シゲルという男8
僕は警備兵達が一瞬戸惑うほどの速度で宮殿を駆け抜ける。僕の事は周知の事実の様で、兵士達は顔を見るなり警備に戻ったらしい。壮麗な庭園を突き抜けて、美しい宮殿に駆け込む。汗まみれの僕を見てぎょっとする使用人達に構わず、ロットバルト卿の控え室に一直線だ。
筋力のある、頼れる人間は僕の交友関係の中にそれなりにいる。例えば、冒険者ギルドでお世話になっている冒険者達、更に、ルシウスに暖炉や釜の法陣設置を委託している建築ギルドの屈強な男たち……挙げればきりがない。しかし、その中でも唯一、僕を善意で養ってくれているのはロットバルト卿だけだ。彼はルシウスには専門知識で劣るものの、騎士としても、魔術師としても優秀だ。頼る相手としては申し分ない。
勿論、彼は仕事柄暇がない。それでも、本気で困った時に頼るなら彼しかいないだろう。
卿の部屋の前で一旦呼吸を整え、意を決してノックする。その音は虚しく廊下に反響するばかりで、部屋からの反応はない。会議だろうか?そう思い、諦めて他をあたろうとすると、鍵が開く音がした。咄嗟に振り返ったところ、そこには角田さんがいた。
窓際の机には蝋燭の火が灯っておらず、楽器も立てかけられている。会議だろうと諦めて礼をすると、角田さんは柔和に微笑んだ。
「ご用件は?」
「ロットバルト卿に力を借りたいんです……。時間がありません。モイラが……」
「モイラがどうしたのだ?」
教会の鐘を後ろに、中性的な声が廊下に響く。かつ、かつと堂々とした革靴の音は勇ましく、繊細な線のシルエットが会議室のある方から現れた。それはもう、奇跡としか言いようのないタイミングだった。
「ロットバルト卿。モイラが攫われました。恐らく、シゲルにです」
卿は眉をひそめる。シゲルに攫われた、という事実が実感しにくいのだろう。僕はなるべく簡潔に事のあらましを伝える。時間がないから自然と早口になる。何の意味もないことは分かっているのに。
「そうか。分かった。スミダ、次の会議は何時からだ?」
「御昼食を取られないのであれば40分程御座いますが」
「ありがとう。五分前に帰ってこなければ陛下に伝えてくれ」
「畏まりました」
手際よく上衣を着ながら、角田さんに対して指示を出す。僕はその間すら惜しくてしきりに出口に目を向ける。服を着て、護身用の剣を身につけると、卿は早足で階段を降りた。本来ならば、宮廷の廊下を走ることは許されないのだ。
次々に貴人たちの紋章が通り過ぎていく。卿は急用に足を速める間さえも、一切礼節を怠ることがない。ルシウスにも見習ってほしいものだ。
やがて宮廷の外に出ると、ロットバルトは速度を緩めないままで僕に問いかける。
「どこにいるのかはわかるのか?」
僕は首を振る。
「ラビンスキーさんは、あてがある様子だっけど……」
卿は真っ直ぐ大公通りへと進む。町の人々は卿を見て手を振ったり、媚び諂っていた。それにも足を止めずに振る舞う額には、ほんのりと汗が滲んでいる。
「……ではおそらくビフロンスのところだろう。しかし……シゲルか。いや、私も心当たりがないではないんだ」
「モイラは絶対門限は守るし、意味がわからないことでもとにかくルールには従う。騙された時に、シゲルとも面識があるみたいだ。……恐らくだけど借金を返せないでいたんだろうと思う」
「……!そうか、モイラの居場所が分かったぞ」
ロットバルトは踵を返す。コランド教会の東側の、入り組んだ小路を進む。薄暗く、時折ゴミ処理場のような臭いを放った、ハエのたかった男の死体が回収されている様子が目に入る。そんな陰鬱な裏路地が枝分かれする道の先にはストラドムスがあり、そこからさらに東に枝分かれする細い道を進む。ここには下働きの若い小僧や金のない学生、隠遁生活を送る者たちが居を構えるような住宅街が広がっている。
路地裏の貧民街程ではないが治安は良くなく、警備兵がよく呼び出されている。また、奥へ奥へと進むと貴族が寄り付かないような低級の娼館が並ぶ区域があり、老くたびれた娼婦が主人に追い回されていた。僕たちはさらにその奥の小路を次々と経由して、城壁が見えるか見えないかというほど町の外側、ほとんど住所が使われないような悪路を突き進む。やがて見えてきたのは、周囲からは似つかわしくない、異様なほど厳粛な石積みの建物だった。
「ここ、は……?」
一目で危機感を感じる外観は、僕を焦らせるより先に恐れさせてしまう。入り口を囲うように二つの旗がなびいている。そこにはツルハシと太陽が象られていた。
「実のところ、軍法会議でも捜査をしようかと何度も話題に上がった商館でね。看板も掲げられているわけでもないから、何度も捜索してやっと見つけたんだが、いつも司教に邪魔されてしまってね……」
違法の「何か」を売っている店……なのだろうか。見ようによっては刑務所に見えなくもない。そんな風に考えて黙って見上げていると、卿が続けて言う。
「特許状もなく奴隷を売っているという嫌疑だ。商館の名前はわからん」
「ど、奴隷……?」
「……急ごう。手遅れになる前に」
卿はドアノブに手をかける。僕はモイラのことを案じながらも、震えが止まらない重い脚を懸命に動かし、建物の内部に入ったのだった。




