シゲルという男7
ラビンスキーが扉を叩くと事務員が顔を出した。汗だくのラビンスキーを見て憐みのまなざしを向け、中に案内する。恐らく借金取りに追われているとでも思われたのだろう。
執務室では先日とは異なり血色のいい職員たちが仕事をしこなしていた。壁にずらりと並べられた書架を何となく気にしながら、ビフロンスの書斎に向かう。外部からの脅威を気にしてか、扉には商談中という札がかけられており、普段は開かれている二十扉が閉ざされていた。ラビンスキーは貧乏ゆすりをしながら待機する。通り過ぎる従業員もおらず、廊下の先にある小さな額縁の中の肖像画と睨めっこするよりほかにない。それでも数分後には扉が開かれ、身なりのいい男たち二人が楽しそうに雑談をして通り過ぎていった。
男たちと軽い挨拶を交わしたのち、礼儀もわきまえずにビフロンスの書斎に駆け込む。男たちが驚き、失笑するのが聞こえる。威勢のいい風が書類を巻き上げる。机上を滑るように移動する複数の契約書に目もくれず、目を丸くするビフロンスに訴えた。
「モイラちゃんがいないらしい!」
口をぽかんと開けたビフロンス。書架に丁寧に並べられた書籍たちがラビンスキーに冷めた目腺を向ける。窓の先から鳥のさえずりが聞こえた後、ビフロンスは小さくため息を吐いた。
「……失礼ですが、ラビンスキー様。私たち悪魔はオリヴィエスに住む住民の有事に対応しているわけではなくて、私たちの管轄する世界から転生をなされた方の管理・保護を職務としていまして……」
呼吸を整えるラビンスキーに対し、ビフロンスは冷静な対応をする。彼は整えた契約書をネームの書かれたキャビネットに仕舞い、南京錠の鍵をかける。ラビンスキーは呼吸が落ち着きだしたところで、真剣な表情で言う。
「……シゲルが関わっているかもしれない」
ビフロンスの燕尾が揺れる。召し物の擦れる音と共に、金貨の擦れる音が微かに響く。彼はいつになく鋭い視線をラビンスキーに向けた。
「根拠は?」
「孤児院……孤児院だよ!」
ビフロンスは自分の作業机に座る。ラビンスキーには応接用のソファに座るように指示を出した。それは相手に対し権威をふるうしぐさに他ならない。堂々と上座に鎮座するビフロンスと、それを下座で見上げるラビンスキーの構図が整えられた。ラビンスキーは息をのむ。ビフロンスは空間を歪ませて分厚い書籍と皮ひもで結われた紙を取り出した。
「まず、シゲルは借金のかたとして得た子供を孤児院に送り、何らかの労働や人身売買に利用する。そして、そのために対象の持つ資産をできる限り搾り取る。それがあの時には砂糖であり、マッツォ・ニーアを活用して町を点々と移動する理由である。そして、教会との癒着は稼業の継続と密輸、孤児院を経由したビジネスのため。そのために、寄付を利用している。勇者シゲルが不正に獲得した金銭は、マッツォ・ニーへ出資、マッツォ・ニーアから寄付金として教会、教会から孤児院、孤児院からさらに「何処か」へ、「何処か」から勇者シゲルを経由してマッツォ・ニーアへ。個人の財産としないのは節税のため……ラビンスキー様の見解はこうですね?」
ラビンスキーは静かに頷く。大量の収入は人身売買や寄付として教会に贈呈した毛皮入りの聖像の密輸で獲得したものであり、不正な「記録」を残さないで資金を洗浄する。シゲルにとってのメリットは計り知れないし、教会にとっても大金が転がり込むのだから無下に扱うようなものではない。ビフロンスは分厚い書籍を広げ、他の雑多な書類を除ける。続けて、銀の燭台、銀のナイフ、銀の錫杖を続けざまに運ぶ。彼は優雅な足取りで部屋中から素材をかき集めている。
「ラビンスキー様、法陣術は出来ますか?」
ビフロンスは紙を広げながら尋ねる。周辺の地図のようだが、文字が薄い。続けて銀の杯を取り出し、ナイフで自らの指を切る。思わず立ち上がるラビンスキーを真顔のまま制止し、どくどくと滴る血をワインと混ぜる。鈍色のワインと鮮血がマーブル模様を描き、やがて一体となる。ビフロンスは血塗られた手を指揮者のように動かす。ひとりでに分厚い本が浮かび、指に合わせてパラパラとページがめくられる。 目次の3ページ目で一瞬動きが止まり、そこから高速でページが送られた。呆然とするラビンスキーに非難の目が向けられる。ラビンスキーは慌てて答えた。
「あまり……。ルシウスを呼んでこようか?」
「わかりました……私の指示に従い、法陣を作成してください。我々の世界の悪魔を呼び出しましょう」
ラビンスキーは息を飲む。初めに白紙の紙がラビンスキーの机上に置かれ、その上にかき集められた素材が周期的に配置される。最後に、浮遊している分厚い本が眼前に移動する。ラビンスキーが本を見ると、不可思議な法陣が書かれていた。ビフロンスは地図の上で作業を続けながら、目も向けないで本を指差す。
「その法陣を書いておいてください」
ラビンスキーは頷く。ビフロンスは手際よく机上に設けられた魔術用の祭壇を設置している。ラビンスキーも法陣を作成する。
慎重に模写された法陣は複雑な魔術回路などはなく、幾何学的な文様と文字の羅列で作られていた。
「できたよ!」
「よろしい……」
ラビンスキーの組み立てた法陣を確認したビフロンスは、銀のナイフを取り出す。それを自分の胸に突き刺し、パックリと体に穴を開けた。その穴に手を突っ込んで体内を弄る。ラビンスキーは驚きのあまり口をパクパクさせながら、どくどくと滴る血が床に落ちる様を眺めている。ある程度深い所で弄る手が止まり、二、三度それを触って確認すると、それを顔を歪めて力任せに引き抜いた。
溢れ出す鮮血が部屋のあちこちに飛び散り、生臭い臭いが充満する中、ビフロンスは手を持ったそれを法陣の中に放り込んだ。ラビンスキーは思わず仰け反る。それは紛れもなく、「男児の心臓」だった。
「では、これより呼び出しますので、おかけになってお待ちください」
ビフロンスは体の穴を魔術で無理やり塞ぎながら法陣の前に立った。床に滴った血糊がべちゃべちゃと音を立てながらビフロンスの元に戻っていく様は、奇跡というにはあまりにも禍々しい。
ビフロンスはラビンスキーの知らない言語を唱え始める。脳内で文字に書き直すと、それは恐らくラテン語らしい事は理解できた。放り込まれた心臓がみるみるうちに萎れていく。心臓が弱るのにしたがって法陣がみるみる禍々しい光を帯び始める。紫とも赤とも取れない、混沌とした光の壁はやがて法陣を包み込み、ガタガタと音を立てる机は震え上がっているように見えた。やがて心臓が見えなくなるほどに強くなった光は、天井まで届く。光をあげてガタガタと震える机上には、人ならざる何かの影が微かに見えた。
ビフロンスの肉体が欠損を補填する頃、光が収まり、「異形」の姿が顕われた。
肉を極限まで絞り落としたガリガリの体に、異様に突き出た腹が存在感を引き立てている。龍が鱗を削ぎ落とされた様な皮膚は爛れており、焦げ茶色をしている。目は小さく、白く濁っている。歯もない口は貧相極まりなく、頭上にもそれらしきものがあった。二足歩行ではあるが足が体を支えられる様には見えない、弱々しいが恐怖を唆る化け物だった。
「ソロモンの72柱は46番、ビフロンス、召喚に応じ、馳せ参じました」
恭しく礼をしたそれは、思いの外高い声で言った。
「え、ビフロンス?」
ラビンスキーが思わず尋ねると、白濁した眼がラビンスキーに向けられる。
「えぇ、ビフロンスと申します。ご存知でない?まあ良いでしょう、手短に要件を伝えなさい。こんな中途半端な法陣を書く無礼者と顔を合わせたくは……」
異形は視線を隣に向ける。ビフロンスが顔を隠して項垂れている。異形は再びラビンスキーを見た後、淡々と答えた。
「なるほど状況が理解できました。悪魔の面汚しが」
彼はビフロンスを軽く小突き、頭を上げさせる。ビフロンスは慣れた様子で頭を下げた。
「申し訳ございません!でも、今回は僕にはどうしようもできないんです!」
「宜しい、その件に関して見解を述べなさい。一言一句違いなく、解釈いたしましょう」
ビフロンスは異形を気にしながら簡潔に状況を説明する。異形は真剣に耳を傾け、時折的確な質問を挟む。
(まるで上司と部下だなぁ……)
「そこの人間よ、一応説明しておきますが、我々悪魔は概念ですので、ここに存在するとも言えるし、存在しないとも言える。複数存在する事は何ら問題ありません。……あと、できれば法陣を消していただけないでしょうか。これがあると移動できません」
ラビンスキーにナイフを手渡す。羊皮紙を削り外周を消すと、窮屈そうにしていた異形が外に出てくる。
「宜しい。ではさっそく向かいましょうか」
そう言ってスタスタとドアの前に進む異形をビフロンスが呼び止める。
「お待ちください。パニックになるかもしれないので、できればフィルターの方を……」
語尾は小さく、遠慮がちだった。異形は頷き、体を一回転する。一周した頃には、ビフロンスと同じ姿になっていた。そして、ラビンスキーの顔を見上げながら、抑揚のない声をかける。
「では、参りましょうか。肉よ、地図情報を逐一伝えなさい」
ビフロンスは頷く。異形は了解を得たと判断したのか、さっさと部屋を出て行ってしまった。




