爪弾く音色は哀しい性で
【となりの吸血君】の更新はもうちょっとお待ち下さい...。(汗)
哀しいかな、僕は性を満たすことでしか生きている幸福を味わえない。
怨めしい自分を幾ら憎もうと、自分の性は変えられない。欲望に、直向きに生き続け、願望を貪り喰うのを只々見るだけしか己の出来る事はない。
だから本当に...憎らしい。
***
琴の爪弾く音を自分の精神安定剤とし、僕はほぼ一日中、琴を弾き続ける。食事も、排泄も、人間生活においてほぼ最小限すべきこと以外は、極力何もしないで、只狂ったように琴を爪弾き続ける。
己の、満たしても満たしても直ぐ様穴が空き、空っぽになる欲望を発散させる、唯一の手段である。
琴を掻き鳴らしていた時、かたん、と扉が開いて、誰かが此方に来た気がした。
「一さん、今日もお琴を爪弾いていらっしゃるのね。」
ほら、また来なすった、あの世間知らずの娘っ子が。僕がべんべん、琴を弾き続けるのも構わずに、話しかけてくる空気が読めない幼子とも言える奴が。
「とても素敵な音色だわ、ねえ、きらきら星も聴かせて頂戴。それから手毬のお唄も聴きたいわ。」
「...。」
「まあ、無視だなんて酷いじゃない。良いわ、今日も勝手に聴いて帰るのだから。さ、弾いて頂戴。」
この図々しい娘子は、確か紅亜と言ったはずだ。前に珍しい名前だと思っていたら、自分から親が外人に付けてもらった名前なのだと自慢げに話してくれたことがあった。そんな異端の名前を付けられて喜ぶだなんて、どうかしている。
でも、此奴ならそんな名前でも付けられて狂喜乱舞しそうだが。
取り敢えず、此奴と関わるだけ無駄だ。
此奴の名前の由来を覚えるのなら、唄の楽譜を覚えた方が良いし、此奴と話すぐらいなら、琴を掻き鳴らした方がよっぽど自分の為になる。
ポロン、ポロン。
琴の美しい音色にうっとりと惚れ入りながらも、僕は演奏をするのを止めない。指や手、四肢が幾ら痛かろうと、これを止めることはできない。琴を弾くことは、僕の全てなのだ。
娘子は、隣で頬杖をつきながら、此方の手の動きをじっと見ていたが、ある瞬間からふ、といなくなる。「今日も素敵な音色だったわ、ありがとう。」と言い残すと、また先程来た時と同じように、かたん、と扉を開けて去って行くのだ。
そうして、その間、僕はずっと無心に琴を弾き続ける。
***
お腹が空いた。頭が熱い。
どうやら今日は雨が降っているらしい。琴の音色が、少し掠れて聴こえるのはその為だろうか。風邪をひいているのも相まって、琴の弦を弾く指がずれていた。
思えば、お腹が空いても眠くなっても、日頃琴ばかり触っていたのだから、躰の正常反応と言えば正常反応だ。僕は躰が正常に機能していることに驚きつつも、掠れた音色の琴を爪弾く。
躰なんて、正常反応して何が良い?
寧ろ、正常反応なんてせず、死後の世界の方が楽に、ずっと琴を弾いていられるかも...。
考えていて、何故か虚しさを感じた。頭がぐわんぐわん、揺れているような気持ち悪さを覚えつつ、僕は琴の弦に手を伸ばす。が、指に力が入らず、やはり音は掠れていた。
寂しい。
弾いていても、息苦しさが取れない。不意に胸を突くような寂しさが胸の中に込み上げてきて、琴を弾く手が遅くなった。何で、僕は、琴を弾いているのに寂しいだなんて...。
「一さん、今日は。今日は、お琴弾いていらっしゃ...。」
雨の雫が粒のようについた傘を片手に持って、今日もあの娘子はやって来た。上等な紅傘をぱっ、と手から放り出すと、「一さん、貴方大丈夫なの。」と大声で叫びだした。近所迷惑極まりない。お帰り頂こう、と口から言葉を発しようとしたが、それは只の二酸化炭素が出ただけだった。娘子が、拍子抜けしたのかぷっ、と笑う。
「...何だ、人の顔を見て笑うとは。」
「おお、違うのよ、只...。」
「貴方にも、そんな人間らしい一面があるとは思わなかったのよ。貴方のことが、少しでも知れて嬉しいわ。」
はにかみながら彼女はそう言う。濡た紅傘の水が、畳に染み込んでいくのを慌てて拭いている彼女を見て、僕は不思議な気持ちが湧き上がってきた。
僕のことを、知れて嬉しい?
そんなこと言われたこともなかった。村の連中は、皆琴を弾いて遊んでばかりいる僕のことなんて関わるだけ無駄だと思っているだろうし、皆、僕へ関心など一寸も示さないのだ。なのに、此奴は僕への関心がある?
「あとね、貴方の声が聴けて嬉しいわ。一さん、何時も琴を弾いているだけで私の声なんてちっとも届いて無いんですもの。ところが、今日来てみたら貴方の琴の音色なんて一寸も聴こえないじゃない、全く、ついに死んでしなすったのかと思ったわよ。」
失礼極まりない。琴をゆっくりと、弾きながら僕はそう思う。怒る思いを、留めなく顔に出しつつ、僕はちらり、と彼女の方を見た。声なんて聴いたところで、嬉しくなるはずなんかない。きっと、彼女は世辞か社交辞令でも言っているつもりなのだ。きっとそうだろう。
すると、彼女はうふふ、と今度は静かに笑い始めた。一体どうしたのだろう、そろそろ琴を弾くのに集中したい。
「...何故、君は奇妙な笑い方をしているのか。」
「だって、今の一さんの怒っているお顔、人間らしい感情が感じられたんですもの。何時もはほら、仏頂面なのに。」
「...元々仏頂面なのだ、今のは気まぐれだよ。」
琴を弾く指の動きは、彼女の言葉によってどんどん遅くなり、調べもその分遅くなる。まるで動揺しているのを彼女に伝えているようで、僕は慌てて琴を速く掻き鳴らした。此奴に勘違いなど、されたくもない。勘違いなど甚だ自意識過剰すぎる。
やがて、琴にしか集中を向けなくなった僕に、彼女は何時ものように頬杖をついて此方を見ていたが、ある瞬間から「今日は楽しかったわ、ありがとう。」と呟くと去って行った。
何故か、弦を弾く指は震えておらず、寂しさは何処かに消えていた。
***
それからこの娘子は、よく話に来た。ある時は紅傘を手に、ある時はひらひらとした日傘を手に。
「ねえ、一さん、貴方私の名前存じておいで?」
そうそう、毎回来る度にそう言うのも忘れない。くるくると傘を回したり、結わえた髪を慎重に触りながら、来た最初にそう聞くのだ。だから、僕は敢えて間違える。
「なんだっけ、紅子さん?」
「まあ、そんな酷い和名じゃないわ。もっと、洋風で粋なお名前よ、さあ言ってご覧。」
...あの名前を粋だと思っているのか...?良識に欠けすぎていないか?何なんだろう、此奴。
「知らないよ、僕は琴を弾いているんだ、おどき。」
「ねえ、もっと話しましょうよ。暇だわ。」
「...少しなら、良いだろう。」
そうして、時は静かに、ゆっくりと、琴の音色と共に過ぎていく。
***
やがて、僕は彼女の優しさと甘さに半ば依存するような形になっていった。琴を爪弾くと、考えるのは彼女の顔と、話し方と、仕草。とても愛しい存在だと気付いた時には、大いに自分を嫌悪したことだ。
でも、自分が幾ら好きだろうと、僕はその気持ちを隠し続けた。
ある日、彼女はまたふらり、と此方にやって来て、「ねえ、一さん、お話しましょう。」と話しかけてきた。
「まるで玩具が欲しい幼児だね、駄目だよ、僕は琴を弾くんだ。」
「ねえ、何故貴方琴を弾くの。私はこれだけ貴方と話しているのに、まだ琴に劣ってしまうの。」
僕は、彼女の強い物言いにびっくりして、驚いて彼女を見た。何時も笑顔が素敵で、笑っている『喜』の表情しか見知らぬ彼女の顔を。
彼女の顔に浮かんでいたのは...激しい、『怒』だった。
「貴方は、どの位、私が...。」
そこまで言うと、急に彼女は頬を涙で濡らした。涙が伝う様を、僕は無言で見つめる。そして、彼女は「私、もう行くわ。」と立ち上がり、戸の前に立った。
琴を弾く手が、一瞬止まる。
「貴方は...止めて下さらないのね...。」
僕の性は、琴だ。止めることはできないのだ。
止めたい。彼女の頬に触って、涙を拭いたい。でも、出来ないのだ。どうしても、彼女に進み寄ることが出来ない。琴を弾かないと、きっと僕は死ぬ。
でも、もし彼女がいなければ僕は...。
彼女は、「ごめんなさい、私のエゴだわ。」と言うと、淋しそうに去って行った。
***
甘えていたんだ。彼女の強さに。
彼女はとても粘り強く僕に接してくれて、とても、僕に...。謝らねば。次、彼女が此処に来た時には、きっと。
***
「ねえ、一さん!!!!!」
ある日、大声が庭で聞こえて、僕は何事かと琴の弾く手を緩めた。戸が開いて、一人の人影が映る。
彼女だった。
「...!?」
その後ろには、一人の男性がいた。斧を彼女に振りかざしている。何をしているのか、判断した。止めなければ。彼女の為に、はやく。
でも、足は正座したまま動かなかった。
琴を爪弾く手は緩まず、彼女の頭上に斧が当たる。
紅で部屋が染まる。
男性は此方をちらりと一瞥すると、「琴弾き太郎か。」と呟いて去って行った。
嫌だ、死なないでおくれ。知っている、彼女の名前は紅亜で、彼女は天真爛漫で、僕のことを常に思ってくれている。僕は彼女のことが好きで、好きで、大好きで。頬を伝う涙を拭って、きらきら星を弾いてあげたい。
それなのに、伝える相手は...。
「ああ...ああ...、嫌だ、止めてくれ...。」
愛する人の躯を眼の前に、僕の琴を爪弾く音色は加速する。