亜人との付き合い方
勤務から数日たち、税務処理にも慣れてきたラビンスキーであったが、一つだけ気がかりなことがあった。
それは亜人との付き合い方である。亜人種は人間のような姿をしているが分類上は異なる生物らしく、「亜人」という言葉に反し、人の亜種であるというわけではない。個体差こそあれ知能は人間同様比較的高く、身体能力も種の差こそあれ高い。知能の高い亜人ならば人間の住む都市にもおり、時には経営者として税を支払うものもいる。
ラビンスキーは特段差別主義者というわけではないが、遺伝子組成から異なる亜人種と対峙すると、未知の恐怖を感じてしまうのだ。亜人種の顔にもそれぞれ個性があることもわかるし、優しい亜人から悪辣な亜人まで、実に様々なものがいる。しかし、ラビンスキーの目に映る亜人は、「がたいのいい」というにはあまりにも巨大で、肌の色もおよそ人間のそれではない者(体内で葉緑体が生成されているのではないかというほどの鮮やかな緑の肌など)もあり、総じて強面で恐ろしい存在だった。
異世界に来て必ず受ける洗礼の中には、こうした生物学的な差から生じる「未知の恐怖」というものがあるらしく、ドラゴンに足をすくませて命を落とす冒険者などもいるらしい。亜人については、都市で巡り合うこともあり、多少びっくりする程度が関の山だとされているのだが、その一回で十分すぎる被害が生じることがある。
例えば、今ラビンスキーの眼前で睨みを利かせている亜人などは、その典型例だった。
「おい、おい。謝罪もなしか、小僧?誠意を見せろっつってんだよおじさんはよぉ?」
異世界転生を果たしたばかりの初々しい人間に対する大いなる洗礼のひとつ、通称「当たり屋」である。街中を歩く気の弱そうな人間にわざと肩をぶつけ、脅しをかけて金銭を請求する。ラビンスキーもはじめは謝罪をしてその場を鎮静化させようとしたのだが、しつこく脅しをかけてくる眼前のトロールに、いよいよ恐怖がこみ上げ始めている。人々はラビンスキーの方をちらりと見ることこそすれ、巻き込まれてたまるものかと足早に通り過ぎていく。
「聞いてますかぁ?お兄さぁん?」
トロールの巨大な口から発せられるドスの効いた声は、ますます恐怖を掻き立てる。松の葉を思わせる深緑色の肌、突き出た腹に負けじと人ごみから突き出た禿げ頭、人の服では入りきらない巨体を覆うのは高貴な古代ローマ人のまとうトーガを思わせる。ラビンスキーの胃痛がジンジンと染み出すと、それに気が付いたようにトロールは牙を剥き出して笑う。
「おいおいこれじゃあ俺が悪者みたいじゃないか。みなさーん、こいつがぶつかってきただけで私はいじめてなんていませんよー!」
トロールが大声を上げると、一般市民はそそくさと道を開ける。人の波が花道を作るように切り開き、地面の石畳を露出させる。皮肉なことに、その様を不安そうに見回すラビンスキーの脳裏にはエジプト人との戦いの様子が目まぐるしく駆け抜けていた。
「ぇっと……給料日がまだなので……勘弁してください……」
トロールはわざとらしく耳に手を当てる。手に覆われた耳にはすでに勝利の色が垣間見えた。
「誠・意・を・み・せ・ろって言ってんの」
ラビンスキーは項垂れついでに石畳に両手と膝をつく。そのままの勢いで恐る恐る頭を地面にこすりつけようとする。トロールの満足しきった笑みが逆光で益々恐怖を掻き立てた。
「あのぉ、トロールさん?」
ラビンスキーが頭を下げ切るかどうかというところで、トロールはうるさそうに振り返る。彼の顔の高さでは真っすぐ振り返っても見つけられないくらいの身長の、何者かがいるらしかった。牙をむき出しにして眉間の皺を深く刻み、トロールが下を向く。
「あんだよ?ガキは黙って……」
トロールの二十顎を真っ直ぐに貫いた拳は、ごわごわとした毛でおおわれていた。トロールがバランスを崩してラビンスキーの真上に倒れてくる。咄嗟に体を起こしてまたを開いたラビンスキーは、トロールが石畳の上に倒れる直前で尻を引きずって後退した。トロールの頭が完全に地面にたたきつけられると、石畳が木っ端微塵に砕け散った。
突然の出来事に失禁をこらえるのでやっとだったラビンスキーは、改めてトロールの崩れ落ちた石の飛び散ったものをみて気を失いそうになる。その手を強引に引っ張ったのは、ごわごわとした毛を纏った腕だった。
その手に引っ張られるに任せて足を動かすラビンスキーは、その小さな体格の生き物に初めて視線を向ける。薄茶色の毛で全身が覆われ、体格は子供のように小さい。道行く人と大差のない服装ではあったが、その耳はピンと立ち、臀部のふさふさとした尻尾は狼や犬を思わせるものだ。ラビンスキーは一目でそれが亜人であることを察した。
「待ちやがれ犬野郎!」
トロールがものすごい勢いで走ってくる。あれだけの石畳を飛び散らせたにも拘らず、切り傷一つない。ドス、ドスと振動がするたびに、周囲から悲鳴が上がる。
「うわぁ!やばいやばいなにあれやばいって!」
ラビンスキーは恐怖のあまり冷静な言葉一つ出せないまま叫び散らす。犬耳の亜人は尻尾を振り回しながらラビンスキーを引っ張る。トロールがずんずんと近づいてくるにつれ、息も絶え絶えになったラビンスキーの口は砂漠のように乾燥しはじめる。
犬耳の亜人は軽く舌打ちをしてラビンスキーの腕を引っ張る。引き寄せられるままに体勢を崩すラビンスキーを背中で受け止めた亜人はそのまま両の前肢を地面につけて倍の速度で駆け抜けていく。
町の人々は悲鳴を上げながら道を開け、トロールを見つけた兵士たちが走ってそのあとを追いかけてくる。
「ハーメルン!?ハーメルンの笛吹きナンデ!?」
亜人はそのまま裏路地へと入って飛び上がり、家々の壁を蹴りながら仕切りの壁を超える。
トロールの怒号と兵士たちの騒ぐ声、魔法で縛り上げられる声が壁ごしに聞こえて初めて、その亜人は足を止める。慣性で吹き飛ばされたラビンスキーはそのまま体勢を崩して地面を転がる。
「おいあんちゃん、臓器とか抜かれなかったか?」
立ち上がった亜人はラビンスキーに手を差し出す。ラビンスキーは何とか体を起こし、全身がずきずきするのを我慢しながらその手を取ろうとする。
「……?」
不自然な高さで手を止めるラビンスキーを見て、亜人は首をかしげる。
「ごめんなさい、……四十肩です」
「お、っと……わりぃな。人間の体ってのは不便だな」
かなりの時間をかけて自力で立ち上がったラビンスキーは亜人の姿を改めて確認した。
動物の耳を持つ亜人は数多くあれど、はっきりと人語を話し、都市で生活するような亜人と言えば、選択肢は限られてくる。ラビンスキーも納税にやってきたものの中で、同種の亜人を二人程度だが見た記憶がある。
「コボルトさん、ですよね?助けてくださって有難うございました」
目を合わせようとすると見下ろす形になるのが何となく申し訳ないラビンスキーは、コボルトの耳の先あたりを見ながら言った。コボルトは恥ずかしそうに頭をかきながら、ラビンスキーを見上げる
「へへっ……気にすんな。お前、官僚だろ?毎日役所に入っていくの見てるぜ」
「あ、はい。そうです。いや、お恥ずかしいところをお見せしました。えっと、お返しできることなどあればいいのですけれども……」
ラビンスキーが直角に頭を下げると、コボルトは焦ったように両手を振って笑う。牙をむく、という表現の方が正しいかもしれない。
「いやいや、気にすんなって。まぁ、なんだ。お礼がしたいっつうならさ、下っ端でも官僚なんだったよな。だったら、亜人がもっと住みやすい街にしてくれよな。そうすりゃあのトロールみたいなのも減るだろうしよ」
「は、はぁ……」
そういってコボルトはさっさと踵を返した。ラビンスキーが再びお礼を言い頭を下げると、のんびり歩きながら手を振って去っていった。
その後姿を見届けていたラビンスキーは、節々の痛みとともに、ほんのりと嗅ぎ覚えのあるにおいが近くですることに気が付いた。周囲を見回したラビンスキーは、ひきつった笑みを浮かべる。
「……へへっ」
彼は、都市の清掃に全力を尽くすことを、四十肩に誓ったのだった。