世界の端から1
瞼に霜の感触が触れ、朝の優しい陽光が肌を照らす。目を覚ませば広がるこざっぱりした村の景色は如何とも言い難い寂寥感がある。
僕は体を起こし、茣蓙ひとつない家の扉を開いた。村の集会場には男たちは談笑をしながら罠で獲った狼達を運んでいる。狼の毛皮を鞣す女性達はあかぎれまみれの手で懸命に仕事をこなしているが、男達は僕を見るなり、嬉しそうに手を振った。
「おーい!ユウキ!大漁大漁!」
「狼の数は減ってるみたいです。じきに森に帰ってくれると思います」
僕は着崩れたコートを整えながら彼らに近づく。狼達は全部で四匹で、力なく項垂れている。
まず初めに僕がやらなければならなかったのは、狼達に行路から離れてもらう事だった。元々いなかった狼が行路付近でうろつき始めた原因は、恐らく今まで少なかった人の往来のお陰だろう。身一つで仕事を求め、ムスコールブルクへ向かった若人達は、初めは偶々狼の餌になっていたのだろう。やがて狼達はここにいればしばらく餌に困らない事に気づき、繁殖の中心地を行路のど真ん中に決めた。そして、狼はしばらくこのテリトリーを支配するようになった。狼が不自然に繁殖したのも、健康状態が改善したためだと理解できる。
しかし、行路を塞がれてはどうやっても村に物資は届かない。そこで、狼にとって行路を「危険な場所」と認識してもらう必要があった。そこで、僕が索敵魔法で安全を確認しつつ、村人と大小様々な罠を仕掛けて、狼の数を減らしつつ、成果を食事に充てる事にしたのだ。
絶望的な数の狼はやがて数を減らし、遂に主たる狩場を変えてくれたようである。
「あとは穴兎や鹿を狩れば、食事はなんとかなるのかな……」
僕が呟くと、如何にも田舎者といった容貌の男が楽しそうに言った。
「おいら肉ばっかでもう飽きたっぺ〜」
「パンがくいてぇなぁ!鞣し革売るかぁ!」
「どこで売るだ?」
「そりゃイチバよ!なぁ、ユウキ?」
「どうやって市場に行くのさ……」
この村はムスコールブルクに近いとはいえ、それでも徒歩では一日はかかる。行けないことはないだろうが、この辺りの寒さは我慢とかそういった生易しいもので誤魔化せるものでもないので、せめて屋根は欲しいところだ。
僕らが談笑していると、ごとごとと油の注がれていない車輪のような音が聞こえてくる。特に気にも留めずに話していると、今度は雪崩れるような落下音が響いた。
一同が何事かと振り向くと、そこには大量の箱に囲まれた少女がいた。
「えっと……大丈夫?」
ユウキは尋ねる。村の一同は愉快そうに笑いながら、やれ不注意だ、不眠だ、などとはやし立てる。
「いたた……たは。大丈夫です……」
少女は恥ずかしそうに笑いながら顔を上げた。髪は亜麻色で、美しいというよりは不快感がない、という程度に整えられている。ポニーテイルの下から覗く首筋は白く、村であちこちを駆け回っているような感じではない。民族衣装の長いスカートが引っ掛かったのか、裾に踏まれたような汚れがある。少女は木箱を拾い上げて、騒々しく立ち上がった。
「持とうか?」
「たは。大丈夫、です」
彼女はそういって勢いをつけて持ち上げるが、箱はグラグラと揺れながらバランスを崩し、立っているのがやっとのようだった。
「じゃあ、半分、持たせて」
「えっと、大丈夫、です」
少女は申し訳なさそうに言う。僕は溜息をついて少し考えた後、箱の中間地点辺りを指さす。
「重さ測るだけだから」
少女は持ち上げるのも辛いらしく、姿勢をみるみる低くする。僕はちょうど箱の数が半分になるように持ち上げる。結構な重さだったため、倍の数を持ち上げる少女の腕力に思わず我が目を疑った。
「ほら、どこ?」
「えっと、こっちです」
少女は急に軽くなった為なのか、スタスタと早足で道を歩いていく。僕は少々面食らったが、周りの目線が妙に生暖かかったため、逃げるようにその場を後にした。
障害物の少ないこの村には、道を歩くという感覚があまりない。そのため、人々は堂々と道の真ん中を大股で歩き、時折背後の人を気にせず立ち止まって世話話などをする。少女もほかの村人と違わず、未知のど真ん中を悪びれるでもなく歩いていく。僕は道の右端から彼女が疲れていないかを確認していたが、時折肩を持ち上げて欠伸をしているさまを見ると、この生活が日常茶飯事なのかもしれない。
結局村の端にある朽ちた柵のすぐ手前の、人が住みそうにない廃屋まで歩かされることになった。
「荷物、ありがとう。ここに置いてください」
庭先に荷物を置いた彼女は、服を払いながら言った。僕は彼女のすぐ隣に荷物を下ろす。鉛で縛り上げられたような腕が解き放たれても、感覚はうまく戻らなかった。
「よいしょ……。こんなもの、よく持とうと思ったね……」
僕が何気なく言うと、彼女は頬を赤らめて頭を掻く。
「たは。私は、石と草をたくさん集めてるんだ」
「石と草?」
僕は痺れた手を振りながら尋ねる。今にも崩れそうな家屋は、少女を飲み込もうとうずうずしていた。
「んだ。石と草で、お父さんを治すの」
村の方言が出るのを気にしているだろうが、標準語に若干無理がある。発音がやや訛っている。僕は竿立てのすぐ近くに放置された丁度よい高さの木箱に座り、痺れが収まりだした手をだらんと垂らした。
「石と草?そんなもので治るの?」
彼女は嬉しそうに頷き、教会を指さした。
「牧師様がね、教えてくれたの。私のおっとお……お父さんは病気だからって」
「ふぅん……」
教会という場所を信頼していない僕は、目を細めて鐘楼の先端を眺めた。コランド教会よりも相当小さく見えるが、それでも村で唯一と言っていいほど痛みのない建物である。教会には珍しく、小高い丘からなら見おろせそうな平らな建物だった。
「それで?どうやって治すの?」
僕は意地悪と知っていて聞いてみた。彼女は自慢げに鼻を突きあげ、胸を張って見せた。
「石を丸く削り、これで草を摩り下ろす。水気が染み出して繊維がほぐれたら、この草を飲ませる!最後にこの、ひきつけの祝詞を唱え、これを三回繰り返す。そして、それでもだめならこのお札を飲むの。有り難い聖人の祝福が込められているんだって」
「ふぅん……それで、よくなったの?」
効くはずがないことは分かりきっているが、ここで教会を愚弄しようものなら何をされるかわからない。宗教とは、人の心の穴を埋めるのには役に立つが、人の心を凝り固まらせるのにも、酷く役に立つものらしい。
少女は先ほど置いた箱をちらちらと見る。身振りがぎこちなくなるということは、要は良くなっていないということだ。箱は黙って彼女の答えを待っているが、彼女はひきつった笑顔で誤魔化した。草木は箱を恨めしそうに見上げているらしかった。僕は何となく確かめてみたくなる。
「見せてよ、治療法」
「ん、だ。お礼に見せたげる」
そういって彼女は廃墟同然の建物の中に箱を運び込んだ。僕も箱を運ぶのを手伝う。ここの重みはそれほどではないのだが、底に石を敷き詰めた箱の不可解な重圧は非常に持ちにくい。三往復して、僕らは運んできたものを一通りしまい込んだ。
彼女は汗を垂らし、床の間で青ざめた父親の傍に座る。ろくに掃除もされていないのか、独特の刺激臭がする家の中で、濠の深い父親の顔は一層恐ろしく思える。手元には木製の不格好な器を持ち、石を削った手は削りかすで真っ白になっている。それが仄暗い家の中では一層明るく不気味に映り、穴の開いた天井から差す光が枕元を斜めに照らす。彼女は唾を飲み込み、手に持った器の中身を確かめる。僕も隣から彼女の邪魔にならないように覗き込んだ。雑草の緑は輪郭だけが確認できる程度で、不格好な器の作る歪な凹凸が深淵をよりおぞましいものにしている。僕は髪の上から右目を軽く摩る。重ならない視界がすり鉢の草を確かにとらえていた。
「……行きます」
彼女は緊張した面持ちで削った石で草を擦る。かなり慎重に擦り合わせているらしく、右目の中では石を持つ手が震え、少し血管の筋が浮き出ていた。暫くすると額の汗がゆっくりと頬を伝い始める。彼女は目を細め、苦しそうに小さく喘いだ。
「っ……」
一言でいえば違和感、同時に危機感を感じた僕は反射的に彼女の手を掴む。彼女は不思議そうに僕を見た。僕は草から目を離さずに、彼女の手をゆっくりと持ち上げる。
「これ、毒草じゃない……?」
「……え?」
僕は食用の野草についての知識はあるが、薬草の知識はない。しかし、普通の薬草を調合する際にこれほど苦しそうに顔をゆがませる人を見たことはない。間違いなく、この草には何かがある。微かな妙薬の匂いが、深淵のような床の間を漂う。それは僕らを蠱惑するような甘い香りにも思えたし、酷く辛い山葵のようにも思えた。
「これを仕入れたのは教会?」
彼女は僕を見る。息遣いが分かる程、近くに顔があった。僕はそのすきを見て器を優しく奪う。外から積雪の崩れる音が聞こえた。
「教会……です……」
僕の右目が泳いだ。
「嘘だね。教会じゃない。君が教会で買ったのは、そのひきつけの呪文と飲むお札だけだ」
彼女が目を逸らす。僕の右の視界には、眠りにつく彼女の父親の姿があった。
「……自分で採ってきたの?それとも誰かから買った?」
「青い……鎧の……牧師様が……剣と、十字架を持っていて……、あぁ、安息を、おっとうに、安息をっ……!」
「駄目だ、落ち着こう」
「教会の、鐘楼が、くぐもって……。迷える羊を導くと言って……おっとうを、連れていくの……」
「っ!」
肉付きの悪い僕を難なく突き飛ばした彼女は、突然奇声を上げながら走り去っていく。僕は毒草と思しきすり鉢を蹴飛ばし、彼女の後を追った。幸い、彼女は戸口でスカートに足をすくわれて倒れていた。
「たは。騙されたぁ……。私、牧師様に騙されたんだ……」
彼女は啜り泣き、泥まみれの顔を上げる。溶け始めた霜柱が作る泥濘から高く撥ね付けた泥は、転倒の衝撃の厳しさを物語っている。僕は体を起こす彼女を手伝う。彼女はなされるがまま僕に身を委ね、力を抜ききってもたれかかった。
「落ち着こう、落ち着こう。お父さんの病気はいつから?」
彼女は虚ろな目をしたまま僕を見上げる。無理に笑っているのが却って痛ましかった。
「一年、よくならないの。お祈りしても駄目、薬草も効かない……。みるみる痩せていくお父さんを救う方法をずっと探していて……ちょうどひと月くらい前に、毎日のように祈りを捧げた教会にいた不思議な牧師様に、この方法を教わった。もう、縋るしかなかった。言葉の意味もわからず……ただ信じて縋るしかなかった」
「馬鹿、人を直ぐに信頼するからだ」
彼女はたは、と独特の笑い方をして、目を伏せる。僕はゆっくりと彼女を歩かせ、木箱の上に座らせた。
「毒草かどうかは僕が確認する。あと、これからはその牧師に会わないこと。それと、お父さんに薬を飲ませないこと」
「でも……」
彼女は絞り出すように言う。僕は彼女の視界一杯になるほど顔を近づけた。あえて表情は変えずに、彼女の目だけを見る。彼女は観念したように、小さな吐息をつく。
「……おっとう、このままで死なないよね……?」
僕は少し距離を取り、彼女の正面に屈み込む。目線は合わせたまま、表情筋をゆっくりとほぐす。
「わからない。でも、今よりは良くなる、と思う」
村の景色は変わらず寂れ、のどかでもある。草が生えずに泥を押し固めた地面が凹凸を作りながら広場へと広がっていく。年端も行かない少女は、世界から切り取られたような村の端で、届かない祈りを天に捧げる。僕は追いかけるように天を仰ぐ。空はただ青く、いやらしい程煌々と輝く太陽の在り方に、ただ目を細めた。
 




