狼の足跡
獣脂で出来た蝋燭の独特の匂いが充満しようとも、窓を開けるには些か寒すぎた。ユウキはベッドに、ラビンスキーは椅子に座りながら、持参した干し肉をしゃぶっていた。
空は完全に夜の帳が下され、月が浮かぶばかりで、村の風景は殆ど見ることができない。この時間帯のムスコールブルクはまだ空気が薄く光を放っているような灯りが灯っているが、日々を太陽の昇降に合わせて生きる人々の中には、蝋燭を使う理由もないのであろう。ラビンスキーは夜に支配されたような寒々しさに、ソワソワと体を揺らしていた。
「静かだね」
耐えきれずにラビンスキーが呟くと、ユウキは鼻を鳴らした。
「そうだね。匂いもムスコールブルクとは違うよ」
机上の黒ずんだ燭台の灯りが揺れる。ラビンスキーの目には、ユウキの顔が影に溶けるように映った。ラビンスキーは机に肘をついて藁のベッドに目をやる。
「いつの間にあんなに仲良くなったの?」
「日中に話聞いて回ってたんだ。かなり怪しまれたけど、まぁ、ちゃんと説明すれば、わかってくれる人ばかりでよかったよ」
ユウキは干し肉を噛みちぎる。肉の繊維が噛みきれずに少し残った。
「……私は今回の交渉が終われば帰るけど……ユウキは暫くいるんだよね」
「まぁ、そうなるね。この村をまるっと飢えを乗り越えさせなきゃいけないし、それに……」
「それに……?」
「うん、今朝、草原の中にあった影のこと、分かっちゃったから」
ラビンスキーは思わず耳を疑う。村人は道中の事など一言も言わなかった。ユウキは何でもないように干し肉をかじった。
「……驚かないでよ。マルコフさんが、若者が村から逃げたって言ってたでしょ?」
ユウキは足をぶらつかせて言った。藁がガシガシと音を立て、動くユウキを非難する。
「あぁ、成る程」
「そう。あれは味を占めた餌場ってことだね」
ラビンスキーは干し肉を齧りながら腕を組む。仮にたまたまあのあたりを通った狼の群れならば、長時間居座るということはない。地図の上でユウキが追っていた時に何も起こらなかったのは、彼らがそこに留まり続けた為だろう。
「今までいなかったってことは、ここには最近来たんだろうね」
「うん、多分。あれを追い払うのが急務だから、餌場と認識させないか、危険な場所だと思わせるかしなきゃね」
ユウキは肉を食べきり、答えた。歯の間に挟まった干し肉が気になるのか、舌をしきりに動かしている。
ラビンスキーもユウキに倣ってさっさと肉を放り込む。乾燥しきった干し肉は、長時間噛むとどうしてもくちゃくちゃと音が立ってしまう。口の中にしょっぱい味が広がり、ますます水が恋しくなった。
「退治するの?」
ラビンスキーは干し肉を飲み込んで尋ねる。小指で歯の隙間をいじっていたユウキは、思わず間抜けな声を上げる。暫らくそのまま向かい合った後、恥ずかしそうに小指を下ろした。
「まぁ、うん。危ないから群れじゃなくてなるべく一匹ずつ退治したいけどね。毛皮も剥いで、少しでも稼ぎにしなきゃ」
ラビンスキーは心配そうにユウキを見る。風がカタカタと窓を揺らした。
「じゃあ、明日からは別行動だね」
ラビンスキーは報告書用の羊皮紙に手を伸ばしながら言う。安い蝋燭特有の脂の匂いが微かに移っている。ユウキは頷き、ちょっとトイレ、と言って、部屋から出て行った。
扉を閉ざす風圧に押されるように、蝋燭の火が激しく揺れ動いた。
蝋燭を消すと、これまで机の上に広がっていた書類も見えなくなった。代わりに夜空の星は目をみはるほどの輝きを放っていた。
ラビンスキーは藁を敷いただけの簡素なベッドの上で、寒さをしのぐには心許ない薄い毛布と外出用の上着を体に掛けながら、ずっと天井を見上げていた。書類の整理も済んでしまい、手持ち無沙汰になったラビンスキーは、1日の終わりをぽんやりと過ごしていた。
ユウキは暫く前にトイレに向かい、そのまま帰ってきていない。用を足すには時間がかかりすぎているように思えた。ラビンスキーは起き上がり、蝋燭の火を消して部屋を出る。しっかりと鍵をかけたことを確認した後、階段を下り、松明を借りて外に出た。
夜の星の瞬きは生前見たそれとは比べ物にならないほど強く、月は空にくっきりとした輪郭を残して浮かんでいる。町の往来もなく、腐葉土の匂いと冬特有の乾いた匂いが混ざり合った独特の匂いがした。ラビンスキーは体をさすりながら足早に広場に向かった。
広場には大きな切り株が一つあり、教会が町を見下ろすように建っている。教会より背の高い建物はどの町や村にもないが、この町では教会の高さを超える家を建てること自体が困難なように思える。切り株のところまで向かうと、そこにはやはりユウキがいた。ユウキはぼんやりと夜空を眺めながら、鬱陶しそうな右の前髪を払っており、静かに吐いた長い息が空へ霧散していく。ラビンスキーは黙って背中合わせに座った。暫く沈黙が続いた後、ラビンスキーは口を開く。
「風邪ひくよ」
白い息が鼻をほんのりと温める。散々厚着をしたラビンスキーに対して、ユウキは多少薄着だった。
「ちょっと、昔のこと思い出してた」
ユウキが呟く。切り株に添えられた小さな手が動く。ラビンスキーは松明を持った両腕を自分の体に巻き付けながら、縮こまっている。なるべく熱が逃げないようにという、彼の冬の夜中特有の癖だった。
「生前の事かい?」
「うん」
ユウキは視線は空に向けたまま立ち上がった。ラビンスキーは松明の周囲に浮かぶ陽炎を見つめていた。ユウキはラビンスキーを一瞥し、余りの姿勢の悪さにちょっと噴き出した。
「ごめん、戻ろうか」
「早く寝よう」
ラビンスキーはユウキに松明を持たせて立ち上がる。なるべく松明に身を寄せ、縮こまりながら歩き出した。ユウキは陽炎の向こう側を眺めながら、白い息を飲み込むように口を結ぶ。そのまま数歩進んだ後、辛そうに息を吐いて、口を持ち上げた。
ラビンスキーは大きな欠伸をする。月はいよいよ90度の高さに差し掛かろうとしていた。




