黒い正義に告ぐ4
ルシウスは三日間教会でクリメントと対話した後、「異端だと強く疑われる」という判決を下されて釈放された。ラビンスキー含め、屋敷に集った一行は玄関先で迎えることとした。やがてフラフラとした足取りの貧相な男がやってくる。ラビンスキーは肩の荷が下りたと胸を撫で下ろした。ルシウスは肉体こそ削ぎ落されたように細くなっていたが、ヘラヘラとした笑顔で帰ってきたのを見ると、精神的には非常に健康的だったようだ。
「いやぁ、死ぬかと思ったよ」
ルシウスは愉快そうに笑いながら首に手を当てている。真っ先に駆けだしたのはユウキだった。頭突きでもするようにルシウスに抱きつき、嗚咽を漏らしている。ルシウスは首に当てた手でユウキの頭をなでる。
「バカ!バカ!バーカ!どれ、どれだけ心配したと思っている!?もう、もう……バーカ!」
しゃくりあげて言葉を詰まらせながら何度もルシウスを叩く。ルシウスは何となく嬉しそうに目を細めた。
「……ごめんごめん」
「返事は一回、バーカ!」
「ルシウス先生、お帰りなさい」
モイラが涙声で言う。ルシウスは黙って頷いた。
織物通りの往来は相変わらず絢爛で、石畳の上をヒールの低い靴で歩く貴婦人が通り過ぎる。イグナートの店から複写士が出ていき、紙の束を持ってコランド教会へと駆けていく。それを見つめる路地裏の乞食は、いつもより一層有り難そうに複写士を目で追っていた。
「兄さんも、迷惑かけました」
ロットバルトは呆れたように息を吐く。
「全くだ。ともあれ、戻ってきてよかったよ。早速、これからの話をしたいが……」
ロットバルトはアーロンに目配せをする。アーロンは頷く。ラビンスキーも視線を受け、殆ど反射的に頷いた。スミダは早速仕事だと察したのか、召使たちを引き連れて先に部屋に入った。
「……ルシウスは疲れているだろうから、しばらく休め。あと、ユウキも傍にいてやってくれ」
ユウキは目を真っ赤にしながら頷く。ロットバルトとアーロンが屋敷に入り、それに次いでラビンスキーが入る。ユウキとモイラ、ルシウスは暫くその場で再会の喜びを分かち合い、雑談をしながらルシウスの部屋に戻っていった。
ここ数日通い詰めたロットバルトの部屋は、普段よりインクの匂いが強く、また散らかっていた。ラビンスキー、アーロン、ロットバルトはやっと仕入れることができた紅茶と砂糖を好みに合わせてかき混ぜた。ラビンスキーもここ何日かの疲れによって憔悴しきっており、紅茶に映った自分が酷く老けて見えた。
「私としては、やはりプロアニアと早めに結んでおくべきだろうと思う。こうなった以上、コランド教会も巻き込んで教皇庁との全面対決もあり得るからね」
「クリメントとの対決は終わったのでは……?」
アーロンが尋ねる。この中年は決して無能ではないようだが、人を信頼しすぎるきらいがあるらしい。ラビンスキーはカップを置き、常備された地図を見る。プロアニアはムスコール大公国から行路を辿って南へ下ると、初めに赴くことになる国だ。教皇庁の布教政策により、半ば強引に改宗させられた国であり、領主は西方教会を国教としている。但し、勢力としては西方教会よりもムスコール大公国と同様の東方教会に属している。領主は帝国の選帝侯の一人であり、エストーラの大公とは対立関係にある。資源にはあまり恵まれないほか、生まれつきなのか魔術の適性を持つ者が少なく、法陣術が自然と発展した工業国でもある。
「プロアニア……。地理としては、一番近い大国のようですね。しかし、教皇庁の勢力圏としては東西に包囲されている国、という事になりませんか?」
「そうだな。教皇庁は西方教会、つまり主神ヨシュアを中心に信仰する教会勢力だ。ヨシュア神の姉に当たる花の女神カペラは、ペアリスの守護神であり、ここを統治する王家の名前の由来になっているほど関係が深い。エストーラはヨシュアの守護者である軍神オリエタスを守護神とする。地理的に言えば周囲が西方教会の勢力に包囲されている。しかし、我々の東方教会も、信仰の習慣や守護神が傍系であることを除いては、教皇庁を中心として成立していることには間違いない。我々の守護神オリヴィエス神も、元を辿ればヨシュア神の弟、天の神ウラヌスにぶつかる。その意味では、決して東西で対立しているという事ではないよ。」
アーロンは自前の地図をなぞりながら、教皇庁、エストーラ、ペアリスの順になぞる。
「……しかし、現在は教皇庁とエストーラの仲は必ずしも芳しくありません。ペアリスともエストーラも争っていますね」
ラビンスキーは眉を顰める。地図の上に教会の勢力図と対立関係を照合するが、彼には益々理解しかねるものだった。
「エストーラと……何故ですか?」
「教皇庁とエストーラについては、エストーラが戴冠式を勝手に行ったことが原因のようですね。もっとも、それ以前から聖職者叙任権を巡って帝国と教皇庁で対立していたようですが……。ペアリスとエストーラ間ではブリュージュの姫との求婚を巡る争い……もう少し汚く言いますと相続権を巡る争いがあります」
ロットバルトのカップが持ち上がる。彼女は紅茶を優雅に啜ると、満足げに息を吐く。ラビンスキーは空になった彼女のカップに紅茶を注ぐ。
「あぁ、すまないね。……とにかく、西方教会が一枚岩ではない以上、我々が取るべき行動は一つだ。確実に対立関係が生じる教皇庁とペアリス以外を仲間にする。その足掛かりとして、プロアニアとの同盟関係を確立する。そして、次にエストーラを味方につける」
「エストーラとは、どうやって?」
アーロンが尋ねる。もっとも、二人は既に同じ答えを共有しているらしく、アーロンは言質を取ろうとしているにすぎない。
「プロアニア、エストーラ、そしてムスコール大公国の間で、緩衝地帯を分割する。ここは敢えて、あちらに有利な形で提供しようと考えている」
ラビンスキーは故郷の歴史を思い出す。三国間の緩衝国にあたる国家を分割し、吸収するという試みには記憶があった。そして、それが同地の人々に大きな影響があることも、よく理解していた。
「……その土地に住む人は、どうするんですか?」
「む?……私としては、自治都市として活動してもらうつもりではあるが、他の二国については……懇願してみるしか無いだろうね」
ロットバルトは悪びれるでもなく答える。ラビンスキーは思わず何かを言おうとしたが、アーロンがカップをわざと強めに置いた。ソーサーがかつん、と警告音の様に響く。
「それでは、同地の人々にあまりに不利益ではありませんか?」
「しかし、他にどうするのだ?彼らとて、わが国との関係にはかなり神経質になっているはずだ。互いのメリットを考慮した結果、最も合理的な提案をしているつもりだが……」
ラビンスキーがそっと手を挙げる。二人の視線を受けながらも、なるべく声を張った。
「その交渉、私に任せてはもらえませんか?」
ロットバルトとアーロンは顔を見合わせる。アーロンはラビンスキーの意図を察し、頷いた。ロットバルトはラビンスキーにやや険しい視線を向ける。ラビンスキーは努めて自信に満ちた態度を保つ。心臓の鼓動が速くなる中、ロットバルトはゆっくりと答えた。
「……いいだろう。都市衛生課には伝えておこう」
「有難うございます」
ラビンスキーは直角に頭を下げた。




