悪魔の鏡4
綺麗な食堂を出ると、現実に引き戻されたように無骨な壁が顔を見せる。ロットバルトとラビンスキーは国賓用の控室に戻るため、南西に伸びる廊下を進む。
「ラビンスキー君、無期限ではまずい理由があったのかね?」
ロットバルトは追従するラビンスキーに対して訊ねる。薄暗い廊下に澄んだ彼女の声が響くと、先程までプロアニアへの通知について考えていたラビンスキーは初めて顔を上げた。ロットバルトは特に非難する気があるわけではなく、移動までのほんの繋ぎのようなものだと考えている。
「あぁ、それは……。無期限だと、ロイ王が万が一悪意を持っていた場合、即座に返還を要求する可能性があるからです。無期限という事は、そのままいつでも返済を請求してもいい、という意味にもなりますから」
ロットバルトは首をひねったが、暫くすると「あぁ、なるほど」と呟いた。
廊下には小さな窓があり、微かに陽光が差し込むたびに城内の暗さに慣れたラビンスキーの目を傷めつける。外は決して快晴ではなく、日差しも強くはないのだが、ひと段落した安堵感からかなり気の抜けているラビンスキーにとっては、かなり強い刺激のように感じられた。廊下を右折すると窓からの日が隠れ、ラビンスキーは息を吸い込む。
暫く歩くと、城内にも拘らず、何者かがかなりの速度で走る振動が伝わってきた。二人は訝しみ、目を細めてきた道を振り返る。エストーラに訪問してからロットバルトの身辺の世話をしていた使用人が汗だくになりながら迫ってきた。彼女は二人を見つけて大きな声で叫ぶ。
「ロットバルト様、喜んでください!ユウキ様が……!」
召使の言葉を聞き、ラビンスキーは思わず歓喜の声を上げる。ロットバルトは喜びの余り召使を無視して部屋へと駆けだす。喧しい鳥が騒ぎ始める。陽光は眩く照り、所々の窓から優しく見下ろしていた。
こちらに来てからの時間は、余りにも速くてぼうっと考え込む時間もなかった。止まっていた時が動き出したのは、たぶんルシウスと出会ってからだ。それからというもの、本当に休まる時間がなくて、気づいたらこの様である。本当に、本当に忙しない時間だった。それはもう、命を預けるには十分すぎるほどに。
真っ暗な中に意識だけが浮かぶ感覚を覚え、あぁ、僕は死んだのかな?モイラたちは無事かな?そんな気持ちが芽生えると、胸が締め付けられるように苦しくなる。足の感覚がなくなり、末端まで暖かいものに包まれているという事に気付く。やわらかい何かが自分の体重を支えているらしく、暖かい温度と共に、手の触覚が誰かに触られている感覚を覚える。遠くから近付いてくる足音と、僕を呼びかける懐かしい声が聞こえるようになる。瞼は鉛のように重く、口はパサパサとしていてへばりついている。言葉を忘れるほどの激しい振動と共に、香草の焚かれた甘い匂いが戻ってくる。その中に、薬品の様な臭いと土のにおいが混ざっていて、自分の意志に関係なく、指が微かに動く。
五感が少しずつ鮮明になり、呼びかける声の主がルシウスとモイラであることが分かった。頭はまだぼうっとしていて、今がどうなっているのか、どこにいるのかもわからない。目を開けようにも、体中のだるさが阻んでくる。何とか半分瞼を開くと、そこが何かの建物であることが分かった。薄暗いが夜というわけではないらしく、はっきりと人の陰が伸びている。赤い布が周囲に垂れ下がっており、それらに囲われた豪華な絵画が正面に飾られている。それはやや時代遅れの作風で三人の賢者が藁の屋根を持つ厩の前で何かを祝っている絵らしい。頬に冷たいものが落ち、視線をほんの少しずらすと、雷のブローチが視界に入った。その瞬間、僕の瞼は完全に開いた。
体を起こした重ならない視界が捉えたのは、懐かしい二人の顔。ぼろぼろと涙を零す少女の姿。足を動かそうとすると、感覚がない。そこで初めて、自分が生きているという事に気付いた。
「お帰りなさい!ユウキ……!」
自然と暖かいものが頬を伝う。乾いた唇が震え、はがれていく。切れて痛む唇を震わせるものは、何か。鼻水を啜る。体中に温かい温度が伝わる。目を見開けば、白い壁、赤いヴェール、満ちる暖かな空気。全ての輝きが僕を包み込む。それは、鏡の破片が捉えた、ただ美しいものだった。言葉をうまく出せない僕を、少女は抱き寄せた。
「お帰りなさい!最高にかっこいい、私のヒーロー!」
肩に温かい滴が落ちる。眩しすぎる輝きに目を潤ませると、輝きの向こう側が一気にあふれ出した。鳥の囀り、蒼穹、赤の天蓋、乗り出すクマを持った眼鏡の男、手を握る田舎っぽい少女。全部全部、大切な、僕の失いたくないもの。
「モイ、ラ、ルシ、ウス……」
僕は誇らしい。前に進む勇気をくれた人がいたこと、それらを命を懸けて守り抜けたこと。そして何より……
「うぅ、ぐす……うわぁぁぁぁぁぁん!」
死ぬことが怖い事なんだと、思い知ることが出来たこと。
 




