田舎のリベラリズム
土に霜が降られている、朝の貫くような冷たい香り。道端には枯れた雑草がまとめて置かれ、本来あるはずの麦穂はない。ラビンスキーは硬いベッドの上で目を覚ました。ひどく凝り固まった首をぽきりと鳴らし、大きなため息を吐く。ユウキは既に居らず、男たちのいない村は閑散としている。女たちは川で汲んだ水で洗濯をしたり、藁を編んで物を作っている頃だが、肝心の資本がないため、まともに仕事ができない。彼女たちは食事もままならず、子供に乳をやる母もなく、歩く老婆が杖をつく様を、どこか恨めしそうに見るだけだった。
ラビンスキーは彼女たちの仕事を考える。彼女たちが出来ることは文字通り山ほどある、しかし、この村に金はない。自分が都市衛生課の一職員に過ぎないことが、酷く悔やまれた。
上着を着て外に出る。ひとたび地面を踏めば、朝の寒さで寄り集まった霜柱がパリ、パリ、と音を立てる。薄ら白い土を踏みつけて、マルコフの家に向かう。
ラビンスキーがその戸を叩くと、マルコフが顔を出した。ラビンスキーがあいさつをすると、マルコフは扉を開けた。
「どうぞ」
二人はものが一切ない薄暗い廊下を通り、例のがらんとした部屋へ向かった。
座るところもなく向かい合って地面に座る。早速と言わんばかりにラビンスキーは荷物から資料を取りだした。マルコフは長い眉に埋めた細く鋭い目を開く。髭が所々撥ねていた。
「これが資料です。家畜の肥料同様、発酵させ、熟成させたものを利用します」
マルコフは資料に目を通すと、少し天井を見上げて蜘蛛の蠢く様を追う。蜘蛛は何処か眠そうにのそのそと動いたり、時折止まったりしていた。
「家畜の肥料と同じですか。それなら我々でも使えそうだ。ところで……」
マルコフは上目遣いにラビンスキーを見る。わざとらしく腰を曲げ、如何にも何かをねだるようにしながら眉を下ろした。ラビンスキーは二枚目の資料に目を通すように促す。マルコフは資料に再び目を通した。それを確認したラビンスキーは、指で文字を追いながら、再び解説をした。
「……我々としては人糞の処理さえできればよく、初期投資がなるべく安く済む方法を探しています。人糞も堆肥としての利用は十分できますし、家畜の糞と同様に栄養があります。種や発酵に必要な場所、輸送用の荷台などは、我々では準備ができません。また、ご協力いただくにつきましても、必要以上に回収される必要はありません。家畜の堆肥が十分であれば、わざわざお越しいただく費用を負担させることもありません。例えば、市場に卸すついでに、商人に買い付けを依頼するなど、無理のない方法で利用していただければよろしいかと思います」
マルコフは黙って資料を凝視する。かつて騙された時のことを相当警戒しているらしく、時折ラビンスキーを険しい目で見た。
「……御存知のとおり、この国は寒冷地にあり、乾燥した空気や、痩せた土も災いして、古くから畑作をするには家畜の糞からとれる肥料が必要でした。今更大量に必要ということもない、とかつてならば言っておりましたでしょう」
「はい、我々は家畜なしで生きることなど考えられません」
「馬の糞で今は十分なのです。畑をもっと増やしたい、そのためには領主様への許諾が必要ですが、この土地の領主様と言えば、当然」
「ムスコールブルク大公、エリザベータ様ですね」
マルコフは鋭い目つきでラビンスキーを睨む。ラビンスキーも負けじと強くはっきりと答えた。
マルコフは資料を突き返す。ラビンスキーは受け取らずに、マルコフを憐れむように見た。
「エリザベータ大公女からの認可証を受け取るまでは、軽々しく頷くことはできません」
「……わかりました。伝えておきます。ところで、畑の様子を見せてもらってもよろしいですか?」
乾いた風が窓を揺らす。マルコフは黙って目を瞑り、頷いた。ラビンスキーは恭しく礼をして、資料を回収する。羊皮紙をまとめて丸め、麻の紐で縛って固定した。
「私も同行しましょう。ご案内いたします」
マルコフは重い腰を上げる。彼はあからさまに、意図的にラビンスキーの前に出るようにしながら、ラビンスキーを畑へと案内する。
畑の様子は相変わらず侘しいものだった。土の匂いは霜柱に封印されているようで、踏み込むたびに氷の崩れる音がする。マルコフは時折慎重に周囲を見回しながら、ラビンスキーと目が合うたびに苦笑する。
ラビンスキーは屈み込み、注意深く畑を見回す。畑と畑の間には溝があり、引水用の水路がある。この水路を境にしながら、幾つかの区画ができているらしかった。
「三圃制ではないんですね」
ラビンスキーが何となく尋ねると、マルコフは自慢げに答える。
「えぇ、ここは、しがない村ですが、ムスコール大公の徴税がなされない、いわば特権区なのです。ここでは、ここだけでは、他の周辺地域のような不自由民としてではなく、個人の土地所有が認められているのです。ロットバルト卿の尽力の賜物なのです」
「ロットバルト卿の、ですか」
ラビンスキーが反応すると、マルコフは天に祈るように合掌する。
「えぇ、ですから個人が土地を持っているので、各々が各々の土地を自由に使っています。我々の永遠の財産です。素晴らしいものです。それを崩すことは、再び国に従うことになる。それはいけない。これは、我々の確固たる決意の表れでもあるのです」
ラビンスキーは酷く悲しくなった。この村に限らず、この国ではいまだ個人が所有権を持っていないのだ。国家の体系が三権分立と言われたので、もしやと考えていたが、あくまで権力の中枢は国家にあり、国家を形成するのは未だに貴族たちである、ということだ。彼は土を構い、顔を上げた。霜の降った枯草がラビンスキーを見ている。
ふと、畑の向こうの広場が目に入る。ラビンスキーは土を放り、目を細めて様子を伺う。その部分だけ柵がしっかりと整備されており、畑以上にしっかりと管理されていた。
「あの広場は?」
「放牧地ですか?牛や豚を放しておくのですよ。あそこなら、十分な土地がありますし、犂を利用する際にも交代しながら共同で使うこともできます。今は冬季ですから、家畜用の十分な食料がないのに、冬を越すのは難しいでしょう?ですから干して、保存食にして保管しているのです」
「あぁ、なるほど」
ラビンスキーは放牧地を確認する。非効率的な農法、しかし、それを誇りとし、代償に自由を手に入れた人々。突然訪れた危機のなか、必死に足掻こうとするマルコフの目は、誇りを語る時だけは不思議と穏やかになる。正直、ラビンスキーにとっては価値のあるものには思えないが、彼らの誇りをつぶすことは、あってはならないのではないか、そうした葛藤が脳裏をよぎる。
「砂糖はじきに分解されます、そうなればまた使えますから」
ラビンスキーは自分に言い聞かせるように呟く。冬の朝の陽ざしは強くないが低く、太陽が直接目を焼くような瞬きを放っている。マルコフは穏やかに頷く。
「わかっています。かつての方がずっと収穫高はよかった。それでも、私たちはこうしてきたのです」
「新たな方法、新たな工法を作り、それを自由の象徴にする」
つい零れた言葉に、ラビンスキー自身が驚く。彼がマルコフの方を見ると、マルコフも自分と同じ顔をしていた。しかし、すぐに悔しそうな、困ったような表情に戻る。
「それができれば、一番いいのでしょうね」
朝日が霜柱を溶かし、靴の鳴らす音が次第に不快なものになっていく。つぶれた納豆のような纏わりつく感覚が、ラビンスキーの足を掬う。崩した体制を何とか立て直すと、彼の視線の先にはマルコフの家とは比べ物にならない侘しい家々が現れた。崩れそうな家畜小屋、鶏の足跡が残った崩れそうな木の壁。彼は息を殺し、その様を呆然と眺める。
―変えなければ。この村も、何もかもを―
脳を電波の刺激が突き抜ける。突然、今日この村を離れることが、名残惜しくなった。




