ここに来て、ここに居るから。
見えず、聞こえず、触れられず。故に私は幽霊を信じていなかった。
しかしここ最近、日常に言い知れぬ違和感を覚え始めている。
何かに見られているような、何かにつけられているような、そんな感触がまとわりついてきた。
きっかけは恐らく、就職に伴った引っ越しだろう。私は古い建物が多く残る街に移ってきていた。
何故か、幼い頃から古い物に惹かれていた。小学校に入学する頃には、古都の写真集などをくしゃくしゃになるまで読み込んでいた。特に思い当たる理由もなく、そういう感性に育つ環境だったのだろうと思っている。
一人立ちする歳になっても、私は変わらず古い物を愛していた。そして、就職先を探している時に今住んでいる街を見つけた。何故かここにしなければならないという強い想いが生まれた。その想いに従い、街の古書店に就職した。
そして住んでみればこの様だ。
確かに街並みは私の趣味と合っていて、どこか懐かしさを覚えるなど楽しめている。だが、日常を盗み見られているような感覚は耐え難い。
業者を呼び、隠しカメラや盗聴機がないか調べてもらったこともある。しかし成果はなく、その後も例の感覚に悩まされ続けている。
いよいよ精神もやられてきてしまい、休みの日に散歩をすることもなくなり家に引きこもることが増えた。すると、以前にも増して監視されているような感覚が襲ってきた。
その頃から霊という言葉が浮かぶようになっていた。
見えず、聞こえず、触れられず。しかし感じる。もはや限界であった。
明日には御寺に相談に行こうと決意し、眠りについた。
どれくらい時間がたっただろうか。夜も明けていないのに唐突に目が覚めた。
普段の私は、目が覚めてしばらくは頭がぼんやりとしている。しかしこの時、私の脳ははっきりと冴えており明らかな異常を感じ取っていた。
部屋に満たされている空気が重い。大量の泥が体を包み込み、布団にへばりつけているようだ。私は指ひとつ動かせなかった。
唯一動かせるのは眼球だけ。私の弱い視力では何も見えないに等しかったが、それでも必死に原因を探していた。
その時、天井に白い影が見た。はっきりと、私の視力ではあり得ないほどにはっきりと認識できた。
それは人の形をしており、ふわふわと漂っていたが、徐々に私に迫ってきていることがわかった。
それがわかった途端、私の体は激しく震え始めた。白い影から強く、激しい感情を感じ取ったからだ。
様々な想いが混じり合い、混沌とした感情が私に降りかかる。その大部分は、喜びと執着のように感じられた。
何故私に。そんな疑問が脳内を駆け巡る。信じていないとはいえ、わざわざ死者を冒涜するような真似はしてこなかったはずだ。
やがて、白い影に朧気な顔が確認できた。満面の笑みで私を凝視していた。
それを見た私は、不思議なことに安心感と、痛烈な既視感を覚えた。とうとう精神がどうかしてしまったのかと思ったが、思考は正常に行える。
影から視線が逸らせない。
白い影が、私を見つめながら頬に手を伸ばした……。
その時、カーテンの隙間からぱっと陽の光が射し込んだ。
光を浴びた影の顔から喜びが消え、悲しみと悔しさを滲ませながらすぅっと消えていった。
やがて少しずつ体が動くようになり、起き上がって時計を見ると七時になっていた。
一瞬、夢だったのかと思ったが、部屋に残された強い悲しみがそれを否定していた。
その日、今朝の出来事も含めて相談するため御寺に向かった。建物に続く森の中の一本道で、草木の間に一つの墓を見つけた。
名前も無く、手入れもされていない荒れた古い墓だった。
墓の前に立ったとき、私は直感的に理解した。何故私が古い物に惹かれたのか、この街に惹かれたのか。そして、あの白い影が何だったのか。
寺の住職に声をかけられるまで、私は墓を抱き締め、涙を流していた。
それ以来毎日墓に通っている。見えず、聞こえず、触れられない。それでも私は彼女に会いに行く。