清掃員と雹の都
ラビンスキーの希望は比較的すんなりと通過した。都市衛生課自体がまだ新しい組織であることや、税務課の新規採用の目途がついていたことから、新人を多数抱えるのが効率が良くないという事情があったらしい。
その書類を意気揚々と掲げながら、初めての休日に向かって帰路を急ぐラビンスキーは、大通りの雑踏をものともせず、忙しなく貧乏ゆすりするカルロヴィッツ氏に頭を下げ、細道の向こうにある自宅へと急ぐ。夕刻でも薄暗い煉瓦造りの建物の隙間を進むと、布をかぶせられ、蠅がたかった何かが通り過ぎる。二人の兵士によって運ばれたそれは、ラビンスキーの気分をひどく害するものだった。
自宅は狭い集合住宅で、『ストラドムス』と呼ばれている。カルロヴィッツ商館から最も近い公営住宅で、三階建ての住宅形式であり、部屋は狭く寝るためだけのものである。格安で借りられることから、家を持てない者達がこぞってここに部屋を借りる。格安とはいえリーブル銀貨1枚を月に支払うためには、そこそこの信用が必要なことは言うまでもない。乞食はもちろん無理だが、使い走りの小僧が借りるには担保が必要なものだ。
ストラドムスの扉を開くと、殺風景な収容所を思わせる狭い感覚の個室が並んでいる。ラビンスキーも初めはあまりの狭さに驚いたが、一日寝ればなんてことはない、生前の若い時分を懐かしく思い出すだけだ。
ラビンスキーは二階に上がって8番目の部屋、208号室の鍵を開ける。無言で小さな箪笥を開けて鍵と異動命令書を入れ、綺麗に積まれた3枚のリーブル銅貨を大切に仕舞う。
カルロヴィッツ商館を通る際、時折リーブル銅貨が落ちていることがあり、拾って兵士に報告してはラッキーだったな、とだけ言われる。落ちているのは大抵どす黒い銅の含有量が明らかに少ないものであったが、無一文のラビンスキーは兵士に軽く報告した後で、無視されれば有り難くいただくことにしていた。
そのまま藁を敷いたベッドに身を投げたラビンスキーは、喜びを押さえられずに足をばたつかせる。
(汚い都市生活をさっさと終わらせてやる!)
決意のまなざしで藁の海から顔を上げれば、ふと先日のコボルトが言っていた言葉が思い出された。
(亜人と人間、そういう人々の間にあるのは、一体どれほどの軋轢だろうか)
思えば、ラビンスキーを脅してきたトロールは金銭を要求していたのか定かではなかった。ラビンスキーは身を起こした。亜人という存在にひどく関心を持ち始めたのだ。
素早く鍵をかけ、ストラドムスを飛び出した。
雑踏の中に身を投じれば、ラビンスキーはすぐにその正体に気が付いた。凝視すればするほど、商売人に人はいても亜人はいない。時折目に映るそれらしい人は、皆ぞろ巨大な棺や槍を運んでいる。人間の聖職者が夕刻のなかでコランド教会に向けて歩く。その後ろからコボルトが静まり返った立派な棺を担ぐ。
これを格差と呼ぶべきかは定かではないが、職業に血筋が重視されてきた旧来の現世を思う。祈る人に亜人はおらず、商人の中には少数しか混在していない。兵士も体格から予測すると人間だろう。
わかり切っていたことだったが、この異世界は「人種」間の確執と家督制が常識になっている。彼にはそれを完全に払拭することはできないだろうが、せめて様々な事業をこなす亜人をこの都市で見てみたいと感じた。
再び踵を返すと、足元に黒い銅貨が落ちているのに気づく。それを拾おうとすると、何者かの小さな手がラビンスキーの隣から伸びてきた。視線をそちらに向けると、ぼろの麻布で何とか全身を隠したがりがりの少年と目があった。少年は素早く銅貨を奪い、走り去っていく。ビフロンスを思わせる華奢な体が逃げるように雑踏に消えていった。入れ替わるように、ラビンスキーを呼びに来たビフロンスが公証人館のある道からのんびりと歩いてくる。小奇麗な燕尾服の尾を揺らし、ラビンスキーに美しい姿勢で近づいてくる。ラビンスキーも体を起こす。
「ご飯にしましょうか」
「うん。あ、都市衛生課に決まりました」
ラビンスキーの言葉に、ビフロンスは微妙な表情で苦笑する。二人は例の如く『ローテン・アルバイテ』へ向けて歩き出した。
「そうだ、明日は初めての休日ですね。何をなさるんですか?」
ビフロンスに尋ねられ、ラビンスキーは初めて休日の予定が全くないことに気が付いた。コランド教会を背にして歩きながら、自分が異世界に来ていたことを自覚したラビンスキーは、ふと、独り言のように呟いた。
「……魔法、使いたいなぁ」
それを聞いたビフロンスは、少し考えた後で切り返す。
「……じゃあ、いい人を紹介しますよ。かなり変わった方ですけど」
ラビンスキーは思わず変な声を上げる。しばらく無言で歩いた後、徐に頭を下げた。
「じゃあ、よろしく」
家の窓から排泄物を放り投げる人がいる。ビフロンスは微笑んで、日傘をくるくると回す。二人は、大通りを軽い足取りで歩いて行った。