下水溝は天国まで臭った
「……都市衛生課?なんでまた……?」
ビフロンスの目は点になっている。会計を済ませ、騒々しさの抜けない店舗周辺を暫く歩くと、夜の帳が下ろされた町の静けさが戻ってきていた。行きかうものは何もなく、ところどころの隅に放置された糞は異臭を放つばかりで、街灯もない道は敷石の隙間につまずきそうな暗さだ。
ラビンスキーはビフロンスの持つランプの微かな明かりを頼りに、足元ばかりを気にしながら歩いている。
「え、だって汚いから……」
ビフロンスはランプで周囲を照らしながら小さくため息を吐く。時折道路の隅に散見される干からびた糞が明かりに照らされると、ラビンスキーは反射的に頭に手を置いた。
「えぇ。仰るとおり、この都市は極度に西方化を追求するあまり家々が密集し、排泄物の処分もなしようがなくなってしまいました。この問題に対し、ムスコール大公が定期的にごみの回収班を出せるよう新たに設けた「都市衛生課」は、都市の衛生管理と疾病対策を職務としています。大事な仕事ですが……」
ラビンスキーは咎められたような気がして少し気分を損ねた。二人はそれから言葉を交わすわけでもなく、商店街のある大通りを突っ切り、ムスコール大公広場に至る。大公広場の像を通り過ぎ、カルロヴィッツ商館のすぐ左の狭い街路に入る。
主要街路を少しそれると一気に宵闇が体にこびりつき、群青の空に煌々と照り付ける星と月の明るさが益々強くなる。煉瓦造りの建物が天空を切り取るように聳えながら息を潜めている。ラビンスキーは足元を照らすランプの範囲から一切目を離すことはなく、ビフロンスでさえ悪態を誤魔化すようにランプの明かりばかりを凝視している。
「何この臭い……」
突然今までにない異臭に気が付いたラビンスキーは立ち止って周囲を見回す。つい頭に手を伸ばしながら、ビフロンスのランプを頼りにそのありかを探る。切り取られた空は不気味な輝きを放つ斑点を抱えながら異様な雰囲気を醸し出し、ラビンスキーの後姿をじっと見おろしている。突然ビフロンスが言葉を返す。
「死臭ですね。餓死した乞食がどこか近くの小道に放置されているんでしょう」
ラビンスキーは思わず視線をビフロンスに戻す。ビフロンスは無表情でランプの向こう側をじっと見つめている。その先にはラビンスキーの住む仮住居があった。
「死体とかは平気なの?」
ラビンスキーが尋ねると、ビフロンスは明かりを頼りに整備の行き届かない石畳のくぼみを気にしながら答える。
「……まぁ、慣れましたよね」
ビフロンスはじきに通り過ぎるであろう死臭の正体を確認するでもなく、足早に少し傾斜のある道を下る。ラビンスキーも渋々ビフロンスの後を追った。ビフロンスは速度を緩めずに、鮮明に見えてきた建物の前で立ち止まる。ラビンスキーも同時に身構える。振り返ってビフロンスは静かに微笑んだ。
「それでは、また明日……」
ビフロンスは寂しそうに背中を丸めて、一人で歩き続ける。建物と建物を結ぶ渡り廊下は、月光の様子を絶妙に隠している。ラビンスキーはランプの明かりがずっと向こうに消えていくのを、ただじっと見つめていた。