世界の端から5
暫く寄り道が続きます。
ムスコールブルクの空気は体に悪いと、そんな言葉を聞いたことがある。窓から外を見渡せば、堂々とした佇まいの領主様がいつも同じ姿勢で立っている。その周りには目の回るほどの人の往来があって、白かった吐く息も随分落ち着きを取り戻した。煉瓦と石畳で整えられた街並みは、賑やかなのにどこが血が通っていないような気がして、時々、本当に時々、つまらなくなる時がある。
パン屋のおじさんが駆けていく。露店商がその背中を笑い、言葉にならない憂鬱を晴らす。村の人間は一切合切仲良しでないと生きていけないから、間抜けな人間も突出した人間も同じように仕事をこなしていた。憂さ晴らしのカーニヴァルが大賑わいで、飲めや歌えやの無礼講、この日の為に苦労して作る燕麦が育つのを見るのが、毎日の楽しみだった。対してこの町の人たちは、普段から何処かピリピリしている。時々、こっちに来たことを後悔するような気持ちになるのは、この狭苦しい世界の中で、一際狭苦しい「女」という生き方だった。
「はぁ……」
私は窓から顔を離し、放り出した仕事道具に目を向ける。毎日重い荷物を運ぶこと、無邪気に彼女たちの言うことを聞くのはとても疲れるものだ。それでも、作業机に置かれた仕事道具に向かうと、一時の憂鬱も忘れ去ってしまう。彼女たちはおしゃべりを楽しみながら、私を隔離した机を囲んで針子仕事を続けている。私は、はかどらない様子の彼女たちを尻目に、さくさくと作業をつづけた。
毎日毎日、同じことの繰り返し……。人を笑う人を見続けるのは、どんなに肌触りの良いシルクを扱う仕事が来た時でも、憂鬱な気分にさせられた。
「ねぇ、モイラちゃんはどうなの?」
「え、はい?」
笑い声の隙間から突然尋ねられて面食らい、間の抜けた声で返す。
「好きな人とかいないの~?」
答えに困っていると、意地悪な笑みを浮かべた化粧の濃いご婦人がかってに答える。
「ふーん、いるんだ」
「え、いえ、そんな……」
やだぁ、と一同が腹を抱えて笑う。彼女たちの手に持った針がギラギラと輝き、窓際の席にいる私にはひどく眩しい。彼女たちは部屋に所狭しと並べられた椅子に、円を作って座る。膝の上に服を置き、仕事途中でも平気で唾を飛ばす。私は、光を避けるために目を逸らした。何故か顔が火照り、困惑する。心臓がバクバクして、いつもの顔を思い出した。
「お前たち―、仕事持ってきたぞー」
主人の足音が近づくと、彼女たちは途端に静かに作業に戻る。別に彼女たちを咎めるわけではないが、この店が織物通りにないのは、こうした仕事の姿勢に問題があるのではないだろうか。
主人が扉から顔をのぞかせ、様子を見に来る。談笑をしながら優雅に針を動かす。主人は資料を近くの机に置き、部屋一帯を念入りに眺めた後、小さくため息を吐いた。ため息を吐いたのは無論、私の方を見た時だった。
「モイラちゃんだっけ……?仕事どう……?」
「はい、難しいけど、頑張っています」
私がなるべく元気に答えると、主人は私の手元を見る。布と布の擦れる音が騒々しく起こる中、私の手元には完成間近の商品があった。
「……そう、なら、いいや。続けてください」
「はい」
その言葉の真意がわかっていても、そう答えるよりほかにない。木枠の窓がガタガタと音を鳴らした。主人が扉を閉め、階段を駆け下りていく。彼女たちのおしゃべりが再開される。陽ざしが西へと落ちていくたびに、私の個人作業も、彼女たちの共同作業も、だいぶ終わりに近づいてきていた。
教会から終業の鐘が鳴り響く時、針子仕事を続けていた彼女たちは背伸びをして互いを労った。私も彼女たちに倣って仕事を労いあう。田舎者の私を馬鹿にするようにあしらう人も少なくはないが、中にはこの挨拶だけはちゃんと反応してくれる人もいる。蝋燭の火をつける前に帰宅するのが、主人の提示した厳しいルールだった。
腰かけた椅子から嬉々として飛び上がった彼女たちは、顔を出した主人が持った給金袋に目を輝かせる。この作業場では出来高の分だけ給金を受け取れるのがルールで、大きな仕事程良い値が付く。そこでもっとも職業歴の長いお局が仕事を振り分けて、私には簡単な布製品の縫合や修正が与えられる。完成品と依頼用紙を手渡すと、その作業をしていた人に給金が支給される。売り上げの一割か、二割か……大体それくらいだ。
「やっと完成したわね!もう、ほんと苦労したわぁ……」
お局様がそう声を上げると、主人が労うように背中を叩く。完成品の並べられた机を見て、主人は袋から給金を渡す。お局様が一番多く、大体給金は序列毎になっているらしい。
最後尾で待つ私には、雀の涙の様なチップが与えられる。これに関しては主人が悪いわけではなく、私の手際の悪さとか、任される雑務の量が多い事とか、そう言った種々の理由が重なったからに過ぎない。もっとも、何故雑務を任されるのかと言えば、それこそ思い当たる節はいくらでもある。
「モイラちゃん、だよね。お疲れさん。……まだ、ちょっと慣れない?」
事情を知らない主人は暢気にそんなことを訊ねる。周囲の視線が私の方に集まり、木製の椅子が私を取り囲んでいる。
「たは、申し訳ないです……」
「そうか、まぁ、こういう仕事は結構難しいからね。私も散々師匠に怒鳴られたもんさ。ほら、ニーナさんだって、今じゃあんな偉そうなこと言ってるけど……」
「ちょっとちょっと、恥ずかしいからやめてよー」
お局が声を張って遮る。周囲がどっと笑い、お局は肩をすくめた。
「ささ、蝋燭の火を灯すのはもったいないんでね、家でゆっくり休んでくれ」
一同がはぁい、と言って部屋を出ていく。扉の周りは途端にさみしくなった。燭台のない作業部屋の隅にある机の上には、私がやり残した仕事がぽつんと置かれていて、針山には私の故郷でならひっぱたかれそうなほど、乱雑に針が刺さっていた。少ない給金を握りしめ、静かに胸元で手を合わせる。一日の終わりを告げる教会の鐘に向けて、翌日の安全を願う。
暫くたって、私は祈る手を離し、首元にかけている財布代わりの麻袋に給金を大切に詰めた。くぐもって壁に跳ね返る微かな余韻が、私の脚をほんの少し刺激する。廊下から私の様子を見ていた主人が、口角をつり上げていた。
「あ、ごめんなさい。直ぐ帰ります」
「うん。お疲れ様」
彼女たちがそうであったように、私も廊下を速足で抜け、職場を後にする。茜色の雑踏の中に紛れて、見馴れた人が静かに微笑んでいた。
「お疲れ様。今月はどうだった?」
都心からははずれたところにある、煉瓦に囲まれた薄暗い道の中でも、ユウキの顔は何となくはっきりと見えた。
「はい、銀貨が2枚になりました」
ユウキは微妙な表情をした。
「……うん、そう。やっぱりちょっと少ないのかな……」
「でも、仕方ないんです。もっと頑張らなくちゃ」
私は表情を悟られないために俯きがちに答える。ユウキは少し悲しそうにしながら、腰に帯びたナイフの柄を構う。それはユウキが外で人の出方を覗うときにする癖だった。私は作り笑いで返す。それが偽物であることくらい、彼には分かっているだろう。パン屋のおじさんが誰かと談笑しながらユウキの後ろを通り過ぎる。
「無理、しちゃだめだからね。やり直しはいつでもできるわけじゃないけど、僕も、何とか考えるから……」
「……うん、ありがとう」
私たちは窮屈な路地を歩き出した。そっと差し出された手を掴み返すと、握り返してくれる。細くて白い手だが、ごつごつとしていて男の子のものであることが分かる。私はその横顔を見る。釣り気味で少し厳しそうな、真剣そうな表情。私はこの手に、この目に、ずっと助けられてきたんだ。そう思うと、途端に頬が熱くなった。
「明日、さ」
ユウキが口を開く。彼はナイフの柄を構い、目を逸らしながら歯切れの悪い口調で続けた。
「……ひま?」
「え?……っと」
ユウキは髪をくしゃりと掴み、目を逸らしたまま、大通りへ出る直前で立ち止まった。
「ちょっと、付き合ってほしくて……。駄目、かな……」
心臓が暴走する。どくどくと血を巡らせて、益々顔が火照る。
「っと、暇、です」
明日は主人が納品を済ませるために外に出るので、針子は皆定休日。ユウキは少し安心したのか、微笑んだ。
「よかった。じゃあ、一緒に出掛けよう」
茜色の映える、眩しい笑顔だった。




