ラビンスキーの異世界行政録(完)
「アァ、オワッタァ……」
ラビンスキーは見馴れた草原に向けて吐瀉物を吐く。彼の背中を摩るシモノフは、近づいてくる景色に安堵の表情を浮かべていた。当初この道を進んだ兵士の数からは、考えられないほどの少数で、ムスコールブルクへの景観も非常に鮮明であった。
薄曇りの空と同化した城壁が近づくにつれて、馬車の動きが速くなる。ラビンスキーは一つえずいた後、光のない瞳でシモノフの視線を追う。気持ちのいい風がラビンスキーの肌をかすめていく。
「あぁ、やっと帰ってきたんですね……」
「やれやれ、これでひと段落、と言ったところかな」
シモノフが大層疲れた声で言う。しかし、城壁へと向かう視線はとても穏やかなものだった。
「いやぁ、ほんとほんと。ユウキの為にこれからチコにも紹介状出さなきゃいけないし、さっさと眠りたいなぁ」
ルシウスがラビンスキーの背中を眺めつつ微笑む。馬車が石を踏んだ振動で、ラビンスキーは草原に再び胃液を吐き出した。ルシウスは、エストーラで購入した植物図鑑を膝の上におき、ラビンスキーの周りに置かれた大量の水差しの中身が、随分と減ってしまっていることを確認した。彼はラビンスキーが水差しを探る姿を見て、遠い目で曇天を眺める。
「ムスコールブルクらしい、低くて優しい景色だなぁ」
「えぇ……?なんですって?」
「いやぁ?兄さんは相変わらず空気が読めないなー、なんて思っただけだよ」
聞き返すラビンスキーを見て、彼は再びからからと笑った。
ラビンスキー達が乗る前の馬車に乗るのはロットバルト、そしてユウキとモイラだった。比較的座り心地のいい馬車に乗せられたのは、シモノフとルシウスからのささやかな配慮だったらしい。こちらの馬車は静かなもので、モイラもユウキに寄り添って彼の仕事ぶりを眺めている。ロットバルトは居心地が悪そうに周囲を見回し、しきりに溜息を吐いていた。ロットバルトの脳裏には、非常に気まずいが言っておくべきことがごまんとあった。ユウキへの受勲の話、その為に騎士爵を賜る気があるのかどうか、また、この町から本当に去ってしまうのか。余りにも配慮に欠ける配席であったことは理解していたが、彼女にとっても、ユウキの将来にとっても重要なことだった。
(いや、ここで言わなければ。このまま引き延ばすと永遠に言えずじまいだぞ……!)
地図に視線を下し、安全確認をするユウキに対し、ロットバルトは手を伸ばす。それに気づいたユウキが視線を上げると、右の瞳から漏れる索敵魔法の光がロットバルトに当たる。ユウキは急いで右目を閉ざし、彼女の言葉を待った。
(どこまでもできた子だ……。全く、益々手放したくなくなるな……)
「なぁ、ユウキ。私は君を表彰したい、できれば褒美として領地を与えることになる。そうすると、君は騎士爵……つまり、その、なんだ。貴族になるわけなんだが……そうすると……その、いや、うむ」
ユウキはモイラの方を向く。モイラは何かを察するでもなく、ユウキを見ながら首を傾げた。ユウキは小さく微笑むと、目を伏せて太ももの上に手をそろえる。
「ごめんなさい、心に決めた人がいますので……」
ユウキは深く頭を下げる。そのままバランスを崩しそうになるのを、モイラが優しくと支えた。馬車が石を踏んで揺れる。ロットバルトが下を向いたため、ユウキはきまりが悪くなりフォローしようとした。しかし、次の瞬間に待っていたのは、明るい笑い声だった。
「はっはっはっ!そうか!うむ、それもいい選択だ!」
ロットバルトは、彼の輝かしい未来が、どの様な物なのかを慮っていたのだ。騎士になるという選択は、彼を貴族に押し上げる事であり、その後は政治への参加は勿論、政略結婚に至るまで様々な過酷な未来が待ち受けている。貴族になる道は確かに彼にとって有意義な時間を与えてくれるという確信があったが、同様に階級に残酷な格差があるモイラとの結婚は望めないことも意味する。しかし、ユウキに褒賞としての土地を与えるには、ロットバルトに忠義を誓わせなければならない。どちらが良い選択なのか、それを決められるのはユウキだけだった。
「それならば、私もそろそろ覚悟を決めなくてはな!よし、決めたぞ!アーロンに婚姻を申し込もう!」
「えぇ!な、そうなんですか!?」
ユウキが馬車に乗って初めて大きな声を出した。ロットバルトは女性らしい潤んだ瞳で答える。
「……あぁ!彼は美男子ではないが、なに、顔なんてものは愛には関係がないことは、君たちがよく知っているだろう!」
「いや!あの、え!?男装の件はどうするんですか!?」
「男同士で結ばれるわけがないだろう。安心しろ、私は天下のロットバルトだぞ?」
曇天迫る城壁が近づく。馬車は決意、安堵、好奇心、それぞれの思いを乗せて揺れる。それぞれに向かうべき道を示す星は、残念ながら見えない。しかし、雲の向こうには確かに空があり、雨の兆しがあれど、間もなく馬車は彼らの故郷へと進んでいく。
城門が開かれると、烏合の衆が彼らを迎え入れた。割れるような歓声の中に、クリメント、イグナート、カルロヴィッツ、よく見ればマルコフもいる。汚い言葉遣いの乞食達がバケツを持って手を振る。その中に紛れてハンスとルカ、アレクセイが手を振っていた。真っ先に馬車から身を乗り出して手を振ったのは、ラビンスキーだった。
世界一綺麗な都として名高い、サンクト⁼ムスコールブルク。朝日が雪を輝かせる、常冬の王都。この都市を治めた女王エリザベータ。その治世を支えたのは、悪魔卿と言う仰々しい名で呼ばれる女傑ロットバルトであった。彼女の政治手腕は現在でも高く評価され、当時の閉塞した封建制に一つの風穴を開けた。自由化を進め、重商主義とプロアニアから流入する技術の開発によって、かつて毛皮と印刷業で栄えたこの町は、第二次産業を大いに発展させることになった。
彼女の亡きあと、街灯はガス灯となり、乞食は労働者となった。燦然と輝く足跡を残した彼女の下には、優れた者達が仕えていたという。例えば、後に天体博士として名を馳せる脚のない秀才、ユウキタクマ学士。ダグザの大釜と窒素肥料の改良、解剖学、医学の進歩にまで貢献した魔法科学博士にして法陣術師、ルシウス卿。俗語聖典の発刊に大いに貢献した北方教会教主クリメントと印刷業者イグナート。そして、愚直で敬虔なアーロン卿。
多くの協力者に支えられた女傑の物語の中に、一際彼女の信頼を買った外務官がいたことを、諸君は御存じだろうか。この資料は、そんな外務官が残した、貴重な彼女の生の記録である。その手記には、「異世界行政録」という、不思議な名前が付けられていた。それ故に、これは以下の様に呼ばれている。
『ラビンスキーの異世界行政録』と。
長らくの御愛読、本当にありがとうございました。これにて『ラビンスキーの異世界行政録』完結となります。
ここまで暖かくお読みくださった皆様、そして、この場を与えて下さった「小説家になろう」の運営の皆様に、改めて御礼申し上げます。
それでは、また次回お会いいたしましょう。本当にありがとうございました。
 




