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ラビンスキーの異世界行政録  作者: 民間人。
三章 聖俗紛争
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黒い正義に告ぐ3

 ルシウスは徐に、堂々と処刑用の台に立った。普段の眠たそうな眼とは異なる、鋭く、驚く程に厳格な瞳だ。憐れなボロ布を着た処刑人の眼光に、場は一気に静まり返る。静寂の中、ゆっくりと記憶を整理するように処刑台の上を歩く。


「諸君は初学者であるから、あまり専門的な事を言っても仕方があるまい。これより教授するは、学問へ対する心構えである。心して、聞くように」


 あっけにとられて目を丸くしていた狸牧師が我に帰る。


「いや。ちょっと待て!そんな発言は許可してな」


「質問は許可しない!守れないと言うならば出て行きたまえ!」


 公開の場での叱責というのはなかなかに堪えるものがある。狸牧師はつい後ずさりをしてしまう。そうなったら、もうルシウスを止められない。


「まずは諸君に問う。「学問とは何か?」知識を得る事?結構。思索を巡らす事?大いに結構。学問とは即ち、「問い」を「学ぶ」事である。諸君、我々が常に研究している事は、どれも不完全故に学問なのである。神の御言葉は完全であるというならば、それは真理でしかない。我々が解き明かした後に残るものは、単なる事実に過ぎぬのだ。然し、学問はそこで終わることは無い。何故ならば新たなる「問い」が残るからだ。そうして連綿と積み重ねられ、解き明かされたものが、「学問」の成果であり、課題である。

では、問いを学ぶために必要な大学と呼ばれるものは、如何様にあるべきであろう?」


 ルシウスが黙ると、刑場を静謐に包まれた。誰一人として音一つ出さない。その場にいる如何なるものも、ルシウスの答えをただ待っていた。ルシウスはそのまま続ける。


「……学問とは、「問い」を「学ぶ」事である。即ち、問いかけることこそが、我々の使命なのだ。若し、問いかけることができぬというならば、最早それは大学ではない。単なる知識の集成に過ぎない。故に、「学問」とは自由でなければならない」


 刑場の雰囲気がガラリと変わる。人々の目は責めるような冷めた瞳ではなくなっていた。死刑執行人が狸牧師の耳打ちを受け、ルシウスに近づく。ルシウスは咳払いをすると、くるりを踵を返し、狸牧師の方に向けて歩き出した。


「若し仮に……教会が我々の学堂を血で汚すと言うのならば、それは大いに結構である。主の御言葉に従うならば、「頰を打たれたならば、もう一方を向けよ」と言うのものがあるのだから、大いに批判してくれて構わぬ。仮に、教会こそが主の御言葉だと言うのならば……」


ルシウスはここで言葉を止める。無防備なこの男に対して、執行人たちはただ付き随うようだった。腰をかがめ、狸牧師の耳元で囁く。


「我々は……神に勝利した」


「殺せぇぇぇ!」


 頭に血が上った狸牧師が叫ぶ。執行人たちはルシウスを拘束し、切り捨てようと剣を構えた。ルシウスは引きちぎられんばかりに手を引かれる。成されるがままに任せた彼に、先の丸い大剣が振るわれる。

 まさにその瞬間だった。執行人の頭に固いものが当たる。次々に投げられる石のつぶてだった。


「十分の一税ってなんだ!金返せ!」


 ある商人が叫ぶ。追唱するように税に対する不満が飛ぶ。


「俺の顔を見ろ!神様に祈れば病気は治るんじゃなかったのか!?」


 顔に巨大なこぶがある男が叫ぶ。隣には、咳き込む女性の姿があった。


「お前たちは嘘つきだ!俺たちを救ってくれないじゃないか!」


 乞食が叫ぶ。ガリガリで臭い布を纏った彼らは他のどの階級よりも一層力を込めて石を投げた。


 たじろいだ執行人たちはついにルシウスから手を離す。突き飛ばされたように倒れたルシウスは、しばらくすると立ち上がり、堂々と台の上で声を張り上げる。


「我々は、教会に仕えているのではない!主に仕えているのだ!」


「何をしているんだ!お前たち、こんなことをして許されると思って……」


 狸牧師の声は虚しく怒号にかき消される。彼もまた標的となり、顔面に石を受けた。続けて木の切れ端などのゴミが飛ぶ。彼らは最早聞く耳を持たない暴徒と化していた。


(衆愚政治……)


 ラビンスキーの脳裏に言葉が浮かぶ。彼らは抑圧の末理性を抑えることができなくなった暴徒と化している。教会、貴族、彼らは腐敗こそすれ一端の「知識人」である。それ故に暴力と詭弁の使い方をよく弁えているし、暴走するにしてもそれは腐敗ゆえのものだ。


 しかし、民衆の内知識人はほんの一握りしかいない。一度たがが外れれば、あとはとどまることを知らない。それこそが、衆愚政治の恐ろしさである。ルシウスはそれをよく理解し、耳障りのいい言葉を選んだのだろう。一定程度の真実と、8割の虚構によって作られたものが、不満に塗れた民衆に火をつけたのだ。


「黙りなさい!」


 クリメントが壇上に上がった。決して大きな声ではなかったが、不思議と威厳に満ちたものだ。彼は変らず澄まし顔で、錫杖を振るう。今日は赤い帽子に代わって、ミトラを被っていた。彼は狸牧師の腰に結わえた鍵束を奪うと、それを民衆の前に掲げた。


「迷える子羊たちよ。これが何かわかりますか?」


 民衆が騒つく。先程までの勢いが嘘のように狼狽えて見えた。クリメントは民衆を見下ろしながら続ける。


「これは我々教会の、金庫の鍵です。これより、我々は諸君の思うままに従うことにしましょう」


 彼はそう言うと、広場の大衆に目掛けて鍵束を放り投げた。はじめに乞食がそれを奪い合い、体躯のいい用心棒を携えた商売人達がそれに覆いかぶさる。金庫の鍵はどれだ!と言う声が響き、人々は次々に群がった。


「今……諸君の審判は決しました。諸君は金貨の奴隷となり、地獄へ落ちることでしょう!」


振るう錫杖の先を見上げる人々が、顔を真っ青にする。後ろで呆然と眺めていたラビンスキー達からも、群がる蟻のような異様さが分かった。冷ややかに彼らを見下ろすクリメント。一気に勢いをなくした民衆の戸惑いの声が聞こえる。


「若し……諸君が天へ昇りたいと願うのであれば、不浄な金貨をその身から取り払うために、その鍵を寄付するのがよろしいでしょう。私達が信用出来ない?よろしい。では、イグナートに渡すがよい」


(イグナートに……?)


 一同の視線がイグナートに向かう。イグナートは誰よりも早く、その真意を悟ったらしかった。


「仮に我々が偽りの言葉で語っていると疑うのであれば、その男にその鍵を渡しなさい。彼は必ずや、聖典の俗語訳を通して、世にその正しさを広めてくれることでしょう。尤も、神の言葉を正しく辿ることができれば、の話ですが」


 イグナートの頬を汗が伝う。イグナートは神聖文字を読めないのだろう。仮に読めたとしても、神の言葉を正しく辿る為には、俗語では表現できない言葉がある。クリメントの余裕は、全てがここに起因するものだった。


「金貨は嘘をつかない。まさかこれほどまでに多く引用することになろうとは……。不可解なものです」


「俗語訳をするにあたって委員会を作りましょう。大学の神学者達と共に……」


「その言葉を教えたのは我々教会です。我々もまた、参与することになるでしょう。そして正しき教えが伝われば、我々は教皇の庇護から外れ、神の庇護のもとに団結することができるでしょう。イグナート、貴方が俗語を紡ぎ、そして我々聖職者と神学者によって、正しく言葉を紡ぎなさい。そして、それが雷の民に普及し、彼等の功徳を目覚めさせるというのならば、その金貨は、十分に愛徳カリタスに適うものでしょう」


 民衆達の怒りの声。責任を取れ、という声は至極もっともなものだ。クリメントへの怒りが再び刑場にこだまする。クリメントは目を伏せ、頭を下げた。これまで聖職者に頭を下げられたことのなかった民衆は、そんな当たり前の姿勢にさえざわめいた。


「また、我々も過ちを正さねばなるまい。ここに、新たな教会が生まれるのです」


 狸牧師がこぶの出来た頭を抑え、茫然としている。民衆はいかにも不正に勝利したと言うように、大歓声を上げた。


「とんでもない男だな……。まだ権力を保とうとするとは」


 精悍な顔つきの女性が、突然話しかけてくる。ラビンスキーが意味がわからずあたふたしていると、女性は困ったように微笑んだ。


「変装して私も来てしまったよ。……ドレスというのはなんとも……。かつては着ていたはずなのに、こんなに着にくいものなのだな……」


「ははは……」


 多くの権力者がそうであるように、クリメントもまた、権力に従順だ。しかし、彼は他の権力者と異なり、簡単に権力を裏切ることができる。これは直ぐにダメになる、そう気づいたらさっさと切り捨てて、新たな権力を「創造」する。


 教会は失墜したのでは無く、新たな機関としての役割を得たのだ。それは、聖典の俗語訳に当たっての偉大なパトロンとしての役割であった。


 クリメントがゆっくりと後ずさりする。ミトラを外すと、禿げた頭が顔をのぞかせた。


「必ずや神の言葉を届けて下さい。貴方にならば、任せられる。数多の試練を越え、司教座に座す貴方ならば。例え道を違ったとしても、主は再び導いてくださるでしょう。此処にルシウス卿が異端か否か、それは最早我々の知るところではない。あえてこの場で覆すならば、彼は異端だと強く疑われるに過ぎない。そうでしょう?クリメント様」


 誰よりも驚いたのはクリメントであった。アーロンは敵になったのだと、直感していたのかもしれない。アーロンは信頼しきった瞳でクリメントを見つめる。クリメントは思わず涙腺が緩んだのか、やや上ずった声で答えた。


「え……えぇ、ち、誓います。誓いますとも……」


 アーロンはクリメントの背中を押す。「吃音が戻っている」と笑顔で言う。クリメントは苦笑して人間らしく頬を赤らめた。アーロンは広場の群衆に向けて訴える。


「諸君、どうか我が友を信用して欲しい!彼は元来自らの意志で信仰を望み、敬虔に功徳を積んで来た男。彼の手は古い豆だらけだが、これこそが勤勉に執務をこなす修道士の手ではないか!」

 貴族達からの拍手が起こる。そしてそれに続いて有力な商人、最後にその権力の庇護にある人々に伝播する。割れるような拍手が広場に響いた。


 上位のものはこれ以上の追及によって搾り取れるものは無いと判断したのかもしれない。貴族は自己保身の為だったかも知れない。その他の者は自分へ対する賞賛も込めていたかもしれない。それでも、この会場に集まった一同が、初めて同じ方向を向いた瞬間だった。

本章はしばらく続きますが、ひとまず一件落着ですかね。

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