酔いと問答のペシミズム1
ラビンスキーはハンスにもらった檸檬を齧りながら、唸り声を上げた。ルカはいつも通り愉快そうに笑っていたが、アレクセイはどことなく辛そうだった。時折襲ってくる吐き気に首を垂れる様は、自分の若い頃にそっくりだ、ラビンスキーは檸檬の酸味に思わず顔をゆがめながら、そんなことを考えていた。
とはいえ、ラビンスキー自身もひとのことが言える立場でもなく、軽い二日酔いなのか調子が優れない。机の上に新たに並べられた資料は、ムスコールブルクの都市計画に関する調査書と、ルシウスの論文を簡単にまとめたものだった。
ほんのりと酒の香りを漂わせるルカはかなりテキパキと書類の処理をしており、時折さりげなくアレクセイの分もこなしているらしかった。ラビンスキーは今日の午後、ルシウスにあいさつに回ることとなっており、その前に簡単にルシウスについて調べることにしたのだった。
ハンスは相変わらず孫の手を片手に、複式簿記の帳簿に頭を悩ませている。アレクセイは掃除に行くために体を起こそうとするが、いかにも辛そうであり、時折嗚咽の様なものさえ聞こえてくる。
朝の陽ざしが窓から差し込む頃、教会の鐘が市場の開催を知らせる。のっそりと立ち上がったアレクセイの後姿を見送った後、ラビンスキーは初めにルシウスの論文のタイトルに目を通す。
「魔法科学」……このオリヴィエスにおいて、魔法とは超自然的な神の所業の一つであり、最高神オリヴィエスは雷と農耕をつかさどる神である。そのオリヴィエス神により与えられた魔法は、既に人々の生活の一部となっている。そんな神を讃えるため、コランド教会の礼拝堂には、雷のモニュメントが飾られているらしい。そして魔法を発現させる方法が魔術であり、魔術とは神が魔法生物に齎した第三の恩恵であるとされている。
そんな思想を根底から覆してしまうのが、魔法科学である。曰く、魔法は物理的現象-即ち科学であって、神の恩寵ではない、よって魔術は科学で解明できる、そして神の第一の恩寵たる奇跡は魔法であって、つまり科学で解明できるとする。異端の法は時折大きな論争を巻き起こし、教会の反発を受け続けている。
それでも大学が手放そうとしないのは、魔法科学と神学は相反するものではないとする思想のためである。時折、「魔法諸学は神学の婢」という言葉を学会で耳にするのは、教会が単に反発しているためではなく、それらを含めて神の恩寵の結果であることを暗に示しているのだという。
ラビンスキーにとってはいまいち理解しがたい思想が時折顔を出すのは、すでに科学に染まりきった自身の神秘性の欠如ではないか、ラビンスキーはページをめくりながらそんなことを考えていた。
一つ一つの言葉をかみ砕き、パズルのように読み解いていくと、ルシウスという人間が類稀なる才能の持ち主であることが分かった。現代社会にも通ずるような実用的な技術に関する言及もあり、思わず声を上げるような発見もたびたび散見される。しかし同時に常人ではとても言葉にできないような冷酷さで信仰というものへ苦言を呈している。
教会の鐘が響き渡り、正午が訪れたことを告げる。ラビンスキーは凝り固まった肩をほぐし、大きな欠伸をする。ルカは大きく背伸びをした。窓の向こうには益々盛況し始め、露店商が見えないほどの人の往来ができていた。
ラビンスキーは書類をまとめ、仕事机の引き出しにしまった後、三人に軽い挨拶をした。
「そろそろ、行ってきます」
「気を付けてくださいね」
アレクセイが言う。ラビンスキーは短く礼を言って、外へ出ていった。
役所を出てすぐのところにある大学に赴く。白い木造の建物は相変わらず静かに佇んでいた。
ノッカーでドアをたたくと、金属のぶつかる鈍い音が響き、中から事務員が一人現れる。ラビンスキーを見た事務員は、一瞬戸惑ったように目を逸らしたが、すぐに対応を始めた。
「どのようなご用件ですか?」
「ルシウス教授は御在学でしょうか?」
事務員は扉から少し顔をひっこめた後、すぐに顔を戻した。
「研究室に見えますね」
「有難うございます」
ラビンスキーが礼をすると、事務員は扉を大きく開く。同時に、ラビンスキーの眼前に学生の集団が往来している階段が現れる。一度見たときは質素に見えた内装も、人の往来が黒ぶちの模様のように見え、彩を添えているように見える。ラビンスキーは前回同様に廊下を歩き、かなり年齢層の高い人が歩く奥まった場所まで入っていく。ここまでくれば静かなもので、蝋燭の明かりにたまに講師らしき人が往来する程度で、依然来た時と印象が変わることはなかった。
ラビンスキーは一番奥の扉をノックする。ノックの音に中の人が飛び上がるような音がして、ガタガタと扉に近づいてくる。扉から顔を出したのはユウキだった。
「あぁ、ラビンスキーさん。どうしたの?」
「ルシウス先生にご挨拶に」
「ちょっと待って」
ユウキがそう言って扉を閉ざす。ルシウスの眠そうな声がかすかに聞こえ、億劫そうに机から腰を上げたらしかった。
「はいはぁい」
間延びした声が近づいてくる。ガサガサと紙をかき分ける音も同様だ。扉が開かれる。そこにいたのは頭を掻きながら眠そうな目をしたルシウスだった。
「今日は、ビジネス?それとも、遊興?」
「前者です」
ルシウスの目が開く。細長く、鋭い目だった。微笑みはそのままで、薄暗い研究室がその全貌を見せる。
「どうぞ」
「あ、れ……?」
机の上に置かれた巨大なフラスコの中に、小さな人型の生物が浮かんでいる。その生物の臍には小さな管が取り付けられ、外部から水の様なものを吸い上げている。ラビンスキーは急激に血の気が引くのを感じた。
「それは気にしないで。僕の本業だから」
ラビンスキーは、部屋に溢れている古い書籍の匂いを勢いよく嗅いだ。




