悪魔の鏡1
目を覚ました先にあるのは、僕を呼ぶ目覚まし時計の姿だった。騒々しく鳴らすベルの音と短針が七を指し示す。僕は重ならない視界の外から手を伸ばし、ベルの音を止める。再びその手を布団の中に戻し、体を反対側にひっくり返した。
ベルの音に意味などない。或いは、無くなってしまったと言うべきなのかもしれない。ここに篭りきりになって久しいが、教師や同級生は僕のいないことをこの上ない幸福だと感じていることだろうし、親も毎日のように酷い有様で家に帰る僕を見なくて済み、せいせいしているに違いない。
日常が作り出す慣習は、当たり前の事のようにそこにあるが、無くなったところで新たな慣習を生み出すだけである。目覚まし時計に至っては、その慣習が生んだ慣習に過ぎない。果たしてそこに意味など見出すことが出来るだろうか。
微睡みと思索は交互に訪れるが、ひとたび彼らと目が合ってしまえば、寝返りで逃避した現実は再び僕の精神を苛む。
机の上に散乱する教材、当たり前のように笑顔を振りまく同級生たちの写真に、壁に立て掛けられたグローブやら何やら。けっきょくは体を起こして、東にある窓のカーテンを開ける。
嫌みたらしい太陽の光が寝起きの目を刺激し、片目を瞑って下を向く。見れば、スポーツバッグと指定鞄を携えた学生達が、仲睦まじげに道路を歩いている。朝日に照らされた学生服は黒く、その若々しさを一層に引き立てている。向かいにある家の塀の上では猫が眠っており、電柱が側溝を隠すように立ち並んでいる。
「ゆく川の流れは耐えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」
動揺する右目を抑えつけ、方丈記の冒頭を暗唱する。真下にいる学生達の笑顔がいつ消え、いつ僕が笑うとも限らない。そう言い聞かせるように。
小さな四畳半に詰め込まれたベッドと勉強机は、これでも幸せな方だと言い聞かせてやれば居心地がいい。外の世界に比べれば、窮屈でも退屈でもないのだ。僕は椅子に腰をおろし、机の上に頬杖をつく。僕の姿勢を拒む散乱した教材に目を下ろした。日本史の教科書、古典の教科書、誕生日に貰った世界史の教科書。無理を言って買って貰った歴史の大家の学術書や、それに付随するように与えられた望んでもいない英雄達の物語。どれもこれも手垢がつくほど読み進められ、いつの間にか、僕の周りにはこうした書籍が溢れていた。
日課の読書を続けていると、扉がノックされる。僕ははぁい、と声を上げて扉を開いた。
ビジネススーツに身を包んだ母が立っており、疲れた顔で微笑んだ。
「タク、行ってくるね」
「いってらっしゃい」
僕が答えると母は満足げに頷いてその場を後にする。
彼女が去って行ったのは、朝食の合図だ。彼女は毎日のように愚図の僕に食事を与える。それが母親としてのプライドなのか愛情なのかは判らないが、ただ与えられる事がどれだけ有難い事かは明白だ。
狭い廊下を覚束無い足取りで歩く。距離感がつかみにくいため、念のため壁伝いに進むと、玄関が見えてくる。左手に親の寝室があり、右手にリビングがある。僕はリビングに入り、テレビの正面に腰掛けて、机上の蠅帳を退かして朝食をとる。テレビでは、朝のニュースが下らないエンタメ情報を流していた。
ぼうっとテレビを見ながら朝食を口に運ぶ。
外の世界の現在を知る上で、エンタメ情報ほど不要なものはない。あえて知る必要のない事だし、仮に話題になるという反論をされても、それは人と接する機会自体が殆どない僕に対しては主張自体が失当である。
それでも食事をしながらできる事などたかが知れているので、ニュースを見続ける。暫くそうしていると、テレビの時計の表示が消えた。
一年前の今頃はすでに学校に向かっていた頃だろうか。時計の音に縛られ、食事も満足に咀嚼せず、小さなコミュニティの中で顔だけを出して呼吸する毎日は、ひどく窮屈なものだった。乱暴者に技をかけられる事も、給食に鉛筆の削りかすをかけられる事も、いつの間にかなくなるプリンさえも、遠い日の事に思える。味噌汁を啜りながら思索の澱みに足を掬われる。
この小さなコミュニティで生き残れない僕が、社会に出るなどどうして考えられるだろうか?僕にはここで庇護を受ける程度の能力しかなく、生き続ける事さえ許されてはいないのだろう。こうして集団から離れてみると、テレビの向こうの世界が如何に優秀な歯車で作られているのかわかる。
「たましきの都の内に、棟を並べ、甍を争へる、高き、いやしき、人の住まひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。あるいは去年焼けて今年作れり。あるいは大家滅びて小家となる」
再び襲ってくる陰鬱を振り払うために、方丈記の冒頭を暗誦する。昔はこんな心の寄りのどころは必要なかったはずだが、僕の中の何かは確かに弱くなったらしい。朝食の食器を片付けて皿を洗い、再び自室に戻った。
起きた時と変わらずパジャマ姿のまま学習机につき、片方だけ度の入った眼鏡をかけて、日課の資料漁りを始める。
初めは普通の歴史好きに過ぎなかったが、いつからかありとあらゆる凋落の歴史を調べる事が、僕の日課になっていた。この世界で何よりも重要なものは、危険そのものを回避することだ。歴史には、あらゆる負の系譜が記されており、それこそが英知を形作っている。手垢のついた参考書を開けば、国家の興亡と人々の素朴な暮らしぶりが記されている。朝も昼もなく、その記録を読み漁った。
唐の玄宗、オーストリアのフランツ・ヨーゼフ、帝政ロシアのニコライ二世……。ジョン王のように度々話題に上がるものもあれば、話題にも上がらない無名たちもいる。無能無能と罵られるものもあるが、悲劇だと言われるものもある。兎に角何らかの「失敗」があったこと、それを検討することで、初めて危険はその全貌を露わにする。僕らの世界を生き抜くためには、失敗と向き合わないわけにはいかないのだ。
そして、僕は失敗を恐れるあまり、外に出ることが怖くなってしまった。英雄譚など幻想で、凋落こそ現実だと捉えるあまり、身動きが取れないのは滑稽に映るだろうか。そうだとしても、一歩踏み出せば地獄であるとわかり切っていて、足が竦まないわけがない。それくらい、社会というものは残酷な機構なのだ。
僕は、夕刻の穏やかなオレンジ色が顔をのぞかせるまで、これに没頭していた。悪戯に窓の外を眺めると、薄暗くなった斜陽の残光が窓の向こうを包み込んでおり、塀の上で昼寝をしていた野良猫の姿もなくなっていた。僕は軽く右の目を抑え、小さなため息を吐く。僕のお腹がため息を待っていたかのように鳴る。ぎゅるぅ、という腸の中が動く独特の音と共に、昼食もまともに取っていなかったことに気が付いた。
食事を取ろうとキッチンに向かい、冷蔵庫を開く。ところが、それは閑散としていかにも寒々しい白い肌をのぞかせるばかりで、ぽつぽつと調理前の材料があるだけだった。僕は目を擦ってため息を吐いた。
「何か、買おう」
誰が聞くでもない言葉をポツリとつぶやいた。
僕は慎重に扉を開き、鍵を閉める。エデンの向こう側に出るとき、僕らは少なからぬ緊張を覚えるものだ。パーカーのポケットに手を突っ込み、猫背になりながら足早に住宅地を抜ける。三つ目の交差点で車両の追突事故が起きたらしく、スーツ姿の男たちがなにやらもめている。それをなんとなく一瞥し、歩道の隅を通って通り過ぎた。電柱の隅が軽く湿った四番目の交差点で右折すれば、一番近いコンビニがある。
駐車場には三台の車が駐まっており、窓越しにこの世の終わりのような顔をした大学生らしきアルバイトの男がレジの前で突っ立っているのが見える。アルバイトの男に半ば同情しつつも、さっさと用事を済ませようと、入店した。
自動ドアを潜るとピロピロという独特の音がし、死んだ目のアルバイトがいらっしゃいませと声を上げる。僕は夕飯のことも考えて軽食で済ませようとして、おにぎりとお茶を手にとる。レジには中年の女性が二人と、子供を連れた若い女性が並んでいる。中年の女性たちは不機嫌なアルバイトの男がレジを打つのを尻目に、誰も喜びそうにないどうでもいい世間話を続けている。若い女性は落ち着きのない子供を叱りつけているようで、何となく居心地が悪い。
三人が清算を終えて去っていくと、僕の番がやってくる。男は僕を一瞥して一瞬だけ眉をひそめたものの、何を言うわけでもなく会計をした。
会計を済ませて外に出る。目の前に見覚えのある顔を見つけて、足が竦んだ。
「お。よぉ、久しぶりだなぁ」
右目が揺れる。言葉が出ないほどの恐怖と共に、油断して外に出た僕の愚鈍さに吐き気を催す。唇が急速に乾燥し、身震いが止まらなくなった。
車の往来がちらほらと現れ始め、学生の歓声が耳に届く。黄色だった信号が赤に変わる。
「ちょっと付き合えよ」
だから言ったじゃないか、油断するなって。
回想はちょくちょく小出しにしていきます。




