ああ初任給!いけません初任給!ああいけません初任給!ああ!
ラビンスキーの足取りは軽かった。手に持つ皮製の袋は行政府からの心遣いである。
月の半ばといえば誰もが待ち焦がれる給料びである。底辺八等官の給与所得などたかが知れているが、国が傾きさえしなければその生活は保障される。それこそが行政職最大の強みである。しかしラビンスキーの足取りを軽やかにさせるものは、単にそれだけではなかった。
貴婦人たちが往来する織物通りの一角に、古風な木造の店舗がある。そこは傘を作る工房であり、丈夫そうな木製の芯を作るごつい男たちの姿が垣間見える。その中には、親方と仲睦まじげに世話話を交わす少年の姿も見えた。ラビンスキーはつい嬉しくなり駆け足で二人に近づく。先に気がついたのは親方の方だった。
「申し訳ございません、お客様は……」
白髪の少年が振り返り、ラビンスキーの方を向く。
「あ、彼です。約束の方です」
「あぁ!そうでしたか!私は親方のアレクサンドルです。本日はどうぞ宜しくお願いします」
「ラビンスキーです。本日は、こちらこそ、宜しくお願いします」
ラビンスキーはアレクサンドルと握手を交わした。アレクサンドルがラビンスキーに席に着くようにジェスチャーすると、ラビンスキーはそれに倣って座った。
織物通りは普段から買い物を楽しむ貴婦人達が行き交う高級商店街だ。日傘をどれほど作り続けてきたかは判りかねるが、アレクサンドルの店はその中にあるには些か質素に思われた。石造の西方の店や白い大理石で囲われた立派な商会がある中で、黒塗りの木製の建物はよく目立つ。中に入ってもどこか汗臭いような掛け声と下品な笑い声が響き、ローテン・アルバイテを思わせる。
そんなロビーの一角にある革製のソファは、雰囲気に合わない立派なもので、鞣した皮特有のヒンヤリとした感覚が伝わる。ラビンスキーはなんとなく気持ちが大きくなり、少しだけ姿勢を崩した。アレクサンドルがガサガサと幾つかのサンプルを取り出して机の上に並べる。ラビンスキーも1つ1つを吟味するように眺めた。
1つは花柄の傘で、ラビンスキーには派手すぎるように思えた。また1つは白で統一された清潔感のある一品で、これもラビンスキーには眩しすぎた。更に続く赤や黄色の派手な色も、何処か派手すぎるように思える。
「あの、他にはどのようなものがありますか?もうちょっと地味で使いやすそうなものがいいのですが……」
そう言うとアレクサンドルは一瞬口を結んで見せたが、すぐに笑顔を戻した。ラビンスキーはなんとなく姿勢を正した。
「お待ちください。今幾つか持ってきますね」
そう言ってのっそりと立ち上がったアレクサンドルは、ロビーから消えていった。
アレクサンドルが見えなくなった後、ラビンスキーはビフロンスに耳打ちをする。
「ぶっちゃけどれくらい安くできるの?」
「はい、僕の顔が効いているので、卸値で買うことができます。正確にはいえば銀貨3枚分お得です」
ラビンスキーは思わずニンマリする。銀貨3枚といえば、価値でいえば金貨の4分の3、金貨は10万くらいだと聞くので、単純計算で七万円近い出費を抑えられることになる。
日傘を買うのは主に容姿を気にする余裕のある有力者であり、麻布の衣服を身に纏っても上から降ってくる便を堂々とかぶることができるような金持ちである。アレクセイにせよハンスにせよ、八等官と雖も官僚はある程度金に余裕のある家柄から出た人々であるため、良質の日傘を一本程度持っていたとしても、不思議ではない。その中で自分は無一文なのだから、少しはいいものを買いたいと願う気持ちもある。
これは見栄の問題であるし、気の弱いラビンスキーにとっては最後の見栄になるはずである事は疑いない。それ程、初任給というものは夢のあるものなのだ。
とは言え彼も四十を過ぎた中年である。頭を巡らせてそろばんを弾くことも決して忘れたわけではない。
これ以降の出費を普段通りの質素な生活で過ごせば、ある程度の蓄えになるはずである。ラビンスキーは普段ならとても手を出せないような自分への投資、その非日常を楽しんでいるに過ぎないのである。
蕩けた顔をしていたのだろう、ビフロンスも何となく嬉しそうにしていた。ラビンスキーは我に返って顔を振ると、小刻みな貧乏ゆすりをしながらアレクサンドルを待つ。まだかまだかとはやる気持ちを抑えることができず、何となく手持ち無沙汰になった腕を組む。木屑の擦れるむず痒い音がかすかに耳に届くと、いよいよかと胸が高鳴る。
アレクサンドルが扉を開く。その手には紺色や藍色の高価な染料で染められた日傘が何本も握られていた。
「お待たせしました。どうぞご覧ください」
ラビンスキーは再び傘に集中する。どの傘も良質のもので、ラビンスキーの初任給では手に届かないような代物だ。ラビンスキーが黒い物を手に取ると、アレクサンドルが首を横に振る。金貨一枚は下らないものなのだろう。ラビンスキーはそれを戻し、次々に傘を掲げてみせる。多くの傘が高価なもので、割り引くにしても手が届かないのか、アレクサンドルは一向に首を縦には振らなかった。
じゃあ何で持ってきた、というラビンスキーの心の声を察してか、アレクサンドルは申し訳なさそうに眉をひそめた。
「青は最近人気がありまして、良い青色は特に高いのです。安価なものはすぐに色褪せてしまいますので……」
ラビンスキーはビフロンスの方を見る。ビフロンスは黙って頷く。ラビンスキーはアレクサンドルに向き直った。
「どうにかなりませんかね……?」
「うぅむ……」
アレクサンドルは項垂れた。しばらくそのまま黙っていたが、結局は苦しそうに頷いた。
「1銀リーブルでどうですか……?通常の4分の1の価格です」
ラビンスキーは心の中でガッツポーズをした。実際には高額の取引であったが、割引率だけ見れば相当なものだ。店としては苦渋の決断だろう。
「お願いします」
ラビンスキーはアレクサンドルと握手を交わす。彼の引きつった笑顔には少々心が痛んだが、ラビンスキーにとっては生活のかかった重要な事項だ。アレクサンドルが何気なくビフロンスの方を見ると、ビフロンスは恭しく頭を下げた。それを見てほっとしたように微笑んだアレクサンドルは、ラビンスキーの銀貨と日傘を交換する。外には雪がちらつく中、ソファの前に焚かれた暖炉の炎が高く立ち登っていた。
「お世話になりました!」
ラビンスキーは大げさに頭を下げた。周囲の人々が引く程の大声は、煉瓦造りの壁に景気よく反響した。
「いえ、これも我々の仕事ですから」
ビフロンスは特段気にかけるでもなく、笑顔であしらう。ラビンスキーも、急速に静まり返る周囲の雰囲気を察して体を起こした。興奮して荒い息遣いになっていたラビンスキーは、大量の白い湯気を上げる。空は薄ら暗い雲がかかり、塗した雪の降り注ぐ様は巣立ちの過酷さを物語るもののように思えた。
「これからも末長いお付き合いをどうぞ宜しくお願い致します」
ビフロンスの言葉に合わせて、ラビンスキーは両手を振って返す。
「こちらこそ、お願い致します」
貴婦人たちが雨宿りをする呉服屋は満員となっており、その笑い声が今にも織物通りに響き渡りそうだ。
ビフロンスは頃合いを見計らったように、まさに貴婦人の如く踵を返す。
「さて、今日は休日、ルシウス卿に教えを請いましょう」
「そうですね、行きましょう」
二人はほんのり積もった雪の音を楽しむように踏みながら、織物通りを後にした。




