傾いた十字架3
「それで、シゲルの正体がわかったんですか?」
ラビンスキーが改めてパイモンに尋ねる。パイモンは扇をパチパチと開閉させながら頷いた。ラビンスキーは期待の目を向ける。パイモンは首を持ち上げ、ラビンスキーの瞳を見おろす。続けてラビンスキーの鼻の頭へ、さらに興奮気味のアツシへと視線を移す。
「……ふぅ。時に、お前」
「はい?」
アツシは声を上ずらせる。
「そこな男、それは『何』じゃ?」
パイモンはラビンスキーを指差す。アツシはラビンスキーと顔を見合わせ、首を傾げた。
「ラビン……」
「何かと聞いておる」
「何……?何……?人、ですか?」
「人とは『何』じゃ?」
「……はい?」
部屋は広いばかりで静まり返ってしまう。ラビンスキーは居心地が悪くて口を挟もうとするが、体が震えて言葉が出なかった。
沈黙の中、食事が運ばれる。皿の上が花園のように彩りで溢れている。鮮やかな赤、黄色、緑のコントラストが美しい。色味一つ一つが食欲をそそる。
パイモンは大した感動もなくそれを口に含む。未だに回答を待っているらしく、なかなかアツシから視線を逸らさない。アツシは恥ずかしくなったのか、とうとう頭を下げてしまった。
「では、中年の男よ。どうじゃ?」
「えっと、ホモサピエンス?」
パイモンは目を細め、思い出すように視線を天井に向ける。暫く黙って天井を見上げていたが、結局は眉をひそめて首をかしげた。
「なんじゃそれは?」
ラビンスキーは回答を誤ったことを察したものの、純粋な疑問であることはすぐに分かったため、とりあえず答えておく。
「人間の学名です」
「難しいことを言われてもわからぬ。こう見えて生前はこれじゃ」
パイモンはこめかみのあたりで指をくるくると回す。ラビンスキーは「はぁ」と気の抜けた返事をした。
パイモンの前に置かれた皿が空になると、ウェイターが料理を運んでくる。料理に手を付けていないラビンスキーは急いでそれを口の中に放り込む。ウェイターは何も言わずに柔和な笑みを浮かべているが、内心では如何にも可笑しそうにしているだろう。
配膳が終わり、ウェイターが部屋を後にすると、パイモンは銀のナイフを優雅に操りながら話を戻す。
「そもそも……人というものは人が定めた概念に過ぎぬ。世界は人を以て生まれたわけではないが、人がなければ世界と呼ばれるものはない」
おいしそうな肉を口に含む。そのフォークでそのままラビンスキーを指し示す。審判を下される壁画たちも、ナイフの先を見つめるようにして救いを請うている。
「その、シゲルという男も同じ。概念じゃな」
「概念……」
ラビンスキーが無意味に繰り返す。知ってか知らずか、パイモンは頷いてフォークを下ろす。
「肉を持つならばよい。概念であろうと存在しうるからの。しかし、受肉しない概念はそうではない」
「受肉しない概念?」
パイモンが足を組みなおす。脚の動きが背の高さをより強調させる。
「左様。私達悪魔も本来は肉を持たぬ概念に過ぎぬ。要するに人を前提とした概念じゃ。これも同じ。本来は肉を持たぬ概念が、何らかのきっかけで肉を得たのであろう」
パイモンはサクサクと肉を口に運ぶが、ラビンスキーは目が離せない。そもそも、本来から肉体を持っているラビンスキーが肉を持たない概念なるものを理解すること自体が難しいのだ。今食事を口に運んでも、咀嚼しても味がしないような気がした。彼は虚しく口の中に溜まった唾液を飲み込む。アツシは気にしている風でもない。ただ眼前の欲望を満たしているらしかった。
「そして、どの様な概念なのか、が気になるだろう。未だ可能性は無数に存在しうるが、私見を述べよう」
今まさに飲み込んだ唾を再び飲み込む。パイモンはラビンスキーの喉仏が動くのを勝ち誇ったような顔で眺め、唾が通り過ぎると同時に口を開く。
「まず、私が知りうる限りにおいて、その姿の在り方を考察してゆく。概念が肉を受け、見る者によって姿を変えるのは、それが各自の認識によって大きく異なる―いわばファジーな―概念だからじゃ。で、あるからには、その者が受けた印象が重要な意味を持つわけじゃ。さて、まずはお前だが、好青年ということはそれに対してある程度好意的に見ているものと推察できる。続いて村娘については、牧師。これは恐らく村の中心である教会の印象が強いのであろう。これも比較的好印象な例じゃな。次にお前の所の同業者が見たという醜悪な男についてじゃ。相当悪印象を持つ概念のようじゃな。一方で博士が見たものは幼子、つまり愛玩の対象じゃな。理解しがたいが、まぁ、好印象なのであろう」
パイモンが扇を鳴らすたびに、シャンデリアの火が揺れる。白くきめ細やかな肌に乗る陰が揺れる。審判の絵画に囲まれた静謐な部屋は不敵な笑みと相まって、不気味な雰囲気を醸し出している。
「これだけ多様であると判断に困るところではあるが、結論としては畏怖・畏敬の象徴じゃ。例えば……」
配膳されたばかりの紅茶に角砂糖が落とされる。その甘美な音だけで反射的に涎が出るほど、ラビンスキーもアツシも甘味に飢えていた。パイモンは当然のように豪快に砂糖を溶かし込み、二、三度に分けて少量を啜る。音もなく吸い上げられる紅茶はまるで進んで唇に吸い込まれるようだった。パイモンの口角が上がる。ラビンスキーは思わずため息を吐いた。
「シゲルは神s……」
瞬間ラビンスキーの視界が歪む。一瞬意味が分からないまま地面の上でパイモンを見上げていた。彼女の顔は先ほどまでの妖艶な微笑みではなく、鬼のような形相だった。先ほどの獣の腕がラビンスキーの座っていた席を陣取っている。
「無礼者!私の前で何たる冒涜!お前も又そうであるように、それは一柱しかないわ!」
(床の上が熱い……)
ラビンスキーの頭から血があふれている。見れば、床の上に脳の様なものが散乱していた。意識が全く保てず、視界も暗くなっていく。続けてパイモンのヒールがラビンスキーの顔めがけて蹴り降ろされる。それがラビンスキーのもとに到達すると、先程までつながっていた首と胴体が完全に分離した。隣のアツシが歓声ともとれるような悲鳴を上げる。ヒールはさらに腹を軽く突く。一瞬クレーターの様に腹が抉られたものの、次の瞬間にはラビンスキーの姿は席についていたそれと同じ物に戻っていた。
「これに懲りたら二度と非礼を犯さぬことじゃ!次は命はないぞ」
ラビンスキーは訳が分からないまま、唇を震わせる。涙目を自分の席に向けたが、そこに先程のけものの腕はなくなっていた。ただ、隣の席にいたアツシが荒い息遣いで恍惚としているようだった。彼は暫く床の上で寝ころんでいたものの、結局ふらふらと立ち上がって席に戻った。先ほどまで極上の食材に映った肉に、突然妙な親近感を覚えた。
「……まぁ、こればかりは断定はできん。詳細な結果が分かり次第、ビフロンスが動き出すであろう。それまでは、無理に不審な動きなどは控えるべきであろう。果報は寝て待てともいうしの」
席についたパイモンは、どこから現れたのか分からない毛むくじゃらの化け物にハイヒールを丁寧に拭わせながら続ける。ガタガタと小刻みに震えるラビンスキーを見て、鼻を鳴らした。
「今のお前にできる事は料理が冷めないうちに食べるだけじゃ。ほれ、遠慮せず食え」
ラビンスキーは恐る恐る口にする。先ほどの惨状を体験して、味覚がうまく働くはずもなかった。結局食事を終えるまで、震えが止まることは一度としてなかった。




