東京に帰りはしない。親の顔を見るのは面倒なのだそうだ。青羽と宰緒の出会いは中学に上がった時、青羽はイタリアから、宰緒は東京からこちらに越してきた時だが、その越してきた理由が、親が面倒臭い、というものだった。
「面倒くせぇなぁ、通知表とかいらねーだろ」
つまり、まあ、宰緒は面倒臭がりだ。
「学力に数字つけて何になんの? それで何か良いことあんの? 何をそんなに騒ぐんだよ」
こう言っている宰緒の通知表を見ると、きっと誰もが驚くんだろう。五教科パーフェクト。高校に上がって初めての通知表を貰う今日も、変わらずパーフェクトを見せつけてくれるのだろう。同じ高校一年生とは思えない。
賑やかに騒いでいた生徒達が席につくと、教卓の上に通知表が積まれているのがよく見えた。教卓の上を見て、生徒達はまだ私語を止めないが、教師は通知表を渡すために名前を呼び始める。最初に呼ばれるのは、いつも同じ。この名前を呼ばれる瞬間が、嫌いだ。何故なら。
「青羽ルナ」
自分の名前が、好きではない。
「お前の名前、やっぱ何度聞いても面白いわ。アイドルみてぇ」
「うるさい」
こんな名前だが、歴とした男だ。
笑いを殺そうと肩を震わせている宰緒を一瞥し、もう慣れてしまった青羽ルナは一言だけ言って教卓に向かった。何も変わらない、何もない日常。
* * *
夏休みが始まり数日後、ルナと宰緒はルナの両親と共にイタリアに飛んだ。荷物はいつも最小限。イタリアの実家の方に大抵のものは揃っているからだ。
ルナの母親の実家があるのは南だ。出身は北らしいが、後に南に越したと聞いた。南イタリアの白い街に実家がある。その実家にまず荷物を置いてから、先に近くの街の親戚の家に数日泊まるのだが、面倒臭がりな宰緒は実家にずっと引き籠る。ルナと両親は宰緒を残して親戚のいる街に行く。これが常だ。
綺麗に晴れた青い空に、照りつける日射しが建物の白い外壁に反射して眩しい。親戚の住んでいる街は切り立った崖の上にあるので、美しい海も一望できる。夏は海水浴客で賑わう街だ。
「ルナー! ジュース買ってきたー」
「おー、ありがと」
建物の間に続く道がぱたりと途切れる崖の上から海を眺めていたルナは、後ろから放り投げられた缶飲料を受け取る。
ルナが日本に越したのは日本の中学校に上がる時。それまではイタリアに住んでおり、この街の親戚の家にもよく遊びに行った。日本の中学校に上がるまではずっとイタリアにいたので、イタリア語は話せる。その時にできた友達もいる。ジュースを買ってきてくれた――正確には買いに行ってもらったのだが――彼の名前は、フルヴィオ・カルディ。ルナと宰緒と同じ歳の、元気だけが取り柄の少年。彼は生まれも育ちもこの南イタリアだが、ルナから教わり少しだけ日本語も話せる。
「ヴィオ……お前、また」
缶飲料に手を掛け、ルナはふと手を止める。缶の中身は炭酸飲料、それを先刻、ヴィオは走って振り回しながら帰ってきた。今開けると中身が勢いよく噴出することだろう。ヴィオは理解が及んでいないのか「?」目をぱちぱちと瞬いている。
そんなヴィオの顔の前に、ルナは缶飲料のプルタブを向けた。
「炭酸振り回してきただろ!」
にやりと笑い、ルナは一気にプルタブを起こした。
「!? うっ、わああああ!?」
勢いよく噴出した炭酸飲料が、ヴィオの顔面に飛び掛かった。
「冷たっ!? うっわベタベタする! ルナひどい!」
「夏だし、そのまま海に飛び込んでみるか?」
「ここから!? さすがに死んじゃう!」
「くく、ほら、タオル」
「……ルナ笑いすぎ」
顔をジュース塗れにしたヴィオは、放り投げられたタオルをありがたく使わせてもらう。ルナは時々こんな突拍子もないことをするが、いい奴だ、とヴィオは思う。タオル貸してくれたし。
一頻り笑った後、再び海へ視線を移すと、白い何かが視界に入った、海水浴客が崖の下まで泳いできたのだろうかと目を遣ると、どうも様子がおかしい。あれはまるで……
(……倒れてる?)
下の岩場で人が倒れているように見える。さすがにあんなごつごつとした岩場で寝る者はいないだろう。倒れているとすれば大変だ。今は波は穏やかだが、波に攫われる可能性もある。
「ヴィオ、ちょっと崖の下に行ってくる」
「うん? 泳ぐのか? 下に下りるなら、あっちの方が近いよ」
「泳がないけど、ありがと!」
タオルで顔を拭くことに忙しいヴィオはまだ崖の下の人影に気づいていないようだ。ルナはヴィオが指差した方へ走り、崖の下に下りる。ボートを出している海水浴客もいるが、岩場の人影には気づいていない。
崖の壁面にある細い階段を下りると、すぐに岩場に下りられる。あとは岩場を伝って先程見えた人影の方へ――
「女の子……?」
ごつごつとした黒い岩の上に、白い少女が俯せで倒れていた。長い髪と足が波に遊ばれている。
「おい、大丈夫か? 生きてるか?」
剥き出しの肩に触れると、海水で冷えたのか、冷たかった。だが、死体のような冷たさじゃない。と思う。
ゆっくりと体を横に向け、見たことのない淡い紫色の髪を払うと、陶器のような白い肌が現れ、あまりの白さに手を離しそうになる。
溺れたのだろうか? なら、水を飲んだ? 人工呼吸……? と脳裏を過ぎったが、よく見ると頭や体は濡れていない。熱中症でも起こして倒れたのかもしれない。
「おーい、ルナー! 何かあったのか?」
ジュースを拭き終えたらしいヴィオが、慣れた足取りで岩場を跳んできた。
「ヴィオ、お前の家に運んでいいか?」
「え? あ、女の子? 何この恰好……すげ」
「よくわかんねーけど、倒れてるんだから介抱してあげないと」
「ああ……うん、いいよオレん家。運ぶの手伝う」
見たことのない色の髪に無骨なヘッドセット、それにヒラヒラと細長い布がついた奇抜な服。得体の知れない少女だが、倒れているのにこのまま放っておくわけにはいかない。
気を失っている者を背負うのは一苦労だったが、ヴィオの手を借りつつ何とか背負い、手摺りも柵もない崖の階段をゆっくりと上がった。
切り立った崖の上にあるこの街は、石そのままの色の建物と白い外壁の建物が混在している。ルナの母親の実家がある街の方は、どれも白い外壁の建物だ。気温は日本と然程変わらないが、陽射しが強いため、外壁に白い石灰が塗ってあるのだ。細い路地が多くまるで迷路のようなので、こちらに住んでいた頃にルナもよく迷子になった。
今はこの街にも実家のある街にもすっかり慣れて迷子にはならなくなったが、知らない道はまだ多いだろう。少なくともこの街は、ヴィオの方が詳しい。
二人がかりとは言え、やはり人一人背負って階段を上るのは骨が折れる。階段を上りきり、一度背負い直す。
「ルナ大丈夫か?」
「ああ大丈――」
ふと海へ視線をやると、沖に人のようなシルエットが見えた。その顔に何か――赤い蝶のような模様が走った黒いマスクが張り付いて見える、気がする。
「どうした?」
「あれ……人か?」
舟やボートに乗っている様子はない。溺れているなら放ってはおけないが、何かがおかしい。
なぜ、海面に立っているように見える?
そう疑問に思った時にはもう、背後の壁に何かが穿たれていた。
背後を振り向くと、壁に幾つもの弾痕のようなものが――
「逃げるぞ!」
咄嗟に危険だと悟った。今、横を擦り抜けて壁に穿たれたものが銃弾だとしたら。沖に立つ影が撃ったものだとしたら。攻撃、されたのだとしたら。
「うわあああ!」
発砲音は聞こえない。消音しているのだろう。だが着弾の音と弾痕はわかる。
逃げるルナとヴィオを追うように弾痕が走る。追われている。
人を背負っている状態では、すぐに追いつかれるだろう。海が見えない路地に逃げ込まなければならない。
「ヴィオ、路地に!」
「お、おう!」
走る靴底に弾丸が掠りつつも、二人は雪崩れ込むように路地に飛び込んだ。
「なっ、ななな何だおい何なんだよ!? え? あれ何!?」
肩で息をしながら、ヴィオはがくがくとルナを揺する。
「おっ、落ち着けよ! 俺だって知らねぇよ!」
「殺されるのか? オレら殺されちまうのか?」
「そんなの、わかんないし……」
呼吸を整えながら、ルナは慎重に路地から顔を出す。攻撃は止んでいるようだ。
「ど、どうだ……?」
「……」
人影はまだ海面にある。だが攻撃はない。弾切れか?
身動きが取れず、息を呑み様子を窺う。たった数秒なのに、何十分もこうしているような感覚を覚える。無限に続くような。神経が削られる。
変化は、突然に起こった。
「?」
海面に立っていた人影が、とぷんと海中に落ちたのだ。いや、故意に潜ったのか? しばらく待っていても、顔を出す気配はない。そこには最初から何もいなかったかのように、穏やかな波が流れているだけだった。
「まさか……白昼夢?」
なわけないか。弾痕はしっかりと壁に残っている。
潜って泳いで岸に上がってくるのではないかと懸念もあったが、一向に上がってくる気配はない。杞憂、ということでいいのだろうか。
状況は全く理解できなかったが、当面の危機が去ったのなら、いつまでも路地に座り込んでいるわけにもいかない。
「大丈夫そうだし……行くか」
「何だったんだ?」
「さあ……」
いくら考えても答えは出なかった。気持ちが落ち着くと、背にかかる重みで少女の存在を思い出す。今は、この倒れていた少女を運ぶことに専念しよう。
海から離れ路地を抜けると、白ではなく石そのままの色をした建物が並ぶ。その中にヴィオの家はある。
「先に病院に行った方がいいかな?」
「そうだな……もう少し陽が落ちてから、まだ目を覚ましてなかったら連れていくか」
ヴィオはこくこくと頷き、ドアを開けてやる。ヴィオの家族は現在外出中だ。奇抜な恰好の少女は誰の目にも触れず、ヴィオの部屋のベッドに運ばれた。
「とりあえず、冷やしてみるか」
ベッドに寝かせた少女は、まだぴくりとも動かない。ヴィオは冷水でタオルを絞り、ルナに渡した。ひやりと冷たいタオルを額に載せても、まだ動かない。呼吸に乱れはないので、ただ寝ているだけだったりして……と思いつくほど、穏やかだ。
「ルナ、この子も心配だけど、少し時間あるか?」
「まあ、目が覚めるか陽が落ちるまでは、あるかな」
「じゃあ! ちょっと直してもらいたいものがあるんだけど!」
ヴィオはぱっと顔を明るくして、部屋の隅に置かれていたものを引っ張り出してきた。
「これな、上手く開かなくて」
ルナの前に出されたのは、折り畳まれた自転車だった。こんな路地が入り組んだ街では乗る機会はないが、折り畳み式なら場所もあまり取らないだろうと買ったらしい。実際どのくらい乗っているのかは知らないが。
「ん」
自転車を受け取り、がしゃがしゃと試しに開いてみる。確かにヴィオの言った通り、上手く開かない。
「何か道具とかいる?」
「いや……俺が持ってるやつで何とかなる。少し引っ掛かってるだけだ」
「そっか! やっぱルナはすげーな!」
ルナは幼い頃から機械や複雑な造形のものに興味を示し、家にある工具で解体できるものはよく解体し、よく周囲の大人達に怒られていた。ルナの親だけは、ルナはきっと将来凄いエンジニアになるんだと微笑ましく見守って、故障した家電などの修理の様子を見させたりした。その内にルナも、解体だけではなく修理することも覚え、今では自分で何かを作り出すまでになっている。そうして壊れたものがあればまずルナに見せる、というのが常になっていた。ルナも、いつ見せられてもある程度は大丈夫なように、少しの工具はいつも持ち歩いている。
がしゃがしゃと自転車を直すルナの手元をヴィオもじっと見るが、慣れた手つきを「凄い」と思うだけで、自分にはできそうにない。
「螺子が弛んでる所は直した」
「直った?」
「おう。ちゃんと開く」
「おー!」
ルナの手によって滑らかに開いた自転車に、歓声を上げる。
「おー」
そのヴィオの声に混ざることも消されることもなく、澄んだ声がすっと通った。
ルナでもヴィオでもない声に、二人は自転車から顔を上げ、声のした方――ベッドの上に同時に目を向けた。
「?」
そこには、いつの間に目を覚ましたのか、ベッドの上にちょこんと座りぱちぱちと目を瞬く少女の姿があった。同時に視線を向けられ、きょとんとしている。澄んだ青空のような瞳が、不思議そうに二人を見ている。
「え、えっ!? いつ起きた!? 気づかなかった!」
「俺も手元に集中してたから……」
顔色も良く思ったより元気そうな少女にほっと安心するが、それよりも今は驚きが勝ってしまっていた。
少女はふわりと微笑み、花片のような唇を開く。
「初めまして、私は椎。また技師の人に拾ってもらうなんて思わなかったなぁ」
のんびりとした口調に、今度はルナとヴィオが目を瞬く。
「技師……? えっと、もしかして俺のこと? 俺はそんなに凄い人じゃないよ」
自転車を直す様を見ていてそう思ったのかもしれない。だがルナは技師ではない。まだまだ趣味の範囲だし、特技の範囲だ。少女の「また」という言葉は気になったが、それよりもまず訊かなければならないことがある。
「椎……だっけ? 岩場に倒れてたんだけど、覚えてるか? 友達か家族か、誰かと逸れたのか?」
椎は再び目を瞬いた後、少し考えるように口を開く。
「……うん? 覚えてるのは、灰音がこっちの世界に転送してくれたこと、かな? 逸れたのは……灰音……」
「こっちの、世界?」
またわけのわからないことを言う。倒れた時に頭を打ったのかもしれない。
「灰音!」
「え!?」
だが椎という少女は、考える時間を与えてはくれないようだ。急に叫んだかと思えば勢いよくベッドの上に立ち上がり、困惑した顔できょろきょろと忙しなく部屋を見回す。
「灰音は後から来るって言った! 何処? 灰音、何処!?」
「お、落ち着けって! その、灰音? を捜すのは手伝ってやるから! な?」
「とりあえず土足でベッドの上には立たないでもらえると……」
そのままベッドに横たえたので、椎は靴を履きっぱなしだ。この暑い夏に、大腿部まであるブーツをぴっちりと履いている。本人には全く暑く感じないのか、涼しそうな顔をしているが。
「それとも私まだ転送されてないのかな……ねぇ、こっちの世界にしかないものって、何かある?」
今度は姿勢を低くしゃがんで、ルナの顔を覗き込む。『こっちの世界』というのは、何なのか?
「え、と……国外から来たってことか? ここはイタリアだけど……イタリアにしかないもの、か……椎は何処から来たんだ? 外の景色でも見てみるか?」
大きな青い瞳に見つめられ、思わず目を逸らす。ルナとヴィオは今イタリア語で会話しているが、椎もその言葉を理解しているようだった。理解してイタリア語で返している。
「イタリア? 聞いたことない。集落の名前?」
なのに、イタリアを知らないと言う。
二人の遣り取りを黙って見守るヴィオ。何となく会話は噛み合っているようだが、ヴィオはこの会話には入れそうにない、と思った。
「じゃあ、外の景色見てみたい」
「わかった。ヴィオはどうする? 外に出るか?」
会話には加われそうにないが、人捜しくらいなら手伝えるかもしれない。ヴィオはこくこくと頷いた。
バネの利いたベッドをぴょんと飛び降り、椎はルナに並んだ。見た目はルナ達と同じくらいの歳か。髪と目の色の所為か、人形のようにも見える。
椎の足取りは軽く、先程まで気を失っていた者とは思えない。特に体の不調も訴えないし、気を遣っているのか、本当にもう何ともないのか。
外に出るドアを開けて椎に目を遣ると、彼女は反射的に目を細め、空を見上げて大きく目を見開いた。
「ふわあああ! 凄い! 本当に青い! ねぇ、本物だよね!?」
驚きと喜びの混じった顔をルナに向け、石畳に一歩踏み出す。彼女は空を見たことがないのか?
「本物の空だよ。見たことないのか?」
「ううん。空は見たことあるよ。灰色の空。あっちの世界はずっと灰色で、こっちの世界は聞いてた通り、本当に絵本と同じ青でびっくりしちゃった」
「灰色? ずっと曇り空だったのか?」
「うーん……曇りって言うか、空気が澱んでた。塵や有害な電波が飛び交ってて……二人がヘッドセットをつけてないところを見ると、こっちの世界は安全なのかな?」
ルナとヴィオの頭を交互に見、椎は自分の頭に装着している無骨なヘッドセットに触れる。
もはや椎が何を言っているのか全くわからないが、暫く話を合わせることにした。
「それで、外を見て何かわかったか?」
「空が青い!」
「ああ、うん」
「だから、世界間転送は成功したってわかった!」
「ああ……うん?」
「私、この世界で飛びたい!」
「……」
「でもまずは、灰音を捜す!」
早くも会話に挫折しそうになる。噛み合っているのか? この会話は噛み合っているのか?
苦笑しながら話を聞いていると、ふと椎は手の甲を上に向け、こちらに差し出した。二の腕から手の甲まで布でぴっちりと覆われている。日焼け対策……ではない気がする。その手の甲にある黒い模様に、そっと指を添えると、ふわりと光が照射された。その光の中に、一人の少女の姿が浮かび上がる。
「ホロ、グラム……?」
「すげぇ……」
外はまだ日中で陽射しも強いこんな明るい中で、そのホログラムははっきりとそこに浮かび上がっていた。
「これが灰音だよ」
見たことのない赤っぽい髪を一つに束ねた少女。歳はルナ達より少し上だろうか。強気な目をしている。椎と同じように頭にヘッドセットをつけ、奇抜な恰好をしていた――と言うか、こちらは肌の露出が多い。腕には椎と同じように布を巻いているが、上半身は胸部を覆う布しか身につけていない。はっきり言って、目の遣り場に困る。あまり直視できるものではない。
「何て言うか……凄い恰好だな」
ヴィオは正直にぽつりと漏らした。
「灰音はこういうのが動きやすいんだって。私の恰好はね、胡蝶姫みたいになりたいなぁ、って思って」
「胡蝶……?」
聞けば聞くほど、知らない単語が増えていく。漫画の中の話か?
だが言葉はともかく、ホログラムは現実だ。不思議なホログラムに、ルナは興味をそそられていた。彼女達のつけているヘッドセットも、言葉で聞くよりもっと凄いものかもしれない。暫く椎と行動を共にするのも悪くない。
「どの辺りでその、灰音って人と逸れたか、わかるか?」
もしかすると、その灰音の方が、会話ができるかもしれない。椎では要領を得ないことが多すぎる。
「灰音は、あっちの世界で別れたの」
「あっちってどっちだよ……」
やはり、彼女の言葉は要領を得ない。
「それとね、もう一ついいかな?」
なぜかそわそわと辺りを見回す椎。
「何?」
「ここ、植物がたくさんあるね? 一つ貰っちゃ駄目かな?」
「は?」
また突拍子もないことを言ってきた。植物と言うのは、家々の壁際に置かれている植木鉢のことだろう。人の家のものは、勝手に貰っちゃ駄目だ。ヴィオの家には生憎、植木類はない。
「何するんだ? 人の家のものは勝手に取るなよ」
気に入った花でもあるのかと思ったが、返ってきた答えは、またよくわからないものだった。
「こんなに植物がたくさんあるってことは、こっちの世界じゃ珍しくないんだよね? 私のいた世界では植物なんて殆どなくて、とっても貴重なものなの。植物は政府の人がお金に換えてくれるからね、そのお金で装備を調えるの!」
「装備?」
「武器とか……。私はね、空を飛ぶためのものを」
とても物騒な単語が飛び出した気がしたが、あえて詮索しないことにした。聞かなかったことにしよう。
「植物をお金に換えるってことは、聞く限り良い所がなさそうな『向こうの世界』とやらに帰るんだな」
「え?」
きょとんとする椎。この噛み合っているのかいないのかわからない会話で初めて、上位に立った気がした。
「そっか、もう帰らないし、その言い方だと、こっちの世界では植物はお金に換えるものじゃないんだね? そっかぁ……じゃあどうやって空を飛ぶんだろ」
眉を下げ、しょんぼりする椎。
二人の遣り取りを聞いて、やっぱり会話には入っていけない、とヴィオは思った。
当てもなく街を歩き灰音を捜したが、あの目立つ恰好は見つけられなかった。転送前に別れたと言っていたので、まだこちらの世界に来ていない可能性も示唆してみたが、何か怖いものでも見たのか、脅えた表情を見せるだけだった。
椎の言葉を信じるなら、彼女のいた世界は空気が澱み、有害で、武器を装備しなければいけない世界。とても安全だとは言えない世界に灰音が取り残されているなら、不安にもなるだろう。二人で一緒に転送できなかったのは、一人ずつしか転送不可能だったのか――先に椎を、逃がしたのか。後者の場合、灰音が見つからなければ、生きていないかもしれない。
椎とルナは今日のところはヴィオの部屋に泊まらせてもらうことにした。ベッドは椎が一人で使い、男二人は床だ。ベッドの上では靴は脱いでくれとヴィオは訴えたが、椎はふるふると首を振って、土足でベッドに入った。聞けば、向こうの世界では滅多なことでは靴を脱がないらしい。瓦礫だらけで足場が悪いことと、いつでもすぐに逃げられるように、だそうだ。こっちの世界はそんなに危険じゃない、と言っても、ふるふると首を振るばかりだった。それより、いつでもすぐに逃げられるように、とは、椎は戦場にでもいたのか?
色々と話は聞かせてもらったが、彼女の謎は何一つわかった気がしなかった。やっぱり頭を打ったのかもしれない。
まだ人々が眠りについている時間、ルナは誰かに揺すられていることに気づいた。
「ん……」
眠い目を擦りながら、うっすらと目を開ける。
「椎……?」
ベッドから身を乗り出し、腕を伸ばしてルナの体を揺すっていた。椎は眠くないのか、大きな目をぱっちりと開けている。
「退屈だから外に行こう」
「え? 今何時だと……」
時計を見ると、早朝四時。眠いはずだ。
「眠れないのか? それとも早起きなのか……?」
「眠れないんじゃなくて、眠らないの」
「寝ろよ。俺は寝る。おやすみ」
「あっ」
再び目を閉じたルナに椎は小さく声を上げる。またゆさゆさと揺するが、今度は目を開けない。しばらく寝たふりをすれば、諦めるだろう。
――と思ったが。
「!?」
揺すって起こすのは諦めたのか、今度はルナの両足を掴んで引き摺ってきた。
「ちょっ、お前何してんだよ!?」
「外、行こ?」
横で寝ているヴィオを起こさないように小声で叫ぶが、小声ではいまいち効果がない。これは外に行くまで寝かせないつもりかもしれない。
「わかったよ! ちょっとだけだからな!?」
「えへへ、ありがとう」
邪気のない澄んだ笑みをする。
仕方なくルナは寝ているヴィオを跨いで外に出た。寝返りは打ったが、起きてはいないようだ。
外に出るとまだ空は暗く、星がよく見えた。青い空を見た時のように椎は空を見上げ、感嘆の声を漏らす。
「空にたくさん光ってるあれって、星って言うんだよね? 私、初めて見た! とっても綺麗! こっちの世界って凄いなぁ」
「なんだ、星が見たかったのか?」
「そうかもしれないけど、私が倒れてた場所に連れて行ってほしいなって思って」
「ああ……そういえば昼は行かなかったな」
まだ少し眠っている頭で、昼間のことを思い出す――そうだ、昼は変な人影に襲われたんだ。今またあの場所に行って大丈夫なのだろうか。
欠伸を一つし、ルナは暗い夜道を歩き出した。椎もその横に並び、歩く。ひらひら長い布を遊ばせながら歩く奇抜な姿の少女は、月明かりに照らされ、とても綺麗だった。陶器のような白い肌と、色素の薄い長い髪が、ぼんやりと輝いている。本当に、人形のような少女だった。
「なあ」
「なぁに?」
「灰音ってどんな人?」
ホログラムだと小さくてイメージが掴みにくかったが、灰音という少女も、実際目の前にいると椎のように人形のような美しさがあるのだろうか。
「灰音は……私のお姉さんみたいな人、かな。私も灰音も親はいなくて、でも灰音がいたから、私は今まで生きてこれたんじゃないかな。あ、もちろん、他の人達にも助けられたよ! 私、よく助けられるの!」
それだけ危なっかしいということか、椎は。
「灰音は怒ると怖いけど、優しいよ」
屈託もなく笑う。きっと本当に、優しい人なのだろう。椎の穏やかな笑顔を見ていると、そう思う。たとえお互いに親がいなくても、こんな笑顔ができるのだから。
細い路地を抜けると、椎が倒れていた岩場の上に出る。海が一望できる崖の上。ルナが座って海を眺めていた場所だ。あの時のように沖に異変はない。
「この下で椎が倒れてたんだよ」
「あ」
「?」
唐突に声を出し、椎はルナの顔を覗き込むように見た。吸い込まれそうなほど、澄んだ瞳。
「名前、まだ聞いてなかった。何て呼べばいい?」
「あ……」
そういえばまだ名前を言っていなかった。違う世界だろうと言葉は通じているようだが、通じているならまたルナの名前を聞いて笑われるかもしれない。でも、笑われるのはもう慣れた。
「青羽、ルナ」
「あおば、るな?」
椎はきょとんと首を傾ぐ。変わった名前、似合わない名前、アイドルみたいな名前……さあ椎は何て言う?
「その名前、何か意味がある?」
それは、初めての反応だった。
「私の名前は椎でしょ? 椎は、木の名前。植物は私達を生かしてくれる大事なものだから、ちゃんと大きな木みたいに大きくなれますようにって、つけてくれたの」
「そんな大層な意味はないと思うけど、あおばは青い羽って書く。ルナは月って意味だ」
暗い海を見ながら投げ遣りに言うと、椎はルナの前にぴょんと飛び出し、キラキラと目を輝かせた。予想外の反応に、今度はルナがきょとんとする番だ。
「素敵! 素敵な名前だね、ルナ! 空に手が届きそうな名前! 私の名前は木だから、地面に根を張って空に向かって枝を伸ばすしかできないけど、ルナは空を飛んで、空を掴めそう」
くるくると嬉しそうに月の下で回る椎。美しい容姿と相俟って、優美な舞いのようだった。奇抜な細長い布も、まるで踊り子のようだ。
そんな風に言われたのは初めてだった。綺麗な名前だ、とは言われたことがあるが、その名前の主が男だとわかると、少なからず笑いが起こった。こんなに純粋に、感嘆の声を貰ったのは初めてだった。何だかこそばゆいような、変な感じだ。
「私ね、鳥になりたいの。鳥みたいに空を飛びたいの。この服もね、向こうの世界では本当はこんなに目立つ服は着ないんだよ。すぐ見つかって狙われちゃうから。でも鳥の羽みたいでいいでしょ?」
そう言ってくるくると回ってみせる。狙われる、というのは、武器を装備するくらいの世界だ、殺されるとか物騒なことなのだろう。そんなどす黒い世界の中で椎は汚れず、こんなに綺麗に育ったのか。そのことに妙な感覚を覚える。
「私ね、少しだけなら飛べるんだよ。植物が足りなくてあんまり飛べないけど、少しだけ浮力を貰ったんだよ」
くるくると回っていた足を止め、椎は海を背にルナに微笑んだ。
「私ね、私を助けて殺された胡蝶姫みたいに、飛びたいの」
「あっ……!」
一瞬、見蕩れてしまった。月明かりに照らされる椎の柔らかな微笑に見蕩れて、反応が遅れてしまった。我に返り手を伸ばした時にはもう、椎の体は海へ飛んでいた。倒れたんじゃない、椎は自ら地面を蹴り、海へ身を投げ出したのだ。
「椎!!」
気の所為かもしれない。そうであってほしいと願っただけかもしれない。妙に滞空時間が長い気がした。本当に飛んでいたのかもしれない。だが、それを見定めている時間なんてなかった。すぐに、行動に移さなければ。
気づいた時にはルナも海へ向かって地面を蹴っていた。落ちる椎の手を掴むために。
大きな水柱が上がるのを、ヴィオは見ていた。ルナと椎が家を出ようとしていたことに気づいたヴィオは、こっそりと後をついて行ったのだ。いけないことかもしれないと思ったが、気になってしまったのだ。理解の及ばない椎について、何かあってはいけないと思ったのかもしれない。そして案の定、何かあった。海に落ちた。
ヴィオが慌てて崖の上から海を覗くと、ぽこんと頭が一つ上がった。暗い海に混ざってわかりにくいが、黒い頭はルナだ。その傍らにもう一つ、目立つ椎の頭が。二つの頭は砂浜の方に向かっていた。
「よかった、生きてる……」
ほっと胸を撫で下ろすが、まだ安心してはいけない。ヴィオは急いで路地に回り、砂浜に下りた。靴を脱ぎ、小石の転がる砂浜を走る。服が濡れるのも構わず、浅瀬を二つの頭の浮く方向へ走る。
「ルナ!」
「っ! ……げほっ、ヴィオ……? 何で」
「ごめん、気になってついてきた! 後からいくらでもジュース掛けていいから、ほら、手!」
「いや……俺にそんな趣味ないんだけど」
ヴィオの手を掴み、引っ張られながら浅瀬に立つ。椎は少し気を失っていたようだが、浅瀬を歩いている内に目を覚ました。
海から上がり、小石の転がる砂浜に倒れるように腰を下ろすと、息を整えながら最初にルナが口を開いた。
「椎……お前、馬鹿か?」
「! ばっ、馬鹿じゃないよ! 空は青いし、星は綺麗だし、飛べる気がしたの!」
「落ちただろ」
「っ! お、落ちたんじゃなくて、飛ばなかった、だけ……」
しゅんと顔を伏せる椎。ルナはまだ息を整えている最中で気づいていないが、ヴィオはふとある異変に気づいた。
「椎、何でもう乾いてるんだ?」
先程三人で海から上がり、ルナとヴィオはまだびっしょりと濡れているというのに、椎だけはカラッと乾いていた。まるで海には入っていなかったかのように。
「え? 当たり前のことでしょ……?」
何故そんなことを訊かれるのかわからない風に、椎は首を傾ぐ。二人の会話でルナも椎を見、眉を寄せた。確かに一滴の海水も残っていない。この短時間でそんなことは有り得るのか? 何もしていないのに。
一度は首を傾げた椎だが、すぐに何かに気づいたようでハッとした顔をする。
「この首輪とヘッドセットで、表面の水分を蒸発させてるの。全身に薄い膜が張られていて……えーと、私は技師じゃないから詳しくは知らないんだけど……」
申し訳なさそうに苦笑する。
「ヘッドセットは椎のいた世界では皆つけてるって言ってたけど、その首輪もか?」
「うん……これがないと、世界か人に殺されちゃうから」
今度ははっきりと『殺される』と言った。世界に殺されるというのは、澱んだ空気と有害な電波とやらにだろうか。
「じゃあ、椎のいた世界では、誰もが即時乾燥できると……もしかして暑さや寒さも調整できる?」
「? うん、できる!」
「ああ……」
道理で暑苦しい恰好でも涼しい顔をしているはずだ。どういう仕組みかは知らないが、温度調節可能というのは羨ましい。
だが今はそれより。
「空が青いからって、星が綺麗だからって、飛べないことはわかっただろ。もうこんなことすんなよ? 心臓止まるかと思った」
短く溜息を吐き、海水で顔に貼り付く髪を払う。椎はすぐに乾くが、こちらはそういうことはない。
「シャワー借りていいか? ヴィオ」
「うん。オレもシャワー浴びたい」
そろそろ日の出の時刻なのか、地平線が明るく白み出す。海と空が青く染まり、境界が曖昧になる。三人は無言になり、地平線を見つめた。束の間の青い時間。
しかしそれも、長くは続かなかった。椎がまた声を上げたのだ。今度は何? と半ば呆れたように椎に目を向けると、手の甲にホログラムを出してじっと見詰めていた。光の点が移動しているように見える。
「反応がある……」
「反応? 何の?」
「灰音! 灰音の首輪から出てる電波をキャッチして……」
GPSのようなものか? 椎は手の甲に表した地図をルナとヴィオに突き出す。光の点は移動を続けていたが、ふっと消えた。椎は困惑の表情を浮かべるが、暫く待ってみても光の点が再び現れることはなかった。
「これ……」
「ルナの実家がある街の方だな」
「ど、どうしよう! 消えちゃった……灰音に何かあったのかも……!」
手の甲を見詰め、砂浜に手をつき身を乗り出す。大きな瞳が泣きそうに揺らぐ。顔を近付けられ、ルナは目を逸らした。
「で、でも、少なくともこっちの世界には来てたってことだろ」
「ルナの実家のある方だから、親父に車出してもらおっか?」
何の気なしに言ったヴィオを一瞥し、ルナは一歩下がって立ち上がった。
「……まあ、一度乗りかかった船だからな。見つかるまでは付き合うよ。近所だし」
ルナは地に膝をつく椎に手を差し伸べる。
「ほら、灰音を見つけるんだろ?」
椎は青空を映した瞳を丸くすると、大きく頷いた。
「うん! ありがとうルナ!」
「いっ!?」
砂を蹴り勢いよく跳ね、ルナに飛びついた。完全な不意打ちに数歩踏鞴を踏み、丁度良い所にいたヴィオ諸共、三人で絡まって砂浜に倒れた。
「ご、ごめん! 勢い余っちゃった!」
「せっかく立ったのに……」
「お、重い……さすがに二人は重い」
今度は椎が先に立ち上がり、ルナに手を差し伸べ起こす。最後に二人の下敷きになって潰れていたヴィオを二人で引っ張り起こした。
立ち上がった三人は白い壁を擦り抜け走り、ヴィオの家へと急いだ。