酔いと問答のペシミズム4
ラビンスキーは貧乏ゆすりをしながら、見慣れぬ赤煉瓦の壁をぐるぐると見まわしていた。壁に掛けられた鹿の剥製がいかにも誇らし気に掲げられ、金縁の絵画には聳える天使の梯子から下る6つの翼を持った天使が見下ろしていた。シャンデリアの蝋燭は煌々と輝き、天井には巨大な法陣を中心に天空を駆る古代の神々の姿が描かれている。
肩を狭めて座るラビンスキーの前にある、純白のシーツが被せられた机の上には、青い釉薬で花が描かれた皿が置かれ、その隣にはナプキンが四つ折りに畳まれている。
彼の様子は傍から見れば初めての家に連れてこられた子猫の様に似ていて、ユウキも思わず吹き出して笑う。子供に笑われた恥ずかしさからか、ラビンスキーは視線を皿の上に下した。
暫くすると、ボーイがユウキにあれこれと訊ね、ユウキが馴れた様子であれこれと注文している。
「畏まりました。少々お待ちくださいませ」
ボーイの靴の音が遠ざかると、ラビンスキーは視線を上げてユウキを見る。ユウキはラビンスキーを見てニヤニヤと笑っている。赤煉瓦が迫ってくるような圧迫感がラビンスキーを襲う。
「気にしなくていいからね。ルシウスの……と、いうか、ルシウスのお兄さんの奢りだから」
「お兄さん?ルシウス教授の?」
ラビンスキーは聞き返す。ユウキはナプキンを膝の上に置きながら答えた。
「そう、ロットバルト様。またの名を悪魔卿ロットバルト、ムスコール大公国宰相にして、エリザベータ女王の右腕。だから遠慮なく、人に奢るのとか大好きな人だから」
ラビンスキーは納得はしなかったが、とりあえず頷いた。
先ほどのボーイがワインをもってこちらに近づいてくる。ラビンスキーは思わず喉を鳴らす。最高級の店の、ワインの味。気にならないはずがない。初めにユウキの下にコップ一杯の水が置かれ、続いてワインの栓が開けられる。緑色の曇ったボトルの中には、黒く見えるワインが波打っている。やがてそれはラビンスキーのグラスに注がれた。濃く魅惑的な神の血が滴り、透明で見事なワイングラスを赤く染め上げる。適度な量を見計らって瓶はゆっくりと角度を上げ、恵みの赤はグラスの上で滑るように揺れていた。
再び息をのんだラビンスキーの正面から、二皿のスープといかにもやわらかそうなパンが二つ運ばれる。スープは透明な澄んだ色をしていて、中心にハーブがちりばめられている。小麦色に焼き上げられたパンの匂いが卓上に広がり、立ちのぼるスープの湯気とともに二人の鼻をくすぐる。ラビンスキーは上品な幸福感に思わずため息を吐く。ユウキはパンをちぎってそのまま口に放る。ラビンスキーも、現世の懐かしい暮らしを思わざるを得なくなっていた。スープを一口すすり、再びため息を吐くラビンスキーは、冷静になってユウキに語り掛けた。
「有難う、とてもおいしい。それはそうと、今日はどうして誘ってくれたの?」
「う、ん……。同郷の匂いがしたっていうのかな……ラビンスキーさんも転生組でしょう?」
ユウキはスープにパンを浸す。やわらかいパンだったため、特段パンをほぐす必要はないのだが、ユウキの癖らしかった。彼はスープを吸ってふやけたパンを口に運ぶ。
「あぁ、なるほど。君は助手か学生として転生したんだね」
ラビンスキーが当たり前のように笑いかけると、ユウキは落ち着いた声で答えた。
「初めは乞食だったよ」
「……え?」
シャンデリアの蝋燭が這うように燭台の受け皿に落ちる。ラビンスキーはユウキの言葉に完全に硬直してしまう。ユウキは前髪で隠された右の目を髪の上から触る。
「どうしても、僕はうまく生きられないらしい。初めはもっと南の方……熱いくらいの土地で転生してさ、日々を木の根っこや砂まみれの食べこぼしを奪い合いながら命を繋いできた。ルシウスは調査で来ていた時に初めて出会ったんだけどね……。本当に偶然、たまたまだ」
ユウキは懐かしむようにシャンデリアを見上げ、眩しそうに目を細めた。ラビンスキーはユウキの言葉を待つ。新たに運ばれてきた料理は、ソースで彩を加えたムニエルだった。華々しい料理に目が向かうこともなく、二人はしばらく沈黙する。
「ルシウスに会えたのはきっとご褒美だね」
ラビンスキーが沈黙を破ると、ユウキは静かに笑った。何かを思い出すようにしながら、スープスプーンをカチャカチャと鳴らす。
「ラビンスキーさんはさ、仕事を選べたんだよね。……それって、結構珍しいみたい。元の世界で教育水準が高くないと、識字もできないし、都市部で生きるには少々窮屈でさ……今までできていたことが突然できなくなったりして……。正直、こんなはずじゃなかったって、思ったよね」
ねっとりとした蝋はしばし受け皿の上を彷徨った後、徐々に足場を固めていく。ラビンスキーは初めてムスコールブルクの街並みを見たときのことを思い出していた。彼にとっては、この都市の汚さが、異世界というものへの期待よりも勝っていた。ユウキにとって、それは逆だったのかもしれなかった。
運ばれてくる薄味で上品な食事も、シャンデリアに照らされた広い個室も、赤煉瓦の圧迫感より勝ることはなかった。ラビンスキーはムニエルをほぐし、ソースにつけて口に運ぶ。これまでの食卓に出てきたパンや蒸留酒よりもはるかに深い味わいであったが、咀嚼するほどに後味の悪い背徳感に苛まれた。
「それでも、生きなきゃいけないじゃん。だから、これは罪なんだなぁ、って思ったんだよね。生きたいっていう気持ちすら、何かに強制されているんじゃないか、この空腹も、当たり前のようにパンを齧る人を見た時の射幸心も。」
ラビンスキーはどうしても食卓に目を向けることはできなかった。ラビンスキーの脳裏には、銅貨を拾うときに目が合った乞食の姿が浮かぶ。小奇麗な衣装に身を包むユウキを見ても、不思議なことにその影が重なる。個室特有の静寂がかえって恐怖を煽る。食卓の無言の請求を気にするでもなく、ユウキは食べ始めた。
ラビンスキーは、鉛の塊のように重たいナイフとフォークを握ったままで問いかけた。
「今は、幸せだろう……?」
ユウキはそんなこと、とでも言いたげに鼻で笑う。口に含んだ魚を飲み込んでから、口を開いた。
「幸せ、かどうかかはともかく、今は、うん。楽しいよ」
ラビンスキーは、手から鉛の塊が落ちたような気がした。ユウキは静かに微笑む。
「そうだ、ラビンスキーさんには、みせてもいいのかな」
そういってひどく長い右の前髪を手で持ち上げた。ラビンスキーは一瞬だけ固まり、ちょっと溜息を洩らした。
普段から見えている左の目は、まっすぐ正面を向き、ラビンスキーの目をしっかりと見据えている。右の目はかなり外側に視線がずれている。
「僕、斜視なんだよね」
ラビンスキーは、ユウキが転生を果たしたそのきっかけを悟った。同時に、子供らしい残酷さというものが、酷く恐ろしく思えたのだった。
大人の世界も子供の世界も、本質は変わりなく残酷だったりするんですけどね。いい話を書くために、そういうものを出すのは間違っている気もします。




