傾いた十字架1
ラビンスキーは公証人館を訪れていた。事務所にはそこそこの人間が作業をしており、みな青白い顔で書類をまとめている。
(わざわざ休日にお勤めかぁ……)
受付に用件を伝えると、余りにも簡単に通された。ラビンスキーは違和感を覚えながら、ビフロンスの書斎へ向かう。ノックを二回すると、はい、という透き通った声が聞こえる。ラビンスキーが名乗ると、直ぐに扉が開く。
「あぁ、お待ちしておりました。どうぞ」
不健康な白髪が丁寧に整えられ、几帳面に真ん中で分けられていた。あまり手入れされていない普段とはやや印象が違って見えた。
「失礼しま……」
ラビンスキーはビフロンスに礼をして部屋に入る。そこで眼前に見覚えのない女性が座っていることに気づく。女性は堂々と上座に座り、ロングドレスで隠れた脚はしっかり揃えられている。それに対して退屈そうに肘掛けに肘をかけて姿勢を崩しており、伏し目がちに外を見る様は非常にセクシーだ。ドレスは黄色で統一されており、襟元や裾から僅かに覗かせるフリルも品があり、まばゆい黄金を思わせる。
蠱惑的な長い睫毛が初めてラビンスキーを捉える。ラビンスキーは緊張しきって頭をさげる。女は興味なさげに鼻で笑い、視線を逸らした。虚しく空に頭をさげるラビンスキーの後ろに、ビフロンスがかけてくる。
「あぁ、ご紹介致します。こちら、地獄の王にしてソロモン72柱が9番、パイモン様です。因みに、僕の直属の上司にあたりますね」
ビフロンスはニコニコとしながら紹介を始めた。ラビンスキーは「よ、宜しくお願いします」と頭を下げる。パイモンはそっぽを向いたまま鼻を鳴らすばかりで、無関心といった様子だが、不機嫌そうにも見えた。
「どうぞお掛け下さい。あ、お飲み物の方お運び致しますね」
「あぁ、お構いなく」
ラビンスキーが答えると、ビフロンスは既に優雅な足捌きで飲み物を取りに行っていた。
静かに扉を閉める音が響いた後には、部屋には音一つない。ただ、微かに外から聞こえる笑い声が聞こえるばかりである。ラビンスキーは古本とインクの匂いがこびりついた椅子に腰掛ける。普段はごつごつとした木の椅子だっただけに、皮と羽毛で尻が包み込まれるのはそれだけでも気分がいい。執務の途中なのか、作業机の上に置かれたペンの穂先は外部の光を反射して輝いていた。
「い、いやぁ、突然すいません」
ラビンスキーが言うと、パイモンは鼻で笑う。視線は動かさないままで足を組み、口を開けたようにも見えた。
(気まずい!)
ラビンスキーは行き場を失った笑顔を下に向ける。
「進捗はどうじゃ?」
パイモンは姿勢を崩さずに訊ねる。
「は……?と、言いますと?」
「特例法のアンケートに決まっておろう。何か思うことがあるか?」
パイモンが初めてラビンスキーに視線を移した。長い睫毛が鋭い流し目にさらなる迫力を与える。ビフロンスの机の上から聴取用の用紙がバサバサと動き始める。ラビンスキーは思わず姿勢を正す。
唐突にパイモンの背後から足のない毛むくじゃらの獣が現れる。獣は一つ目で、人間の目によく似た巨大な眼球は縦に長い。のっそのっそと細い腕を使ってラビンスキーの隣に腰掛けると、飛んできた用紙を器用に掴み、ペンを取り出し、よく分からない年月日、担当者の名前と、ラビンスキーの名前などを記入し始めた。
「え、えーと、私自身は非常に満足しています。こちらの方も部外者の私に優しくしてくれますし、この町のために働いている間は、普段とあまり変わらない仕事も出来ています。ちょっと不便なところもありますが、その辺りは特段気になりませんね。ただ……」
ラビンスキーが口ごもる。隣でサラサラとペンを器用に動かす獣も、合わせてその手を止める。パイモンは細い眉を寄せている。
ラビンスキーが黙っていると、扉が開き、ビフロンスが入ってくる。手には古風な手動式のタイプライターを持ち、後ろには紅茶を運ぶ青ざめた男を連れている。ビフロンスは毛むくじゃらの獣と目が合うと、タイプライターを机に叩きつけるように置いた。
「パイモン様!何で先に進めちゃうんですかぁ!」
ビフロンスの見たこともない焦燥の表情を見せる。
「時間の無駄だからのぉ」
パイモンは呑気に答える。青ざめた男の盆から紅茶を受け取ると、大量の角砂糖を放り込んだ。ビフロンスは顔を真っ赤にする。
「駄目ですよ!署名が二つないとパイモン様が怪しまれますからね!」
「何故?私が美貌で惑わすとでも?」
(あ、自分で言っちゃうんですね……)
「圧迫、脅迫、詐術云々、色々理由付けられて追及されたらどうするんですか!ベリアル様に煽られますよ!」
「不愉快な名前を出すな」
パイモンは澄まし顔で答える。ビフロンスはむすっとしながらパイモンの隣に腰掛ける。タイプライターも自分の前に移し、大きな溜息をつく。
「あぁぁぁ……うんもぉぉぉ……」
絞り出すような怒りが何となく子供っぽく映り、ラビンスキーは思わず顔がほころんだ。疲れ切った表情でビフロンスは頭を下げた。
「ごめんなさい、ラビンスキー様……。こちらも事情がありまして、証人が必要なのです」
ラビンスキーは同情しながら首を横に振る。不思議なことに書架が疲れたように埃を吹き出した。ビフロンスは頭を上げると、タイプライターに紙を挟んで準備を始める。パイモンはつまらなさそうに頬杖をついている。
「パイモン様、誓約書はお渡ししましたか?」
「ん?私が書いたが?」
ビフロンスは目を丸くする。パイモンは悪びれる風でもなく爪磨きに精を出し始める。みるみるうちに顔を真っ赤にするビフロンスに、ラビンスキーですら思わず吹き出しそうになる。
「誓約書って言ってるんですから一人で書いちゃダメでしょう!」
ビフロンスは急いで空間を歪ませて書類を引っ張り出す。空間の歪みは紙を引っ張り出して直ぐに元に戻ったが、ビフロンスの表情は怒りに染まったままだった。ビフロンスは自分の署名をし、ラビンスキーの前に誓約書を差し出した。自分に回ってくるものと手を伸ばしていたパイモンは不満そうにビフロンスを睨む。ラビンスキーは躊躇いつつも、筆を手に取った。
「ラビンスキー様、先ほどからご迷惑をおかけして申しわけありません。こちらの誓約書を良くお読みの上、御承諾いただけましたらご署名の方お願いします」
ラビンスキーは目を通す。このアンケートで扱う個人情報については、このアンケートに関することに限られることなど、ごく一般的な規約が記されていた。ラビンスキーはサラサラと署名すると、パイモンに手渡す。パイモンは不機嫌そうに受け取り、スラスラと署名した。ビフロンスがそれを確認し、誓約書に蝋で印章を押すと、やっと普段の柔和な表情に戻った。
「ふぅ……。では、早速始めていきましょうか。まずは現在の職業と職場環境についてお答え下さい」
ラビンスキーはパイモンを一瞥する。何か言おうとしたのだが、話がこじれそうなのでやめておくことにした。
「都市衛生課の公務員です。職場環境は良好で、少し考え方の違いがあることはありますが、非常にやりがいのある仕事です」
ラビンスキーが口を開くのに一拍遅れてタイプライターが叩かれる。非常に正確かつ迅速で、子供だと侮っていたわけではないが、思わずギョッとする。
ありがとうございます、そう言って改行をする。
「それでは、住環境についてはどのようにお考えですか?」
「冬に凍えるので、暖炉は欲しいです。あとは最低風雨を凌げるので助かっています」
「なるほど、ありがとうございます。では、貴方の余暇の生活についてお伺い致します。普段どのようなことをされていますか?」
「講義を受けています。魔法に関する勉強です」
「ありがとうございます。では、『特定死亡者に対する異世界転生の特例に関する法律』について、気になる点がございましたら、お聞かせ下さい」
「私自身の生活は充実しています。しかし、子供に対する保障があまりにも希薄すぎるように思えます。ですので、もっと職種の範囲を広げるとか、そう言った対策は必要だと思います」
「……ありがとうございます。アンケートは以上になります。ご協力、ありがとうございました」
そう言ってビフロンスは頭を下げる。事務的で血の通わない応対にも思えるが、丁寧かつ簡潔、迅速な対応が悪いはずがない。パイモンはすこぶる不機嫌そうであったが、ラビンスキーには大して気にならなかった。ラビンスキーはポケットの中にある紙を掴む。紙は音もなく縮こまり、大した事もないように見えた。
「あの、さ……ビフロンス」
ビフロンスは言葉を手で遮る。ひとりでに書棚から本がいくつか飛び上がり、机の上に乗せられる。
「ご協力の御礼として、私達がお食事を奢りましょう。きてくれますね?」
ビフロンスは笑顔だったが、その目は笑っていなかった。ラビンスキーは重ねられた本を見る。本に何か仕掛けがあるわけではないらしい。パイモンは書棚に囲われた部屋を見回す。ひとしきり見回した後で何かを察し、嬉しそうに目を細めた。
「かかか、舐められたものよ。……ビフロンス、案内せよ」
「はい」
「あ、あの、アツシが……」
ラビンスキーが断りを入れようとすると、ビフロンスは思い出すように天を仰いだ。
「あぁ、そうですね。呼びましょうか」
悪魔たちが立ち上がり、部屋から出て行く。ラビンスキーもその後を追った。
 




