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土曜日の歓声

作者: 惑星少年

私の夫は何よりも習慣を重んじる人。


戦後すぐに教職についた夫は、生真面目な性格で、生徒からは恐れられ、同僚の教師からは付き合いにくいと敬遠されるような人だった。

それでも、生涯をかけて充実した教師生活を送れたのは、やはりその生真面目な性格が教師には向いていたということなのだろう。

山間のわずかな民家が肩を寄せ合うだけの小さな村に、夫と私の家はある。

ここ数年、巣立って行った子供たちが都会での同居を勧めてくれているが、そのつもりはなかった。この小さな村で私たちは静かに死んでいくつもりだ。


朝、目が覚めると、私はまず床に臥したままの夫の元に行き、すでに言葉を発することのなくなった口元にこびりついた涎を拭き、下の世話をする。朝食 はヘルパーの奈緒さんがいつも差し入れてくれるバナナと無糖のヨーグルトと決まっている。今は寝たきりになってしまった夫の習慣に影響されてのことだ。

「和子さん、たまには気晴らしに外に出たほうがいいですよ」

奈緒さんは事あるごとに私に言う。

代わり映えのしない日常を送る私の精神面を心配してくれているのだろう。

私は夫と共に生きた五十年の生活を反復するように、変化を望まない静かな日々に小さな幸せを感じている。


「よく見れますねえ。私なんか息子たちが観ているのを横から覗いててもさっぱりわからなくて」

土曜の夕方、テレビの前に座ってサッカーの試合を観るのが私の習慣になっている。

これも 夫に影響されてのことだ。

二十年前、日本にプロリーグが誕生し、サッカー人気に火がついた。柔道に打ち込んでいた学生時代の経験を活かして、高校の柔道部の顧問をしていた 夫が関心を持つことはなく、夫にとってサッカーは若者特有の一時的な流行にすぎなかった。

夫のサッカーに対する意識を大きく変えたのは、当時小学生だった孫の大輔がサッカーに夢中になっていたのがきっかけだった。

還暦を過ぎてから生まれた念願の孫は、厳格な夫の凝り固まった価値観を大きく変えるに十分な愛らしさで、孫との共通の話題のため、日々の習慣を重んじていたはずの夫が、自分からサッカーの教本を買い、テレビのスポーツニュースを観るようになった。これはとても珍しいことだった。

「今度の夏休み、大輔を連れて、サッカーを観に行こうか」

あの時、私がどれほど驚いたことか。

私の脳裏には、訪れたスタジアムの賑やかさにはしゃぐ大輔よりも、あの青い芝と雲ひとつない晴天のコントラストに、眩しそうに目を細めている夫の横顔が鮮明に焼きついている。

大輔と一緒になって、選手の走る姿に喜び、ときに憤り、ルールのわからない私に、付け焼き刃の知識を披露する夫はとても新鮮で、夫は大輔よりも幼い喜びを感じているように見えた。

「世界では、長さ100m、幅60mほどしかないサッカーのフィールドの中 に、お国柄や宗教観、人種問題など様々な確執を見ることができる 」

私には、大の大人が小さなボールを蹴っては走り、走っては蹴っているだけで、正直退屈である時間の方が多いスポーツなのだけど、夫はもっと別の意味をサッカーというスポーツの背景に見ているようだった。


「あ、 ゴールした 」

奈緒さんの言葉に、私は意識をテレビに戻す。赤いユニフォームを着たチームがどうやら得点を決めたようだ。

「残念、オフサイドだって。このオフサイドってなんなのかしらね。息子に何回説明してもらっても いまいち わからないのよ」

奈緒さんがうんざりしたように言う。

目を閉じると、今はもう物言わぬ夫の声が聞こえてくる。夫の説明にも全然理解できない私に、それでも何度も何度も呆れることなく説明してくれた。

テレビから一段と大きい歓声が聞こえてきた。私はテレビのボリュームを少し上げた。

隣の部屋で眠る夫に聞こえるように。

そうすることで、私は夫と共有した習慣を取り戻す。

土曜日の夕方、夫と私の間を流れていった時間と習慣と変化が、歓声とともに蘇る。

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